2005年07月19日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その7 「脚本家の仕事」

 演劇を見に行くというのは、非日常を楽しむことだと思います。僕が観客であれば、お金を払ってまで日常を見たいとは思いません。宝くじを買って三億円が当たるまでの「話」より、犬に促されるまま掘ってみたらお宝がざくざく出てきたという「お話」を見たいのです。僕には、幼い頃から数々の物語に囲まれて育ったという実感があります。良質な物語に触れたときの、心が丸くなるような感覚。あの優しさは人の世に必要なものです。それを知る者の演劇は、自然と物語(=フィクション)を目指すでしょう。

 フィクションを楽しみたいからといって、全編にわたって嘘をやられれば観客はうんざりしてしまいます。想像力を信じるというのは、観客に寄りかかることではありません。物語世界にすんなり入ってもらい、上演中だけ嘘を信じてもらう。そのために、演劇も表現欲を取り去る必要があるのです。

 ほとんどの演劇は、脚本家が脚本を書くところから始まります。まず、登場人物の台詞は「口語に近いもの」、または「物語世界における口語として違和感のないもの」であることが重要でしょう。極端にいえば、現代劇で「いやはや、こいつはたまげたわい」、時代劇で「マジかよ、超びっくりしたんですけど」という台詞は避けるということです。脚本家はそれだけ台詞に気を遣わなければなりません。ただし、口語にとらわれすぎるのも考えものです。現代の口語の語彙(ボキャブラリー)の貧困さはご存知の通りで、正直に書きすぎると物語全体が平板になってしまう危険性があります。また、時代劇の口語に至っては正確なところが分からないのですから、それらしく聞こえればそれでいいということになるでしょう。あくまでも違和感のない台詞であることが大切なのです。

 脚本家はさらに、登場人物の行動にも気を配らなければなりません。登場人物が突飛な行動をとり続けると、観客の心は離れてしまいます。困った事態に直面したときに頭をかきむしりながら「困った困った、どうしよう、どうしよう」とわめき、グルグルと走り回るような描写には、そうそう耐えられるものではありません。以前述べた「演説めいた長台詞」なども、これに似た違和感なのです。クライマックスにあらぬ方向を向いて、作品のテーマを暗唱するような人はいません(少なくとも、僕はお目にかかったことがありません。そもそも、クライマックスや作品って何でしょう?)。登場人物に作品のテーマを語らせることが、いかに奇妙かが分かりますね。

 ある登場人物の台詞や行動が他の登場人物の反応を生み、その連続が物語になっていきます。反応の連続に参加してしまうから、観客は感情移入するのです。ところが、このことに気づいている脚本家は多くありません。だから、思いつきやギャグばかり並べ、最後に急に真面目なこと(テーマ)を言わせるなどという脚本が書けてしまうのです。観客をほったらかしにして、言葉にすべきでないことまで説明してくれる、この独りよがりこそが脚本家の表現欲なのです。表現欲ばかりの脚本で上演し、「笑いあり、涙あり」をうたっている劇団は無数に存在します。

 演劇の大部分は脚本によって決定されます。脚本家は物語と観客(の想像力)の関係をきちんと把握し、表現欲を捨て去らなければならないのです。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 東京青松理論