2017年03月29日

最新情報と目次

『とうきょうあおまつぶ』は、東京青松の「小粒・粒より・粒ぞろい」な情報を扱ったブログです。

 東京青松の原点である演劇活動や、現在にも繋がる「引き算の美」というコンセプトについて、詳しく知ることができます。

●目次●

東京青松とは
 東京青松と演劇活動について。

東京青松理論
 ただ集まって「芝居やろうぜ!」ではなかった、東京青松という意志。

作品解説・植林一本目篇
 観客代表である星屋心一が、植林一本目『延長/絵美香』について解説。

作品解説・植林二本目篇
 星屋心一が解説する、植林二本目『たからもの』。

作品解説・植林三本目篇
 星屋心一が解説する、植林三本目『あなたへ』。

作品解説・植林四本目篇
 星屋心一が解説する、植林四本目『べつの桃』。

上演作品
 キャストやスタッフクレジットなど、公演のデータを掲載。


●最新情報●

▼東京青松はすべての活動を終了していますが、当ブログは資料として残します。
posted by 東京青松 at 20:32| 最新情報と目次

2009年08月12日

東京青松とは

 東京青松を貫くのは「引き算の美」という理念。

 現代日本の評価軸は「スキル型」。結果を重視する企業の姿勢が点数重視の教育を生み、需要に合わせてスキルを身につけることが近道であるというムードすらあります。

 しかし、そうした足し算の力学=外部装着型の成長論が個人の空洞化を招き、時代をも空虚なものにしているのではないでしょうか。

 人はつい、たくさんの機能が盛り込まれた携帯電話を選んでしまうものです。使わないままの機能があるにも関わらず、次もまた多機能携帯を手にとってしまったり、そのつもりはなくとも、店には多機能で高額な端末しか並んでいなかったりする。

 東京青松は、そうした時代のトレンドに対するカウンターとしての「引き算の美」を、様々な角度で提示していきたいのです。

 結果ありきの武装ではなく、その人の原点を見つめ直し、経過を大切にするしなやかな強さを身につけること。これは東京青松の変わらぬコンセプトであり、演者育成・演出の指針でもありました。

「東京青松とは何か」という質問に一言で答えるのは、今なお困難だと感じています。引き算の強さを提示し、必要とする人々に提供していくこと。個人の再構成こそが根本であるため、ジャンルは問わず、必要としてくれる人、賛同してくれる人の数だけ説明が増えていくのです。

 演劇活動から始まった東京青松ですが、追求したのは芸術でも興行でもなく、ひたすら「人」でした。その色褪せない確かさと厚みを、まずは篠田 青の連載『東京青松の道/東京青松から』でじっくりと味わってみて下さい。
posted by 東京青松 at 02:10| 東京青松とは

2007年11月01日

盆栽三鉢目


2007年11月1日(木)〜4日(日)
荻窪 アール・コリン

@想像特撮シリーズ『アオマツマン』
第二十三話「故郷は何処」

A『再現の日』

B『みんなで話そう!』


企画・脚本・演出:篠田 青
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2007年08月01日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 目次

 2010年10月で最終回を迎えた、星屋心一による最後の解説です。

 東京青松の植林四本目『べつの桃』について、星屋心一が解説します(また、記事ごとの日付は便宜上のものであり、実際に書かれた日時とは異なります)。

予告 「『べつの桃』を論じることは」
一章 生きている空間の中で(1)微動を伝える演技空間
一章 生きている空間の中で(2)微動する心身という空間
一章 生きている空間の中で(3)無微動の心身という空間
一章 生きている空間の中で(4)いのちという心身空間
一章 生きている空間の中で(5)笑いが生む共鳴空間
一章 生きている空間の中で(6)フィクションが与える世界という空間
一章 生きている空間の中で 章末 解放された無辺の空間
二章 心の起点の時間とともに(1)無防備で無傷な時間
二章 心の起点の時間とともに(2)「真実の時間」vs「心の起点の時間」
二章 心の起点の時間とともに(3)孤独という時間
二章 心の起点の時間とともに(4)時間たちのせめぎ合い
二章 心の起点の時間とともに(5)約束が共有された時間
二章 心の起点の時間とともに(6)パラレルの時間の一つを生きること
二章 心の起点の時間とともに 章末 信に立つものの冒険
三章 世界を更新すること(1)等身大の信によって
三章 世界を更新すること(2)名づけによって
三章 世界を更新すること(3)孤独を分かち合うことによって
三章 世界を更新すること(4)救うことによって
三章 世界を更新すること(5)プレゼントによって
三章 世界を更新すること(6)世界を失うこと
三章 世界を更新すること 章末 世界を再建すること
NEW本文への注釈として
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2007年07月31日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 本文への注釈として

 雲は大気現象である。ひろがる空間と時間のリアルによって生起する。私は『べつの桃』を雲のように美しい作品と感じる。ここには、ひろがる世界のリアルを集約させたいのちがあるだろう。だからこそ、いのちの一挙手一投足がまぶしい。『べつの桃』の美しさは、私にとってこのようなものだ。

 その美しさについては、ほとんど書けなかったと思う。私の論述は、雲を大気現象のプロセスとして記述する、無粋かつ不完全なやり方だった。ただ、この散文的な作業で試みたことが一つある。美しさと感じるものが恣意でなく、価値ある実質に基づくという証明である。

 本文は一章が演技論、二章がフィクション論、三章が作品論という構成を持っている。私は東京青松の「芸術ではなく、人間の可能性を追求する」姿勢の意味を理解したいために、技術・虚構・作品の可能性の先を記述しようと試みた。このことによって、ある水準の文章が書けたと自負している。東京青松に感謝を捧げる次第である。

 これ以後に東京青松について書く予定はない。振り返って、私は私自身の怠惰を思う。東京青松の作品に価値を認める以上、私は一人でそれを書くべきだったかもしれない。「とうきょうあおまつぶ」のために書かれたという文章の事実が、馴れ合いと感じさせるゆるみを生じさせた気がする。孤独であるいまこそ、私は東京青松を観た現実と向きあわなければならない。

 最後に、『べつの桃』というタイトルについて触れる。「桃」は一光のアイデンティティではない。そして、彼はついに起源を知ることはなかった。だとすれば、一光のアイデンティティは、起源でなく仲間や家族と立つ場所から生じることになるだろう。だから、『べつの桃』は地球だと解釈できる。彼らは、起源の意味を知らない私たちと同じ場所に立ち、まばゆいいのちをつむいでいたのである。【目次へ】
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2007年07月30日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること 章末 世界を再建すること

――一光:さあ、ここだ。
  心太:……信じられませんね。
  一光:うん。
  心太:何かを見つけられたんでしょうか。
  一光:見つけたというよりも、なんだか、私自身がみんなに見つけてもらったような気がするよ。(十七場)


 彼らは帰途についている。照助とお風はすでに彼らが出会った場所で別れた。そしていま、一光は心太と別れようとしている。別れに際して、彼らがどんな話し合いをしたかは分からない。一光が別れることを主張したのは想像できる。彼は別れによって、これ以上仲間のいのちを軽んじることがないようにする。そしていま、彼らのなした「世界の更新」は思い出のように振り返られる。

 私も振り返ろう。「微動する空間」「心の起点の時間」「世界の更新」の三つキーワードによって私は『べつの桃』を論じた。これらは全て向かいあう人間たちに起きる現実的な経験である。「微動する空間」で他人を慈しむリアルがある。そのリアルが他者と生きる「心の起点の時間」に人を立たせる。「心の起点の時間」に基づく他人への行為が、自分に返る可能性を生きることで「世界の更新」は完了する。

 少なくとも、『べつの桃』の登場人物たちがこのようないのちを開いていたのは間違いない。だがいま彼らは、世界の更新を思い出のように振り返るばかりだ。心たちが実現した世界は、それぞれの心に帰ってそこを終のすみかとするようだ。結局、世界の更新は心の描いた理想でしかなかったのだろうか。それは現実に無力な理想でしかなかったのか。

 そうではないと『べつの桃』の登場人物が教えていた。彼らは「大いなる時間」の与える現実の危機の一つ一つを乗り越えていたのである。彼らは互いに向かいあうことで貴重ないのちをつむいでいたのだ。もちろん、一光がその世界を致命的に傷つけたのも事実だ。だが、その事実は彼らの危機として捉え直すこともできる。それが危機ならば乗り越えるための運動が始められるのである。

 つまり、失われた世界は再建できる。もし、一光にその意志がないならば、他の仲間がそれを始めればいい。一光は自分を「みんなに見つけてもらった」と言う。しかし、一光は何度でも「みんなに見つけてもらう」ことができるはずだ。更新された世界に対する等身大の信によって、仲間たちが一光の心を打つための行動を開始することができるならば。

 これは可能性の話である。彼らが世界を再建する保障はどこにもない。例えば仲間が心で向き合おうとしても、一光が応えないこともある。世界だと思えたものはすでに孤独な心に帰ってしまった。愛するものとの心の断絶を体験するかもしれない。ここに最大の恐怖がある。このとき、人は心に収めておけばうやむやにできた世界の喪失を生きなければならない。

 だから世界を再建する行為は賭けとなる。これは他の賭けと異なり自らの勝利のために行われない。愛するもののために。世界のために。愛の中で拓いた世界への等身大の信に従って、使命と感じるものを全うする。これが人間の冒険である。この冒険の中で人間が実現できることがあるだろう。それは、無数の空間の一つと、「大いなる時間」に対する一瞬とを、単一の太い意味によって生きることである。

 引用は略す。心太、照助、お風は、このように賭けたのである。【次を読む】
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2007年07月29日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(6)世界を失うこと

――一光:一人でも逃げられればいいと思っていたのに、四人揃って帰れたんだ。これでいい。
  心太:嘘でしょう。
  一光:ん?
  心太:上陸のとき、一人で逃げてもいいって言ってたけど、ありゃあ嘘です。一光さんは、いざとなったらみんなを連れて逃げる、誰一人見捨てず逃げると思ってたじゃないですか。
  一光:よせ。結局みんなに助けられた私だ。これ以上恥をかかせないでくれ。
  心太:いや、恥ずかしいことじゃない。そういう一光さんに惹かれて集まったからこそ、みんなで帰れた。あっしはそう信じてます。
  照助:そうだな。
  お風:そうだよ。
  心太:素晴らしい大将だ。
  一光:……。(十四場)


 鬼ヶ島での鬼征伐は失敗する。後衛に退いていた偵察役のお風が、最初に心太、次に照助、最後に一光を見つける。お風が「大キジの秘薬」を与え、彼らは命を吹き返す。お風は心太、照助とともに一光を連れ帰る。引用はその後の場面である。彼らはいま舟の上にいる。

 私は「鬼とは何か」や「『桃太郎』と一光たちのつながりとは何か」という問いに答えられない。それらが「大いなる時間」の法則であるとしか言えない。一光たちは鬼征伐を試みることでその「大いなる時間」に加担した。そして、「なぜ一光たちが鬼征伐に失敗したか」も答えられない。「桃のようなもの」や「きびだんご」のようなものなど装備の不足か、「逃げてもいい」という心理が原因かもしれない。

 少なくとも、「大いなる時間」はこの失敗を想定している。そうでなければ「桃太郎」がパラレルである理由がない。すでに彼らは役目を終えた。「大いなる時間」から切り離されているこのいま、彼らが生きはじめる時間に注目してみよう。

 心太は上陸した過去の時間を想起する。そこで語られるのは一光の真心である。一光との出会いによって一変した彼らの人生の「心の起点の時間」を語っている。しかし、一光はその言葉を受けとることを拒否している。「みんなに助けられた」ことが「恥」だからではない。「みんなを助けなかった」ことが「恥」であるからだ。そのことは、お風が一光を最後に見つけた事実から推察できるだろう。

 一光は敵陣に最も深く攻め込んでいたのである。もちろん、当初から一光が仲間の命を第一に考えていたことは間違いない。ならばなぜ一光は救援に回らず敵陣に入っていったのか。おそらく、それは瞋恚(しんい・激しい怒り、憎しみ)のためだと思われる。一光も深く傷を負っていた。仲間を助ける力が失われたと感じたとき、復讐心が一光を支配したということが考えられる。それは自分を死に至らしめるほどの瞋恚である。

 だから一光は「恥」を抱えている。自分ばかりか仲間を死に至らしめる瞋恚を生きていたからである。ここにはっきりと背信がある。真剣に生きて仲間の生命を軽んじたこと。このとき、一光は彼らと生きる世界を致命的に傷つけたのである。仲間たちが語る「心の起点の時間」を一光が拒否するのは、それを分かち合う資格がないと自省しているからである。

 この自省を語ってはいけない。語るそばから仲間は許してしまうだろう。このとき、仲間は自分たちの生よりも一光を重く扱うことになる。それが一光は許せない。すでに仲間の生命を軽んじた一光にとって、仲間の許しは自身の過失の反復である。「心の起点の時間」が語られるほどに、もはやそこにいない自分が意識される。それは仲間と世界をこよなく感じるほどにそうである。このようにして、一光は世界を傷つけ、そこに生きるリアルを失ったのである。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇

2007年07月28日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(5)プレゼントによって

――一光:みんなは、それでもただ「イヌ」「サル」「キジ」と呼んでくれと言う。その気持ちも少しは分かるつもりだし、尊重したいと思う。しかしな、私にとって、みんなは特別なのだ。一人でさまよう旅にするつもりが、こんなに賑やかに、楽しく来ることができた。だから、だからな。
  キジ:うん。
  一光:その、もし嫌でなければ、みんなに名を授けたいのだ。(七場)


 一光にとって、それはいま初めて思いついたことではない。「これは前から考えていたことなんだが」と一光は前置きする。だからそれは、仲間と過ごす固有の時間から生まれた発想である。その固有の時間に基づく発想こそ、パラレルに存在している時間とべつの現実を確認していくことになるだろう。

 一光のプレゼントは仲間たちに受け入れられる。イヌは「心太」。サルは「照助」。キジは「お風」。この「拙いながらも、懸命に考えた」名前が仲間たちを感激させている。もちろん、プレゼントだけでない。それを与えようとする心が嬉しいのである。その心は、自分が享けた現実を仲間と分かとうとしている。好意が目指すのはいつも固有の現実の交換である。

 さらに、このプレゼントは名前である。だから、プレゼントは「固有の現実を与えられる」レベルにとどまらない。与えられた彼ら一人一人の現在として生きはじめるのである。

 心太、照助、お風の現在を想像しよう。与えられた名の中に一光の心が込められている。その名を生きようとする意欲には、二方向のエネルギーがあると形容できる。一つは、与えられた名を新たに生きようとする利己のエネルギーである。もう一つは、与えてくれるものに何かを返すことを使命とする利他のエネルギーである。このように形容したが、それは一であって二ではない。

 好意という現実の交換の中で、利己/利他の区別は意味をなさなくなる。改めて問おう。この自他へ向かう過剰なエネルギーはどこから湧くのだろうか。「世界から」が主観的に最適な解答である。自分でもない。他人でもない。その両方である広がりから得られるエネルギーの淵源は世界というにふさわしい。これが世界の更新の感覚である。

 世界が与えたパラレルという傷はもはやない。過剰なエネルギーを発するプレゼントによって、世界自体が書き換えられているからである。ところで、もし好意が普遍的な感情ならば何が言えるだろう。おそらく、それは次のことである。固有の現実を交換し世界を更新することも普遍的である。この普遍的なことがらが特殊と扱われるほどに、私たちの孤独は常態であるけれど。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇

2007年07月27日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(4)救うことによって

――一光:うん。お前たちはただの犬でもないし、猿でもないし、雉でもない。大イヌ、大ザル、大キジだ。
  サル:なんだよ。今さら。
  イヌ:聞けよ。
  一光:みんなは、それでもただ「イヌ」「サル」「キジ」と呼んでくれと言う。その気持ちも少しは分かるつもりだし、尊重したいと思う。しかしな、私にとって、みんなは特別なのだ。一人でさまよう旅にするつもりが、こんなに賑やかに、楽しく来ることができた。だから、だからな。
  キジ:うん。(七場)


 引用のこのとき、彼らはすでに「桃太郎」の物語の噂を聞いている。

「桃太郎」の噂に対する反応を見ていこう。サルは「下手すりゃ偽物扱いだ」と「桃太郎」との優劣にこだわる。キジは「あたしたちはあたしたち」と正論を言う。とはいえ、それはサルの言葉に対する否定にとどまる。イヌは「『桃から生まれた桃太郎』にしなかったお父上は、さすがでしたねえ」と集団の中の個性を見ようとしている。

 このように彼らの反応はさまざまである。しかし、「桃太郎」の噂に対して、性急に結論を求める姿勢は全く同じである。つまり、彼らは同じように傷ついているのだ。彼らは自分の言葉によって性急に立場を決めようとした。そうせざるをえないほどに、「桃太郎」の噂は衝撃を与えているのである。

 おそらく、「真実の時間」を暴露する「桃太郎」の噂は一光にも衝撃を与えただろう。だが彼は性急な推測や結論に飛びつかない。「本当だろうか」「確かめたいという気持ちは強いが」と慎重に真偽を問題にしている。ここに等身大の信がある。しかし、あるときから「桃太郎」の真偽より重要な信が意識される。

 一光には仲間の受けた衝撃こそが信なのである。「桃太郎の物語」が衝撃を与えるこのとき、彼の意識を占めるのは、同じように衝撃を受けているだろう仲間たちである。まず、彼らを救わなければならない。一光は仲間のために「私にとって、みんなは特別」だと伝えるささやかな行為をなそうとする。

 ここに精妙な現象がある。というのも、一光はいつのまにか「桃太郎の物語」が与える衝撃から逃れているのだ。なぜか。それは仲間の受けた衝撃を救おうとすることによってである。「他人を救うことは自分を救うこと」。この普遍的に存在するだろう現象に対し、簡単な考察を加えておこう。

 一光は仲間を救おうとすることによって、自分が救われる世界のありようを実感している。つまり、他人を救おうとする心によって、「自分が救われる世界の可能性」を世界に上書きしているのである。私は同型の考察を前回で述べている。ここにもまた世界の更新があるのだ。

 仲間を救おうとする瞬間に、一光は自分が救われる世界に立つ。もちろん、それは実現されていない救いである。しかし、その心の可能性は「心の起点の時間」となる。心が発する基軸への肯定によって、新たな世界は実感されている。世界の更新という精妙な現象が、パラレルが与える傷から一光を救うことになったのである。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇

2007年07月26日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(3)孤独を分かち合うことによって

――キジ:あたしだってさ、楽しくふざけ合いたいだけってんじゃないんだ。仲間が欲しいんだよ。一緒にいたい。その上で怖い目に遭うんなら、少しは覚悟だってできるさ。
  一光:そうか。……よし、気がつけばはぐれ者ばかりの旅だ。一緒に行こう。
  キジ:ほんとかい?
  イヌ:よろしくお願いしますよ。
  キジ:ありがと!
  一光:サル。
  サル:……。
  イヌ:お前、泣いているのか?

        泣いている。

  サル:うるせえんだよ、お前は! 畜生、俺は女は苦手だし、扱いも下手だがよ。あんたに寂しい思いはさせねえよ。(六場)


 彼らはみな「はぐれ者」である。「桃のようなもの」の中にいた桃太郎は言うまでもない。イヌ、サル、キジもまた、動物界で長生し変異した生物である。彼らは大イヌ、大サル、大キジと呼ぶべき存在でもある。頂点に立つことはできても、もはや仲間の群れと交わることはできない。

 その「はぐれ者」たちが「一緒に」旅することになる。彼らは「はぐれ者」の孤独を分かち合うことになるだろう。ところで、孤独を分かち合うこととは何だろうか。いま、私はポップソングの歌詞のような問いを立てている。しかし、この問いこそ私たちがナイーブに求めるものを伝えるだろう。

 孤独を分かち合うことは、単に孤独が消えることではない。自分より大きな存在に受け入れられ解消することでもない。まして、傷をなめ合うような小さな連帯を持つことでもない。私たちは時に孤独を分かち合うことをナイーブに求める。だが、この行為の中に含まれる力を実感することは難しい。

 引用から考えてみよう。サルはキジの「寂しい思い」に共感する。同時にそれを埋めたいと思う。つまり、キジの「寂しい思い」が埋められるなら、サルは自身が「寂しい」存在と感じた世界は間違いだったことになる。つまり、サルは「寂しい思い」を感じた現実とべつの現実に踏み出しているのである。

 そう。孤独を分かち合うことは世界の更新である。微動する生命への共感を機軸として、他への行為はそのまま自分自身へ向けるべき行為に転じる。ここに世界の意味の更新がある。絶対的な孤独の世界はもうない。固有の現実の交換によって、孤独が埋められるべき世界へと転回されているのである。

 サルが泣きながら約束する理由は明らかだろう。新たな世界に立つ感動の中で、それが与える使命を口にしているのである。このような感覚を生きる幸福というものはある。『べつの桃』の「はぐれ者」たちは美しい。私たちがナイーブに求める孤独を分かち合う行為の中にある、世界の更新の力を純粋に受けとめているからである。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇