2005年08月01日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その7 「『延長』論1・『ハルカ』なものたちへ」

 個人は「無力」である。『延長』の等身大のリアリズムは、そのことをまざまざと明らかにする。だがそれは「絶望」ではない。無力と絶望の違いとは何か。それは「ハルカなもの」がそこにあるかないかの違いである。まずこの回では、無力をどのように描いているかを見ていきたい。

『延長』は風俗店の個室を舞台としている。そこは性的行為が行われる極私的な空間である。個人の性的行為は『延長』では暗転の中で表現されている。舞台自体にあらわれない事実が場面に緊張を与え、人物の感情に焦点をあてる。

   ――男、ハルカを強く抱きしめる。
 ハルカ:「服着たままって、変だね。」

 ここに人を裸にする物語がある。性的行為を舞台に乗せるよりもそうなのである。裸で抱き合ういくつもの経験、そしてその後の語らいの「延長」として、「男」は「ハルカ」を愛する。上の引用はその愛の行為である。だが、物語はそれ以外を何も保証しない。そのことが男を裸にする。

 個人を保証する物語とはどういうことか。例えば、ハルカが「私もあなたを愛している」と言うこと。あるいは、ハルカがあくまでも商売としてそれをあしらうこと。そのどちらかであれば、私たちは男の裸を見ることはない。男の愛の表現に対して、「服着たままって、変だね」という答えは、結局どちらでもあり得るのだ。このとき男は、期待と失望に揺れる裸の感情そのものとして舞台に立つ。

 この裸の感情こそリアルなものだ。結局、解答があらかじめ得られた行動などはどこにもない。だから人は無力なのだ。風俗店で愛が物語られること。それを皮肉ととってはならない。そうとれるのは、解答をあらかじめ理解している者だけである。男はもちろん、観客でさえも、その瞬間においては解答を知らない。ただ裸の感情があるばかりだ。

 ハルカ:「あとねぇ、男の人から見ると、ハルカたちってああいう風に見えるんだって思った。」

 男が書いた(ハルカをモデルにした)脚本についてのこの言葉は、やはり男の愛の裸を明らかにする。だがそれは「男の人」だけが持つものではない。人は誰でも、答えのない「ハルカなもの」たちへ向けて、裸の感情を伝える。その無力さを、ありのままに。解答が延長される中で人が裸であること。それが『延長』のリアリズムである。『延長』という短い物語は、その貴重な表現に奉仕されている。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林一本目篇