2005年08月07日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その13 「『絵美香』論5・あるがままの奇跡」

 前回私は「『絵美香』は愛が起こした奇跡を描いたファンタジーである」と書いた。その定義自体に間違いはないと思うのだが、そう書いたことを後悔もした。そこで本稿では、「奇跡」と呼ぶことで取りこぼされるものを拾い直したい。

――エミカ:「神様って、いるよね。ショウちゃんに、会えたもんねえ。」
  ショウ:「うん、うん。会えたよ、エミカに。」
  エミカ:「でもね、ショウちゃん、神様より、ショウちゃんが好き。」

 前回の引用の後にある、つまり別れの場面である。エミカとショウの邂逅は、「奇跡」や「神様」の業であるとしか言いようがない。だが、その説明が確かに正しいかどうか、私たち観客は知らない。私たちばかりか、それはエミカやショウですら知らないのである。

 これに先立つ場面でエミカは「ショウちゃん、神様って信じる?」と問う。自分がショウの元に現れ、消えようとするその瞬間に、エミカは「神様」という言葉を使う。「神様って信じる?」「神様っているよね」と繰り返すことでエミカは、自身がショウの元にいたことの意味が確かにあることを確認しようとする。

 ショウはその問いかけを保証することはできない。「神様って信じる?」と問われたときも、「う、うん。」ととまどいを隠せない。引用の場面で再び問われたときも、「会えた」という事実のみを受けとめるだけで、今まさに消えようとする事実を「奇跡を起こした何ものかにとって、正しい行為である」などとは認めることができないのである。

「神様より、ショウちゃんが好き。」という言葉は、だからその運命に抗おうとする言葉でもある。「会えたもんねえ」と語尾をひきずり、意識が薄れゆくエミカは、その奇跡の保証を神様に求めつつも、二人を別れさせようとする「神様」を「好き」にはなれないのである。

 だが、神様に対する不満の言葉はここにはない。それを呟いてしまえば、エミカの「ショウと添い遂げたい」という気持ちが、ショウをいつまでも縛り、傷つけるからである。意識すらはっきりしないその状況で、エミカはショウをいたわる。「神様」という言葉を設定の説明ではなく、彼らの心からの言葉として受け取るときに、この場面は二重三重の思いを観客に届けていく。

 それを「奇跡」と確信できない者たちが、手探りで愛する者と向き合うこと。「愛」そのものが「奇跡」のように訪れることを、私たちは知るだろう。それを「奇跡」と確約しないことで、『絵美香』は愛のあるがままの奇跡を描くリアリズムの物語でもあるのだ。愛の奇跡のさ中で、人は必死で自分の思いをとげようとし、相手をいたわろうとしている。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林一本目篇