2005年08月15日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 目次

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2005年08月14日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その20 「余談6・一人の弱さ」

『延長/絵美香』の男は弱い。こう文章を書き出すことを、二回目に植林一本目を観るときに決めていた。この事実をはっきりと述べなければ、作品の大切な実質を無視することになると思った。その弱さとは、恋する者のありのままを受け取れなかったことである。

『延長』のコージは、ハルカを結局「普通」の女の子として扱うことができなかった。『絵美香』のショウは、「にせもの」を自称するエミカに対して、「あなたは確かに存在している」という強い肯定を伝えずじまいだった。『延長/絵美香』の主人公たちは、こうした弱さを観客にあらわにする。

 しかしこの弱さは、転じて彼らの望みの大きさをも示している。例えば私たちは、自分が風俗嬢に恋をする事実を本当に受け入れることができるだろうか。私たちは、「夢」の中から現れた女のコを、幻としてしてではなく、現実の人間として愛することができるだろうか。彼らはそのことを真実望んだ。だからこそ現実の様々な試練が、彼らを苦しめ続けた。

 弱さを切り捨てることはたやすい。こうした「望み」とともに切り捨てればいいのだから。しかし彼らは、その「望み」を放棄しない。ここには「人は誰でも弱い」などという安堵はない。彼らは自身の「望み」と「弱さ」にいつまでも苦しめられている。二つの作品ともに、こうした思いが彼らの中で未整理なままラスト・シーンに凝縮する。この瞬間こそ、人の「心」そのものが舞台にあるかのようだった。

 ハルカもエミカも消えてしまった。現実という舞台に残るのは、「望み」と「弱さ」に揺れる一人の心である。その確かな重みを残して、『延長』と『絵美香』は幕を閉じた。「弱さ」というこの底部を扱わなければ、ここまで私が述べてきた『延長/絵美香』の貴重さも実質を欠いたものとなったはずだ。そのことに触れられたわずかな満足を得て、私は筆を置くことにしよう。
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2005年08月13日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 「その19 「余談5・ソフトクリーム事件(『絵美香』)」

 青松が暗転に物語を容れていることは既に述べた。その好例として、ここでは『絵美香』の「ソフトクリーム」のエピソードを扱いたい。

――ショウ:「ソフトクリームぐらいだよ。」
  エミカ:「ん?」
  ショウ:「外にあるいいもの。うん、ソフトクリームだけ。」

 エミカが触れることのない「外」の残酷さを、ショウはこう言って和らげようとする。だからこの発言は「食べたとしてさ、おいしいと思うのかな? 楽しい、とか。」「(アイスを)食べてみる?」という提案となる。この直後に暗転がある。そして、後になってエミカは「退屈じゃないよ。うらやましいのは、ソフトクリームだけ。」と、暗転で行われた二人の出来事にコメントする。どうやら、「ソフトクリーム」は食べられなかったようだ。

 それがどのように食べられなかったのか、と想像しよう。人が物を食べられないことには、一種悲惨な印象がついてまわる。さらにエミカが「にせもの」であるのだ。アイス(ソフト)クリームを食べる暗転の「場面」には、映像イメージとして思い描けないような無力な悲惨さが固着している。この失敗は、ショウとエミカの二人にとって決定的な事件であることは言うまでもない。

 ショウにとってソフト(アイス)クリームは、エミカが「外」に関わる手段として思い描かれた。食べられない現実に衝撃を受けただろう。が、何よりもエミカが「外」に触れられない事実を改めて告げたこと、自分の残酷な提案を責めたはずだ。

 そして「食べてみる?」という提案に「うん。」と答えたエミカも、ここで自身の存在の「現実」の衝撃が突きつけらた。しかし彼女は、そこからいち早く抜け出そうとしただろう。自分のためではない。ショウが自分を責めることを止めさせたいと思うはずだから。その事件を後に「うらやましい」の一語で語るエミカの台詞ではっきりとそれは分かる。目をそらせない事件をしっかりと受け止めていることを、ショウに伝えているのだ。

 この暗転の中のソフトクリームの「事件」は、以後も物語に影響を与えている。その引用はここでは控えよう。しかし暗転の想像をここまで期待した物語の進行には改めて驚いてしまう。観客に信を置く製作方針と、物語の密度の両方にである。

 ところで、このソフトクリームの「場面」に、私は性的な印象を強く持つ。セックスの隠喩だなどと言うつもりはない。二人に起きる致命的な重大事件さえも、「外」にはいつまでも秘密であり無に等しいこと。また互いのために対処しようとする愛情と無力さ。こうした印象が私にとって恋愛の中での性の場面と酷似してくる。

 この物語にはセックスは登場しない。だが、恋愛がセックスの場面で出会うような、心の揺れは確かに描かれている。また、もしそれを試みたら何が待ち受けているかは、ソフトクリームのエピソードから明らかだろう。私は以上の理由から、『絵美香』は大人が出会う恋愛の(性の)現実があると考えている。ここを超えて、彼らは互いを愛したのだ。


※この文章は、前回で述べた「誤読」を含む文章である。修正は「ソフトクリーム」と「アイスクリーム」の引用の区別を明確にした。『絵美香』を見た観客が暗転にどのような物語を読みとったか、いま強く興味を持つ。【次を読む】
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2005年08月12日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その18 「余談4・『誤読』事件」

 楽屋話から始める。実は前回の「TVを見るエミカ」は、今回に書くつもりだった。「TVを見るエミカ」の回には、やはり『絵美香』論の補足として「ソフトクリーム」と題した文章を載せるつもりでいた。全力をあげて文章を完成させたが、原稿は流れた(流した)。その理由がタイトルにある「『誤読』事件」である。

 私はそこで「エミカは物を食べられない」という前提で文章を書いた。その内容に対する返答で篠田青は「アイスクリームを含めて、二人は大抵の食事やおやつを楽しんだんじゃないかと思う」と言った。続いて、私の読解の理由をただちに察したらしく、「そういう考え方をするものか、と驚嘆させられたよ」と皮肉かどうかが判別しにくいメッセージをよこした。

 私は動揺した。この解釈の違いが何故生じたのかを検証した。連載原稿を自ら没にし、その検証のために篠田青に7000字程度の文章を送りつけてしまったほどである。公演直前のこの時期にそれは純粋な迷惑以外の何ものでもなかったはずだが、彼は丁寧かつ、思考を凝縮した返事を送ってくれた。私の攻撃的な文章とは大違いである。

 ここでは「誤読」に関する結論を書こう。私は『絵美香』の中で語られた「ソフトクリーム」と「アイスクリーム」を同じものと考えた。この小さな差異を同じと考えるか違うと考えるかで、正反対の読解が成立するのである。このことは連載の「その3」で述べた「青松の暗転には過剰な物語が詰め込まれている」という方法論に起因する。「舞台」で語られたことの何を踏まえるかで、暗転の物語が驚くほど変化するのである。

 篠田青はその変化について、「個人の読解の差で、それぞれの充実をもった楽しみ方があれば、それは豊かなことだと思う」と私に書いた。しかし、どんな作品でも無数の読み方がある以上、「充実をもった楽しみ方」がどういうものかが言葉の上で不明であると私は指摘したい。【次を読む】
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2005年08月11日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その17 「余談3・TVを見るエミカ」

 ――エミカ:「意識してるってどういうこと!? 大声出すわよっ。」
   ショウ:「違うでしょ。どこで覚えたの、そんなの。」

 引用のエミカは「女のコ不信をあおる女」というジョークを演じている。「どこで覚えた」のかは推測可能である。『絵美香』の物語全編を通じて、エミカは部屋の一歩も外に出ることはなかった。だからショウの知らない知識を「覚えた」のであれば、それはTVあるいはラジオなどのメディアでしかない。

 別の場面で映画『JAWS』を二人で見る場面があることから、エミカがブラウン管で「女のコ不信をあおる女」の情報を得た可能性が高い(バラエティ番組だろう)。ここで明らかになることは、エミカが一人でTVを見ていたという事実である。ショウが外出の間、彼女はそのように一人の時間を過ごしていたのだ。

 恋人の不在に、人の心は何を抱くだろうか。寂しさや、相手が帰らないかもしれない不安。あるいはそれを跳ね除けて恋人を笑顔で迎えようとする意志だろうか。そのどれでもあると言えるだろう。しかし、心は心としてあれ、人間は退屈な時間の進行の中で、必ず愛とは別の行動をしている瞬間がある。

 エミカが一人でTVを見る行為は、この「愛とは別の行動」だと言える。愛して待つ瞬間に、バラエティ番組を見ていること。ラブストーリーにおいて、一見怠惰にも映る瞬間だが、私はこのエミカを愛する。夢から現れたエミカは、ここで退屈な時間の積み重ねを生きる私たちと同じ存在なのだ。

 ちなみに、「女のコ不信をあおる女」のジョークをくれぐれも「演劇的ギャグ」と捉えてはならない。文脈を跳び越えて直接観客に向かう表現を、青松は採用していないのだ。以上のように、一つの場面、一つの行動の「理由」が、作品世界に即して厳密に求められるものであると私は確信している。【次を読む】
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2005年08月10日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その16 「『延長/絵美香』論2・『外』にある心」

――ショウ:「雪は一緒に見られるよ。
  エミカ:「いつ降る?」
  ショウ:「どうかなあ。一月とか二月。積もるといいけど。」

 この台詞は夏に語られた。『絵美香』では季節は繰り返し告げられている。それは、物語が「終わり」に近付いているのを示す役割を持ち、観客は「いつ降るの?」というエミカの言葉に不安を聞く。事実、二人が冬をともに迎えることはなかった。

 このとき、季節は残酷な「外」の現実を示すだろう。「引きこもりの恋愛」を送るショウとエミカにとって、「外」は触れることのない場所なのだから。

『延長/絵美香』の物語にはいくつかの「外」が存在する。その指摘を行うことで、私は『延長/絵美香』論を終えたい。一つは先に述べた残酷な現実としての「外」である。この存在が物語を悲劇として強く印象づける。二つ目は、『絵美香』がコージの回想の外にあるという事実だ。コージは『絵美香』の物語で陽気な友人として振舞う。この「外」は彼の悲しみが届かない場所である。これは心の無力を示すとともに、彼が結構うまく生きているという事実も伝えている。

 最後の「外」は世界そのものを指す。『延長/絵美香』の世界は、ショウとエミカの、コージの別個の思いを存在させる程に広い。この事実を知らされるのは私たち観客である。人があればそこに思いが生まれる。あっけないほど現実に定着しない思いが、いま確かに世界の中に含まれている。世界に心と心が生きていること。この得難い事実は、まるで「たからもの」のように私たちに届けられる。この世界の広さを受け入れて、私たちはショウと同じ空を見上げる。そこにあるのは、悲劇のみではないはずだ。【次を読む】
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2005年08月09日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その15 「『延長/絵美香』論1・全ては心のために」

 ――ユリ:「ねえ、風俗嬢を好きになっちゃうってことはないの?」
   コージ:「行ってないって言ってるじゃないか。」

 噛み合わない返答は、嘘をつけない男の精一杯の踏ん張りだ。『延長』はすでに終わった恋物語である。回想が始まり、季節は冬から春へとさかのぼる。が、この回想には痛みが伴われる。いまだ癒えない古傷を触るかのように物語が開始されているのだから。

 私は『延長』を「人を裸にする物語」と呼んだことがある。季節感のない風俗店の個室の中で、コージは自身をあらわにしている。ラストシーンで、「ハルカへ。」「元気か?」と呼びかけるその場所は、コージの心という回想の個室なのである。いや、そもそも最初から、回想は心の中で行われていたのだろうか。少なくとも、コージはここでハルカへの思いをたどり直している。

 だから引用の時点でコージはその場所に「行って」いるのだ。心の中で何度もハルカを「好き」だと言い続けている。時間制の風俗の個室に区切られた物語は、いつからか心の中に「延長」されていく。そこにはハルカとコージがいる。すでに終わった恋を見つめるもう一人のコージがいる。つまり『延長』は心が浮かべた物事のためにある物語であるのだ。

『延長』はリアリズムの骨格を保ったまま、風船のようにふくらむ思いを浮かべている。そして物語を見る私たち観客は、そこに『絵美香』の物語がリンクすることを知っている。人があればそこに思いが生まれる。誰もが知るように、この思いはあっけないほど現実に定着しないものだ。『延長/絵美香』の短い物語は、その心のために舞台を生み出しているのだと言えるだろう。【次を読む】
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2005年08月08日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その14 「『絵美香』論6・終わりの冬」

  タマキ:「ショウ!」
  ショウ:「ん?」
  タマキ:「雪!」

 この物語最後の台詞の後には、「タマキ、そう言って行ってしまう。」というト書きがある。ショウは一人になる。いや、ショウは一人ではない。ショウはすでにタマキと添い遂げているのだ。そのぬくもりの中で見る雪には、別の思いが重なる。

  ショウ:「雪は一緒に見られるよ」

 これはかってエミカに対して言った言葉だ。消えゆく運命にあった一人の「女の子」。その彼女のための精一杯のやさしさが、いや彼女さえもが、まるでなかったことのように時は過ぎている。

 この雪はだから、いくつもの思いと意味を私たちに運んでいる。それは、エミカの愛を届ける。彼女へのショウの愛を届ける。そして、雪のひとひらが手の中に収まるとともに消えてしまうように、エミカは消えてしまった。

 この物語には後日談がある。ユリの「人生の春」の訪れがそれである。だからこそこの冬が、二度と繰り返されることがないと私たちにはっきりと伝わるのだ。「人生の春」のエピソードは『延長』冒頭で語られている。

 それが明かされるとき、観客は、自分がその冬を過ぎてしまうのだと気づくだろう。そして、『延長/絵美香』の一年を、愛惜をもって振り返るはずだ。私も愛惜を抱きつつ、この一年の物語をたどり直すことにしよう。【次を読む】
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2005年08月07日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その13 「『絵美香』論5・あるがままの奇跡」

 前回私は「『絵美香』は愛が起こした奇跡を描いたファンタジーである」と書いた。その定義自体に間違いはないと思うのだが、そう書いたことを後悔もした。そこで本稿では、「奇跡」と呼ぶことで取りこぼされるものを拾い直したい。

――エミカ:「神様って、いるよね。ショウちゃんに、会えたもんねえ。」
  ショウ:「うん、うん。会えたよ、エミカに。」
  エミカ:「でもね、ショウちゃん、神様より、ショウちゃんが好き。」

 前回の引用の後にある、つまり別れの場面である。エミカとショウの邂逅は、「奇跡」や「神様」の業であるとしか言いようがない。だが、その説明が確かに正しいかどうか、私たち観客は知らない。私たちばかりか、それはエミカやショウですら知らないのである。

 これに先立つ場面でエミカは「ショウちゃん、神様って信じる?」と問う。自分がショウの元に現れ、消えようとするその瞬間に、エミカは「神様」という言葉を使う。「神様って信じる?」「神様っているよね」と繰り返すことでエミカは、自身がショウの元にいたことの意味が確かにあることを確認しようとする。

 ショウはその問いかけを保証することはできない。「神様って信じる?」と問われたときも、「う、うん。」ととまどいを隠せない。引用の場面で再び問われたときも、「会えた」という事実のみを受けとめるだけで、今まさに消えようとする事実を「奇跡を起こした何ものかにとって、正しい行為である」などとは認めることができないのである。

「神様より、ショウちゃんが好き。」という言葉は、だからその運命に抗おうとする言葉でもある。「会えたもんねえ」と語尾をひきずり、意識が薄れゆくエミカは、その奇跡の保証を神様に求めつつも、二人を別れさせようとする「神様」を「好き」にはなれないのである。

 だが、神様に対する不満の言葉はここにはない。それを呟いてしまえば、エミカの「ショウと添い遂げたい」という気持ちが、ショウをいつまでも縛り、傷つけるからである。意識すらはっきりしないその状況で、エミカはショウをいたわる。「神様」という言葉を設定の説明ではなく、彼らの心からの言葉として受け取るときに、この場面は二重三重の思いを観客に届けていく。

 それを「奇跡」と確信できない者たちが、手探りで愛する者と向き合うこと。「愛」そのものが「奇跡」のように訪れることを、私たちは知るだろう。それを「奇跡」と確約しないことで、『絵美香』は愛のあるがままの奇跡を描くリアリズムの物語でもあるのだ。愛の奇跡のさ中で、人は必死で自分の思いをとげようとし、相手をいたわろうとしている。【次を読む】
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2005年08月06日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その12 「『絵美香』論4・愛の名前」

 いきなりだが、「彼女が欲しい」「彼氏が欲しい」という言葉に私は反発を覚える。私たちが恋愛において求めるのは「彼女」や「彼氏」などという抽象的な存在ではない。ただ一人の愛する者を求めるのが恋愛であるだろう。

――エミカ:「好き。ショウちゃん。」
  ショウ:「エミカ! エミカあ!」
  エミカ:「やっと名前で呼んでくれた。ショウちゃん、呼んでくれたねえ。」
  ショウ:「好きなコの名前、呼べないんだ。」
  エミカ:「どうして?」
  ショウ:「恥ずかしい、から。」

 ショウがエミカの名を呼ぶとき、彼の前には、ただ一人の愛する者がいる。そして、「好きなコの名前、呼べないんだ」という台詞は、その恋心ゆえに隠そうとしてしまう、屈折した心理が表現されている。その屈折を生じさせる相手が目の前にいる。

 ではエミカとは誰か。このシーンの直前に、エミカが自身を「にせものだから」と言う台詞がある。だから別れなければならないとショウに伝えようとする。この「にせもの」を言葉どおりに受け取ってはならない。そう受け取る人は、「エミカ」がショウの夢や幻想であると誤解してしまうだろう。

 エミカとはエミカなのである。ショウの愛する者がそういう名前を持っているということにすぎない。この単純な事実を受け容れるときに、私たちは『絵美香』の奇跡に出会うことになる。

 エミカは食べることができない。エミカは「本物」の現実に生きてはいない。それでも、エミカはショウの前にあらわれた。夢から抜け出し、ショウの愛に応えたのである。『絵美香』は愛が起こした奇跡を描いたファンタジーである。

 冒頭の引用の後には、「(名前を)呼んでくれたら、元気出るのになあ。」というエミカの台詞がある。ショウはエミカの名前を呼び続ける。エミカを救うために。流露しつづける思いがとどめられないように。このショウの愛が全てのはじまりである。エミカ――やがて消える運命を持つ者――は、ショウのために不可能であるはずの邂逅を果たしたのである。

 ちなみに、多くの作品ではこうした奇跡が幻想と取られるのを避けるため、第三者の目撃証言を用いることが多い。友人の誰かが「エミカ」を見かければ、それは幻想ではなく奇跡ということになる。だが考えてほしい。愛が起こした奇跡であれば、愛する者以外に何故出会う必要があるだろう。『絵美香』は、純粋に愛の奇跡のみでかたどられているのである。【次を読む】
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2005年08月05日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その11 「『絵美香』論3・エミカのリアリティ」

    ふて寝したショウに合わせるように、照明も暗くなっていく。短めの暗転。
    再び照明。先程よりも柔らかい明かり。
    寝ているショウの傍らに、女のコが立っている。


 この「女のコ」が「エミカ」である。ト書きには照明の細かな指定がある。場面転換以外の照明効果は作中では珍しい。しかし、観客の私たちが気にするのは、照明効果ではないだろう。

 私たちを驚かすのは、エミカが登場する奇跡が、この照明効果でしか説明されないことである。ここには七色の照明も効果音もない。照明が瞬間変わり、「女のコ」がそこにいるばかりだ。

『絵美香』を見続ける者はさらに驚くことになる。これ以上の説明は、本編を見渡してもどこにもないのである。ここに不条理な印象を持つ観客もいるだろう。その居心地の悪さは、次の二つの効果によって解消されるはずだ。

 一つは不条理劇の効果と同じ、眼前の出来事に注視するというものである。存在の理由が明かされないとき、観客は舞台の上の「女のコ」にそれを見つけようとするだろう。そうして「女のコ」に注視することで、奇跡が体と意識を有したものであることを気づく。このファンタジーの感触は独特である。

 もう一つは心を想像することである。観客と異なり、奇跡を体験する当人たち、エミカとショウはそのことに疑問がないようだ。そのズレに気付けば、彼らがその奇跡をどう受け止めたかが見えてくる。それが彼らの望みであったこと、その望みが疑いを挟まぬリアリティでそこに訪れたことを。

 このレベルまで心と体を感じ取らせるための技術が、エミカ登場シーンにはある。そして読者は、このシーンの成立が、役者の存在感と観客の想像力にのみ託されていることに納得されるだろう。【次を読む】
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2005年08月04日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その10 「『絵美香』論2・主人公たち」

  女友達:「ナンパされちゃった。」
  男:「えーっ!? マジで?」
  女友達:「マジで。」

『延長』冒頭の台詞である。ネタばらしとなってしまうが、この二人がそのまま『絵美香』の主要登場人物となる。引用は日常的で些細な台詞だが、『絵美香』とのリンクを明白に示しており、物語構成上重要な役割を持つ(どういうリンクかの詳細は省く)。

 このリンクのために、『絵美香』の観客は、同時期に起きた『延長』のドラマを想起しながら見ることになる。このときコージは何を考えているのか、どんな状況なのか。そのように注意するだけで、物語はふくらんでいく。

 私が気になるのは、「ユリ」についてである。ユリのナンパのエピソードは『延長』と『絵美香』のどちらの物語でも展開されてはいない。にもかかわらず、この二つの物語の中でかなり目立つ位置に置かれているのだ。これは何故だろうか。

 このエピソードがなかったら、ユリだけは物語の主人公になることができない。ユリは第三者的なものの見方や客観性にすぐれたキャラクタである。その彼女も『延長/絵美香』の外では(暗転の中で登場人物が生きるように)、主人公として生きることになるのである。

 よくできた物語であるほど、ユリのような「脇役的人物」はどうしても生じてしまう。彼女らが生き生きとしていても、それは「脇役的な生」を与えられているにすぎない場合が多い。全ての人物に、主人公として生きる余地を与えるのは難しい。

 先の引用部分は、その余地を登場人物に与えているシーンである。ユリはこうして、自身が主人公として生きることを認められているのである。

 私は先ほど「ユリだけは物語の主人公になることができない」と書いた。ここで植林一本目の観客は、「では、店員は?」と疑問に思うかもしれない。『延長』の「店員」はいかにも脇役に見える。しかし、物語の細部に注意すれば、風俗店の「新人」として熱心に接客に取り組む彼にも、主人公としての人生が書き込まれているのである。

 前回論じた「覗き見」するように第三者を見つめる『延長/絵美香』のシナリオは、同時に、全ての人間が主人公として生きることを許している。つまり、登場人物を等身大の人間として扱うことに徹底しているのである。

 ところで、このことは『延長/絵美香』の構成上の技術に敏感な者ほど見落としやすいと思う。『延長/絵美香』は演劇として非常に珍しい構成を持つ。しかし、それを理解することばかりを目的としてはならない。重要なのは、この構成上の技術が、等身大の人間の表現のためにあるという点なのだ。【次を読む】
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2005年08月03日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その9 「『絵美香』論1・高度なリアリズム」

『絵美香』の序盤の会話が気になった。

 ――コージ:「で、どうするんだ? タマキとは。」
   ショウ:「え?」
   コージ:「また友達でやっていくのか?」
   ショウ:「ああ……それは無いなあ。さすがに会えないでしょ、ちょっと。」
   コージ:「まあな。俺はそういうの気にしないけど。」
   ショウ:「凄いですよね。それ。腹とか立ったりしないんですか?」
   コージ:「無くはない。無くはないけど、続けたい関係もあるじゃないか。」

 正直にいうと私は彼らの話に腹を立てたのである。失恋した「ショウ」に、腹を立てる資格はないと思った。たとえ失恋の理由が不可解だとしても、告白に対するはっきりとした解答は得ているのだから、それで納得すべきである。

 また「コージ」の意見も許しがたい。「無くはないけど、続けたい関係もあるじゃないか」と言うとき、腹を立てない理由を自分の都合からのみ話しているのである。正しくは「無くはないけど、相手に怒りを向ける理由(正義)がない」と言うべきだと思う。

 つまり私にとってこうした会話のやり方は正しくないと感じた。しかし、それが演劇として正しくないかと言えばまったく別である。『絵美香』の作品の中の些細な場面だが、作品の良さを伝える格好の場面の一つであると思う。

 どういうことか。まずこの場面の直前、暗転によって省略された会話を読み取らなければならない。ショウの失恋は、彼にとっていささか不可解な形で行われている。彼はその顛末の不可解さ、つまり憤懣やるかたない思いをコージにありのままに話しているのだ。

 そしてコージは、そう話す彼に同情の言葉をかけている。「また友達で」の発言は、同情しながら関係の修復をはかろうとする配慮である。その配慮をはねつけて「腹とか立ったりしないんですか」と言い返すとき、ショウは暗転中の感情(怒り)に戻っているのである。

 つまりこの台詞が語られる場面は、それ以前からの場面の連続と見ることができる。演劇自身が意外と見落としがちだが、演劇において登場人物は場面転換ごとの合間にしか生きていない。それを生きさせようとする周到なアイディアが、些細な台詞にめぐらされている。

 その上で重要なことは、「タマキ」も含めた彼らのグループがどういう集まりかが不明なことである。

 私が『台詞づくり』の回で述べた「対話者たちが自明としていることに言及しない」ルールは、洗練されたシナリオの技術である。それが観客に知らされないことで、たまたま出会った人間の一場面を覗き見するような生々しさを感じることができる。

 そして観客は設定から事物を判断せず、そこで演じられている場面の些細な台詞の心の動きに注目することができる。その台詞を感受すれば、以上のようなリアリティがある。『絵美香』の序盤はこのような高度な技術によって物語られている。

 ちなみに、この設定を不明にするルールの技術は、意外にも不条理劇の手法に近いことを指摘しておこう。そしてそれを「エミカ」が登場する場面の解釈の足がかりとしたい。【次を読む】
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2005年08月02日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その8 「『延長』論2・不思議な愛について」

 個人の無力を描いた物語が絶望でないことは、考えてみれば不思議である。しかし『延長』を見た実感としてそれは変わらない。その不思議な出来事を演劇ではカタルシス(浄化)という言葉で説明している。悲劇は魂を浄化する。そのことの意味を、私は作品に触れてあらためて考えさせられた。

 ――男:「不思議な関係だよな。俺はお前のことを何にも知らない。お前も俺のエロ以外は知らない。でも、知ってるんだよな。さっきみたいにさ。」

 この「さっき」とは、男の気持ちをハルカが理解していたことを指す。しかしハルカは「プロだもん」とそれを説明していたのだ。風俗嬢とお得意さんの間柄をわざわざ「不思議」だと言うこと。男の愛の、あまりにも無防備な表現。このきわめて私的なふるまいを、観客である私たちはまざまざと見せられるのである。

 登場人物と観客の関係は不思議だ。風俗嬢に恋するというありきたりの悲劇。その悲劇を目前にする瞬間、男の心が自分のことのようにリアルに届く。男の言う「不思議な関係」とはつまり「愛の関係」である。そして観客は男に対して、まるで愛するもののように出会うことになるのだ。

 ――男:「んー、あれはさ、その場の関係だからいいんだよ。そこを超えて恋愛をするとなると障害が多すぎるじゃないか。」

 後悔という男の傷がわずかに、だがはっきりとあらわれている箇所である。登場人物と観客も「その場の関係」を持っている。その場の関係であるのに、悲劇の主人公の裸の魂に触れて、観客は彼に愛のようなものを感じる。彼は現実には存在しないはずなのだ。その障害を、私たちはやすやすと越えている。

 虚構という「ハルカなもの」のあるがままの魂に触れて愛すること。それが観客自身の魂の浄化に導くのだと私は思う。この精妙な演劇的現象が『延長』にはある。もっと言えば、『延長』という短い作品は、この不思議な愛のためにのみ奉げられていたのではないだろうか。この愛について、私は『絵美香』論で再び語るだろう。【次を読む】
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2005年08月01日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その7 「『延長』論1・『ハルカ』なものたちへ」

 個人は「無力」である。『延長』の等身大のリアリズムは、そのことをまざまざと明らかにする。だがそれは「絶望」ではない。無力と絶望の違いとは何か。それは「ハルカなもの」がそこにあるかないかの違いである。まずこの回では、無力をどのように描いているかを見ていきたい。

『延長』は風俗店の個室を舞台としている。そこは性的行為が行われる極私的な空間である。個人の性的行為は『延長』では暗転の中で表現されている。舞台自体にあらわれない事実が場面に緊張を与え、人物の感情に焦点をあてる。

   ――男、ハルカを強く抱きしめる。
 ハルカ:「服着たままって、変だね。」

 ここに人を裸にする物語がある。性的行為を舞台に乗せるよりもそうなのである。裸で抱き合ういくつもの経験、そしてその後の語らいの「延長」として、「男」は「ハルカ」を愛する。上の引用はその愛の行為である。だが、物語はそれ以外を何も保証しない。そのことが男を裸にする。

 個人を保証する物語とはどういうことか。例えば、ハルカが「私もあなたを愛している」と言うこと。あるいは、ハルカがあくまでも商売としてそれをあしらうこと。そのどちらかであれば、私たちは男の裸を見ることはない。男の愛の表現に対して、「服着たままって、変だね」という答えは、結局どちらでもあり得るのだ。このとき男は、期待と失望に揺れる裸の感情そのものとして舞台に立つ。

 この裸の感情こそリアルなものだ。結局、解答があらかじめ得られた行動などはどこにもない。だから人は無力なのだ。風俗店で愛が物語られること。それを皮肉ととってはならない。そうとれるのは、解答をあらかじめ理解している者だけである。男はもちろん、観客でさえも、その瞬間においては解答を知らない。ただ裸の感情があるばかりだ。

 ハルカ:「あとねぇ、男の人から見ると、ハルカたちってああいう風に見えるんだって思った。」

 男が書いた(ハルカをモデルにした)脚本についてのこの言葉は、やはり男の愛の裸を明らかにする。だがそれは「男の人」だけが持つものではない。人は誰でも、答えのない「ハルカなもの」たちへ向けて、裸の感情を伝える。その無力さを、ありのままに。解答が延長される中で人が裸であること。それが『延長』のリアリズムである。『延長』という短い物語は、その貴重な表現に奉仕されている。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林一本目篇