2005年07月15日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その3 「解放の始まり」

 小説を原作にした映画を演劇化する。つまり、小説と映画の両方を原作にして脚本を書くことになります。

 最初の作業は(かなり大雑把な説明ですが)、まず二つの原作から台詞を抜き出すこと。ここですでに、演劇がいかに特殊なものかが分かります。小説なら文章、映画なら風景の映像から始めることもできますが、演劇は役者を出さないまま始めるのが困難なのです。もっといえば、台詞(ナレーション含む)で始めるのがまず当たり前。

 以前述べたように、演劇には映画のような情報量は組み込めません。小説のように、説明で背景や事象を構築していくこともできません。登場人物のやりとりだけで物語を進行させなければならず、それは大変な制約として演劇化の前に立ちはだかるのです。

 ところがどうでしょう。抜き出した台詞を並べてみると、それはすでに物語になっています。もちろんそのまま演劇にできるというような形ではありませんが、登場人物たちは確かに生きているのです。台詞の後ろに生活があり、愛情がある。このことに気づいたとき、僕の演劇の解放が始まりました。

 物語は登場人物の感情や行動によって創られるものであり、背景や小道具は情報にすぎません。それらの情報は心理のきっかけや条件にはなりますが、受け手が興味をもつのはあくまでも登場人物の反応であるはずです。

 例えば、『桃太郎』。きびだんごや犬・猿・キジの色や大きさのイメージには、かなりの個人差があるはずです。鬼ヶ島の地理的・地質学的な情報や鬼の生息数などもそうですね。

 桃太郎に限らず、語り継がれてきた物語はシンプルで、想像できる隙間がたくさんあります。注目していただきたいのが「語り継がれる」という点で、物語には必ずしも挿絵が必要でないことが明らかにされています。生き生きとした語り口も、情報というより「受け手の想像力を喚起するための技術」と捉えるのが正しいように思えます。

 物語に必要なものは、お話と想像力である。このことは、本当は誰もが知っているのではないでしょうか。それを思い出しながら、現代の物語のあり方について考えていきます。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 東京青松理論