2005年07月30日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その5 「余談」

 前回掲載した手紙、あれをきっかけに、会ってじっくり話でもしようじゃないかということになった。ずいぶん親交のなかった篠田青と話すので、会話が途絶えることや、退屈に感じてしまうことをおそれた。が、結果としてそれはまったくの杞憂だった。

 印象的だったのは、「星屋はむかし口に手をあてて考えこみ、ときに口に手をあてたまま話すことがあった」という指摘である。篠田青はそれが私の自信のなさの表れとして映ったということを、やや言葉を濁して語った。

 十年ぶりに彼と会ったといってもいいほどなのだ。そうした人間の「くせ」を覚えている篠田青に驚いた。彼は私と知りあった頃から人間をよく観察しているし、さらに相手の心理に踏み込んで理解するから記憶できるのだ。

 そして現在、その観察と理解は彼の演技に反映しているだろう。彼はどういうやり方で人間がリアルに動いているかを昔から熟知している。篠田青が「等身大のリアリズム」を役者に求める根拠は彼の人間把握にある。

 等身大を役者が演じることは本当に難しい。フィクションの場面に応じた「くせ」を生み出すことは至難だし、そうした身体の「揺れ」を切ることが演技だと役者は学んできているはずだ。単に難しいばかりでなく、それは一般的な演技の生理と矛盾してしまう。

 青松の最大の課題は演技だと私は考えている。青松のコンセプトはこの「等身大の演技」に始まるのだ。この演技法がある程度の完成をむかえないかぎり青松の演劇は完全には活きない。しかし、この演技はどのような方法で完成するのだろう?

 少なくとも現在、こうした疑問や可能性を感じさせてくれる劇団はほかにはない。私は青松を見つづけよう。そしてその演技の成否も確かめていこう。友情でも好意でもなく、私は新しく強いフィクションが見られるという期待を青松に寄せている。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林一本目篇