2005年07月31日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その6 「余談2・ディドロを読むこと」

「我々が朗誦するように人は話したことがあるのでしょうか? 王侯はちゃんと歩く男とは違った歩き方をするのでしょうか? 彼らは憑かれた男、あるいは狂怒した男のように身振り沢山に話すでしょうか? 王姫達は話しながらひいひい喉を鳴らすでしょうか?」(ディドロ『不謹慎な宝石』より)

 上の文章の作者ディドロは、18世紀に活躍した百科全書派の何でも屋の哲学者。演劇において、彼は「近代演劇の開祖」の一人とみなされている。上の文章でもその「近代リアリズム演劇」ぶりは確かめられる。彼の『演劇論』という著作の中には「第四の壁」(舞台と客席の間にある、想定上の壁のこと)の言及が既にある。『青松の道』の篠田青とも共通点があり、調べてみようと思った。その共通点とは上の「リアリズム」への健全な志向である。

 次のこの発言の「喝采されること」は篠田青の「表現欲」と読み替えてもいい。
「もし君が見世物にかかづらっていたら、俳優は一体どうなるのか? 君がこっちあるいはあっちに置いたところのものが、俳優のために考えられたものではないと言うことを彼が感じずにいると君は思っているのか? 君は見世物のことを考えた。俳優は見世物として観客に向かって演じるであろう。君は自分が喝采されることを望んだ。俳優は自分が拍手されるのを欲するであろう。」(『演劇論』・作り手の心構えをこと細かに述べた好著である)

 この引用で、私が意図することは次のことである。私たちが作り見る演劇も近代・現代演劇の範疇に含まれている。だから、ディドロが提起した問題と私たちは地続きであるのだ。この普遍的な問題に、いま再考がなされ新たな解決が提起されるべきではないだろうか? 近代演劇の演技法でさえ、篠田青にとっては「身振り沢山」に見えるようだ。本人は近代演劇の伝統を継承するつもりはないだろうが、彼が近代劇の普遍的な問題に現代日本人として取り組む姿勢は、私が演劇に求める批評性を備えている。

 この革新に対して否定的な見解を持つものにはまたディドロの引用を一つ送ろう。
「おお一般的法則の製造者諸君よ、何と諸君は芸術を識(し)っていないことか! 諸君が自分の法則を造るために準備している模範的な作品を生んだ天才をば、諸君は何てぽっちりしか持ち合わせていないのか! しかも天才はお好みあらばこんな法則などは勝手に破ることができるのだ!」(『演劇論』)

 この「一般的法則」を否定する新法則を、そして以下の「完璧に演じられた芝居」を私は望んでいる。そのことに飢えるためにディドロを読むことも一興である。

「乙:君は完璧に演じられた芝居を見たことがあるかね?
 甲:おやおや、そんなの覚えがないね。……しかし待ちたまえ。そうだ、時々つまらん作品が下手な俳優によって演じられたのを見たことがあるね。」(『逆説・俳優について』)

※ディドロの引用は旧字体である翻訳を現代かなづかいに改めた。引用者星屋の誤りについては、読者の指摘を待ちたい。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林一本目篇