2005年07月22日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 エピローグ 「あとがき」

 俳句や「わび・さび」など、「引き算の美学」を楽しめるのが日本人であり、その繊細さは間違いなく世界に誇れることです。しかし今の世の中には、足し算の無駄ばかりが目に付きます(「大盛り礼賛」とでもいいましょうか)。僕がこの連載で取り上げてきた「表現欲」も、この足し算志向の産物だといえるでしょう。

 これでもかと押してくる足し算の文化は、受け手である僕たちの思考を停止させ、コミュニケーションを閉塞に追いやるものだと考えます。どんどん便利になっていく世の中にも、そうした危険が潜んでいるような気がしてならないのです。映画やTV、漫画にゲームにインターネット。各地の人が手軽に共有できる「絵付きの物語」が増えていく中で、演劇ができることとは何なのでしょう。

 情報化社会によって、娯楽も多様化してきました。細分化の名の下に、空威張りの個性で武装するような生き方が増えています。「少数派=個性的」という勘違いでは、平均化を加速させることにも気づかぬまま。演劇も同じです。自身がそうした狭さに飲み込まれているとは考えもせず、表現欲の生産に躍起になるばかり。これが現状ですから、「どこまでも生で、供給範囲も狭い」という独自性を欠点と捉えてしまえば、演劇は存在意義を失ってしまいます。

 ここ数年のプロ野球の衰退は、企業の道具としての限界がきたことの表れなのでしょう。旧式の球団は弱体化し、地域密着型の球団に成功の兆しが見えてきました。青松はこれに学びたいと思うのです。創り手の快感である表現欲をふるい落とし、現在の演劇ではなく、物語そのものを愛する人に。平均化する世の中に不足を感じている人に。東京で、青松でしか楽しめない豊かな時間を提供していきたい。素敵な物語なら、いずれ伝播していくでしょう。そもそも物語とは、そうしたものであったはずです。

 現行の演劇を嘆きつつも、演劇を選ぶこと。この一見矛盾した行為には、多くの困難が立ちはだかります。演劇をやりたい人というのは足し算の演劇を好む人であり、そうした人に青松の目指す「引き算の美学」を説明するのは想像以上に難しいのです。出演交渉の際にも、「この脚本なら大丈夫だろう」などと思って臨んだら大間違い。役者さんの想像力も十人十色。引き算で書かれた脚本に「?」が点灯してしまう人もたくさんいます(実際、あるゲスト出演者に「『延長』のラストってああいう風になると思ってなかったんですよ〜」と本番直前に言われ、愕然としたものです)。

 また、僕はプロデューサーですが、脚本・演出・出演など、多くの仕事を兼任しています。好きでやっているとしても、これは激務です。忙しくなってくると、「分かっているだろう」が増えてきて、説明不足になってしまうのです。周りも僕の忙しさに遠慮して、曖昧な理解が山積していくという事態を招きかねません。そういうとき、じっくりと読み返せる「青松ルールブック」のようなものがあればいいなと思い、この『青松の道/青松から』を企画しました。そして、受け身のままでは見落とすかもしれない「引き算」の解き方を、客観的に書いてもらえたら。そう思って、星屋心一に『客席から』の執筆を依頼しました(あちらはまだまだ続きます!)。

 これからの青松に必要なことだとしても、植林二本目『たからもの』の脚本執筆と同時進行というのは、これまた激務でありました(書いているときはとにかく必死で、そのことにはわりと鈍感でいられましたが)。毎回原稿をチェックし、感想を伝えてくれた星屋、弟と妹の三人。ホームページを管理してくれている山根さんはじめ、緊張しながら読んでくれた青松の三人。そして、これを読んで下さったみなさん。すべての支えに感謝して。【続けて星屋心一の『東京青松の道/客席から』を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 東京青松理論