2005年07月18日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その6 「観客を信じること」

 多くの演劇は、情報量の少なさを欠点と捉えているように思えます。役者をバタバタと動かしたり、やたらと言葉を並べ立てることで、刺激や情報量を増やそうとしているのではないでしょうか。

 笑わせるために無意味なギャグや動きを挿入して、「観客を楽しませるため」だと言い切る演劇は無数に存在します。そのような演劇はさらに、「観客を飽きさせないために暗転を減らし、必要な暗転でも極力短くするべきだ」と言います。観客のために場面転換を極力減らし、登場人物の出入りだけで物語を展開させる。観客のために笑える要素を多く盛り込む。……観客とは、そんなに愚かなものなのでしょうか。

 現在の演劇には、観客の想像力というものが全く想定されていません。そのような前提で作られる演劇のほとんどは、ただひたすら、押しの一手。観客に訴えることしか考えません。観客に伝えるべきテーマを念頭において書かれた脚本、観客に伝わりやすいように訓練された役者の演技。映像に慣れた僕たちが思わず目をそむけたくなるような押しの強さこそ、演劇における表現欲なのです。

 演劇の最大の特色は、情報量の少なさではありません。目の前に生身の人間がいて、物語の登場人物として存在していること。物語世界と観客とを物理的に隔てるものが何もないのです。観客である僕たちは、人間のことをよく知っています。生身の役者の言動に潜む違和感には、思った以上に敏感なのです。小劇場ともなれば、細かい仕草や表情まで見えてしまうでしょう。そのような状況では、記号化された台詞や演技など無意味です。

 演劇は伝えるのではなく、ただ見てもらえばいいのではないでしょうか。物語がそこにあり、登場人物は生きている。それだけで充分なのです。説明的な台詞などなくとも、材料を散りばめておけば観客は想像し、それぞれのやり方で物語世界を膨らませてくれます。例えば、公園での場面。観客は自分の持っている公園のイメージを使って、登場人物たちの背景を思い描いてくれるでしょう。街の場面では、よく歩く街をあてはめてくれるかもしれません。劇場から出て、その街を歩くときの気持ち!

 観客の自由は、背景を思い描くだけではありません。映像なら決められてしまう視点(カメラワーク)も、小劇場なら自由自在なのです。場面全体を見るのか、一人の登場人物を見つめるのか。顔をアップで見るのか、それとも雄弁な手元を見るか。そこに物語があれば、観客の積極性次第で演劇はどんどん広がっていきます。

 想像する自由を手に入れた観客なら、暗転も楽しめるはずです。本のページをめくるときにも似たわくわく感で、真っ暗な時間を過ごすでしょう。場面転換のための物音を聴きながら、次はどんな場面になるんだろう、物語の中ではどのくらいの時間が経つのだろうと、照明が舞台を照らすのを待つのです。そのような暗転なら、創り手は恥じる必要もありません。開き直ってのんびりとというのではいただけませんが、お話のために堂々と場面転換をすることができます。

 物語とは、お話と受け手の想像力によって創られるもの。それを信じたとき、演劇は解放されるのです。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 東京青松理論