2006年03月26日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 目次

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2006年03月25日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 最終回 「世界というファンタジー」

 こうして物語は終わる。しかし、私は『たからもの』という物語の余韻にまだとどまろう。たとえそうしても、『たからもの』の世界が私たちの前にはない事実は変わらない。「地球によく似た小さな星の、小さな国でのお話」(序)の世界が、これ以上私たちに届けられることはない。

 このとき、私の心に一つの空白が生まれる。この空白は作品世界への喪失感としてある。その喪失の意識が私に『たからもの』の空白を探らせる。単に記憶をたぐり寄せるのではない。それが一つの世界であった生の感触を取り戻すように、私は『たからもの』という空白に思いをこらしていく。

 この空白に思いをこらす心が、物語という「小さな星」を再び現実に引き寄せることになる。そしてもし、全ての人の心が物語の「小さな星」を引き寄せるとするならば、この「地球」は星々の降り注ぐ中心に存在することになるだろう。もちろん、物語だけに思いをこらす訳ではない。私たちの心が引き寄せた様々な要素たちが、世界にエネルギーを充填し輝きを与えていく。

『たからもの』の真新しさとは、こうした人間の心の可能性を強度をもって示したことだと要約はできないか。「小石」となった隊長を、姫は「星」のかけらのように大切にすることができた。ここには、人間の心が失われた世界を引き寄せることができる事実が、確信をもって語られている。奇跡を訴える大げさな身振りはどこにもない。そのことがこれが奇跡ではなく、人間の生み出した事実であることを雄弁に物語る。私たちもまた、奇跡のような生の側面を持つということ。その人間の可能性が強い確信をもって語られているのである。

 この確信こそがこの作品を真のファンタジーと呼ぶべき理由となる。ファンタジーとは世界の意味をめぐる物語である。『たからもの』は、私たち人間の可能性を事実として扱うことで、私たちに世界の意味をささやきかける。心は――そして物語は――私たちの生を輝かせるだけではなく、世界さえも輝かせるということを。そうして、その自負をもって私たちに心の冒険をなすことを促している。この行為によって、私たちは世界という真新しいファンタジーに立つことになるだろう。少なくともこの生の実感のためにこそ、『たからもの』の輝きはある。
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2006年03月24日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その26 「世界へ」

  ――王子、石を載せた方の姫の手を優しく握る。
    歩いていく二人。
    誰もいない舞台に、虫の音が聞こえてくる。
    いっぱいの虫の音の中に、忍び入るように音楽。(二十二場)


 このとき、彼らはこの虫の音をどう聞いたのだろうか。姫と王子は自分たちを生かしめる世界への信仰を持っている。虫の音は、そうした世界の一つの出来事として響きわたる。この虫の音は彼らの心にどう響いたのだろうか。

 地を這う虫たちの姿は見えない。だが、彼らの奏でる音楽は彼らが世界に生きていることをはっきりと証している。既に世界の中に「見えない何か」を感受している彼らは、生命力を感じさせる虫の音に、世界の在りようを感受しただろう。

 おそらくそれは、「見えない意志」が横溢している世界のイメージである。自分たちを生かしめた「見えない何か」、虫たち、夜の風。彼らが生きる世界に無数の意志があること。そして、世界がそれらの意志を通わせて存在していること。姫と王子は世界にこのような充満したエネルギーを捉えたに違いない。

 虫の音を耳にすること。この日常的な行為によって、彼らはエネルギーの充実に触れることができる。私たちはどうだろうか。私たちは『たからもの』の虫の音をどのように聞いたか。そして、私たちは世界に何を聞くことができるだろうか。

『たからもの』で鳴り響いた虫の音を想像しよう。姫と王子が何を聴いたかに思いをこらそう。彼らの生をリアルに捉えることが、その想像を確かに生きたものとするだろう。そうして、私たちは『たからもの』の世界を耳にする。登場人物と私たちの共鳴が、世界に音を増やしていくのだ。そして、ひとたびこの耳を日常世界へ差し向けたとき、私たちは世界に見えない意志を感受することが可能となる。私たちに与えられたこの可能性こそ、この作品が与えた「たからもの」となるだろう。【次を読む】
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2006年03月23日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その25 「引き寄せられた世界」

――王子:「ん? どうしたの?」
  姫:「石。」
  王子:「うん。」
  姫:「これ、宝物にする。」(二十二場)


 姫は「石」を拾い上げた。それは「なんの変哲もない、どこにでもあるような、地味な小石」(二十場)だが、隊長がこの世界に生きた唯一の名残りでもある。姫はこの石に目を留めただけでなく、拾い上げ、それを「宝物」と呼んだ。姫は隊長が「石」になったことも知る由はない。また、隊長の記憶さえも一切とどめていないだろう。しかしそれでも、姫はかつて隊長であった石に目を留め、それを宝物にした。

 この事実は、心の自由が一つの世界を引き寄せることができる奇跡を物語る。だが姫は、引き寄せられた世界の全てに気づく訳ではない。隊長が生きていた日々やそのディテールが記憶にないからだ。「何か」大切なものが、かつての、そして現在の自分を生きさせたという心の感触のみをとどめているにすぎない。それが姫にとっての「見えない世界」の感覚である。

 似たことが王子にも言える。王子は毒を飲んで蘇生している。目覚めてみれば、そこには愛する姫がいる。このとき王子は自分の幸運を感じるだろう。もちろん、『たからもの』を観る私たちには、それが隊長の犠牲であることを知っている。しかし、王子にとってその幸運は、世界が自分に与えてくれた意味のある「何か」として感じられるはずだ。これが王子にとっての「見えない世界」の感覚である。

 つまり隊長は世界となった。隊長は、姫と王子にとって自分の貴重な生を支えてくれる「何か」となる。隊長は「見えない世界」として彼らに感受されている。このとき幸福な二人は、世界に対してともに一つの「信仰」を持つだろう。知覚を超えた現実が自分たちを祝福していると感じているはずだ。彼らはこのように、「見えない世界」を畏敬する。その感覚を終生忘れないように、姫は石を手に取る。

 石とは世界のかけらである。石は人間が手に取るほどに小さく、いつまでも所持できるほどに固い。似た石は無数にあったかもしれないが、人のいたような場所に、ぽつんと取り残された石に姫は目を留める。姫はそうすることで、いま世界に対する感覚が真実であることを確かめつづける。

 この行為に対して王子は、石を載せた姫の手を優しく握る。彼は姫の行為になんの疑問も感じていない。なぜなら、王子も世界のかけらをその内にとどめようとする気持ちは同じなのである。このとき「見えない世界」と現実世界との壁はない。彼らは、その両方が自分を生きさせることを知っている。この瞬間、彼らの心が、隊長という失われた世界を現在に引き寄せている。【次を読む】
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2006年03月22日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その24 「引き寄せられる世界」

――「ねえ、たいちょう」
  「何ですか、姫」
  「ひめねえ、おおきくなったらたいちょうとけっこんする」(序)


『たからもの』の二十二場、最後の場面で、姫は王子と歩いている。愛する者と幸福に生きる未来が姫の心を占めているだろう。しかし、満ち足りた姫の心の中に一つの空白がある。それは隊長の記憶である。例えば、スクリーンに投射された序の物語がそれである。隊長の記憶は「空白」となっている。引用にある通り、序の姫の言葉は、ひらがなで表されている。子どもの拙い言葉づかいを再現したものとも取れるが、この言葉を発する者の心や存在を不明とする効果がある。今や、姫の心は他ならぬ姫自身にとって不明である。

 この空白の不明さに思いをこらすこと。姫がそれを(たとえ無意識にせよ)行ったことは間違いないだろう。隊長が「姫が一番望んでいるのは、俺とのことじゃないんだ」(十場)と言うように、自身の幸福よりも「国」や他者の幸福を願う人間である。そのことは、結婚をめぐる騒動のさ中に、彼女が「みんなが、もっとうまくやれたらいいのに」(十三場)と呟く件でも明らかだろう。彼女は常に自分や自分が取り巻く状況が「うまくいく」ことよりも、「みんな」がうまくいくことを望んでいるのだ。「みんな」を意識した時、姫はそこに含まれてしかるべき隊長という空白を意識することになる。

 もちろん、空白に関する記憶は全て失われている。ただ、隊長に差し向けた心のあり方だけは残るはずだ。姫が心を探ったとしても、確かな意味はどこにもつかめない。しかし、「誰か」に思いを抱いたこと、それを伝えようとしたこと。そうした心のあり方だけは姫の心に刻み込まれている。姫は思いをこらすことで、この心のあり方を生き直すことになる。だから、序のひらがなは、確かな意味の全てを失いながらも、心に刻み込まれた姫の心の表現として私たちに映るのである。

 生き直された心の物語は、純粋に相手を思う心で満ちている。幸福のさ中に、別の純粋な心がふつふつと自分の中に存在していることを姫はどう捉えただろう? その詳細を私は明らかにしない。いずれにしても、姫にとってもはや世界は目に見えるものだけではなくなっている。「ふと、姫が立ち止まる」(二十二場)。この時、自分が生きる現実が知覚を超えた何ものかであることを、彼女は既に知っている。心の自由が、いま一つの世界を引き寄せている。【次を読む】
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2006年03月21日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その23 「現実という世界」

――小鬼:「そう言うなって。あんたも独り言言わずに済むだろ? けっけっけ。」
  隊長:「独り言ではない。」
  小鬼:「そりゃまあ、どう呼ぶかはあんたの自由だ。……なあ、それ何だ?」
  隊長:「ん?」
  小鬼:「話し相手だよ。」
  隊長:「ああ。宝物だ。」(五場)


 見えない世界に対して、私たちは真実何ができるのか? その答えを私は、空白に思いをこらすことだと考えている。そのことが、「見えないもの」を確かに存在せしめ、無数の世界を「いま」「ここ」に招きよせることができるのだ。考えてみれば、私たちの身の回りには「空白」が多く存在している。すぐ隣りの人物の心や、世界のどこかで起こる出来事、もはや手の届かぬ過去、そして人間の智恵の届かぬ存在など、「見えない世界」は無数にある。これらを心の中に「空白」として住まわせること。そして、その「見えない」空白に対して思いをこらすこと。

「見えない世界」の全てを把握することなど誰もできない。しかし、「見えない世界」のわずかな実在に触れることはできるだろう。その実在のかけらをこの作品は「宝物」と呼んでいる。

 引用の「宝物」とは、死んだ婚約者の写真である。隊長にとって、この婚約者の不在こそが心の空白であることは間違いないだろう。だがそれは空虚ではない。隊長は心の空白を「話し相手」として「いま」「ここ」に招きよせている。それは小鬼にとって「独り言」に見えてしまう。だが、隊長は彼女が生きた過去、彼女を愛した過去という空白に思いをこらすことで、過去という「見えない世界」を現在に引き寄せている。「いま」「ここ」に招きよせられた世界はもはや過去ではない。それは紛れもない現実として、隊長の心の中に住まうことになる。だから婚約者の写真は過去を映したものではない。それは「いま」「ここ」に婚約者が実在することを示す大切な「宝物」であるのだ。

 これを感傷に過ぎないと考えることもできる。確かにそれを「どう呼ぶか」は私たちの「自由」ではある。だが、不自由な「いま」「ここ」という現実に対して、心がどれだけ「自由」であるのかという冒険を私たちは諦めてはならない。心の自由へ向けた冒険に踏み出すこと。それをどう呼ぶか、どう捉えるかは私たちの自由であるのだ。この心の自由が、『たからもの』の奇跡を生み出すことになる。【次を読む】
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2006年03月20日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その22 「見えない世界」

  ――照明。先ほど隊長がいた辺り。
    姫と王子が歩いてくる。
    ふと、姫が立ち止まる。

  王子:「ん? どうしたの?」
  姫:「石。」
  王子:「うん。」
  姫:「これ、宝物にする。」(二十二場)


『たからもの』の最終場面には、多数の世界の存在を感じ取ることができる。

 第一の世界は、いま私たちの眼前にある「姫と王子が歩いて」いる世界である。ここでは、恋する二人に幸福な生活が約束されているように見える。第二の世界は「隊長がいた」世界である。第一の世界からはもう、隊長の記憶が消えている。王子の命と世界の交換として、隊長の全ては失われている。第三の世界は、「小鬼」が存在する世界である。「先ほど隊長がいた辺り」には、もちろん小鬼もいた。この小鬼は既に私たちには見えない。いまこの世界は、人智を超えた世界の存在がそうであるように「見えざるもの」となっている。きっとその場所から、小鬼は「宝物」の奇跡を見ているだろう。第四の世界は、姫の心の世界である。「石」を拾い上げる姫の心が何を感じたか、私たちには謎である。第一の世界からは「隊長」の記憶が消えているはずなのに、姫はかつて隊長であった「石」を見止め、それを「宝物」と呼ぶことができる。

 いま世界は、一つではない。多くの見えない世界がこの場面に召喚されている。私たちはこの場面から、見えない世界にも無数の種類が存在することを学ぶだろう。かつて生きた人の持つ世界。小鬼が表象する、人智を超えた世界。そして、目の前の人の心が抱く世界。それらの世界を感じ取ろう。そして、心に一つの問いかけをしてみよう。その答えによって、引用の場面がもたらす「宝物」の謎は消えるだろう。それは以下のようなものである。

 見えない世界に対して、私たちは真実何ができるのか?【次を読む】
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2006年03月19日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その21 「『いま』『ここ』にある世界」

――むかしむかし、どこか遠く。
  地球によく似た星の、小さな国でもお話。
  小さな国のお姫様が、お供の隊長に言いました。
  「ねえ、たいちょう」
  「何ですか、姫」
  「ひめねえ、おおきくなったらたいちょうとけっこんする」(序)


 引用の世界はどこにあるのか? これは真剣に問うべき課題である。隊長の命と記憶は既に失われている。この隊長と姫の過去の会話も同様に失われている。つまり、この世界は「もはやどこにもない」と考えることができる。だからこそ『たからもの』を観る者は、この「序」のスクリーンに投射された言葉たちに対して、既に失われた世界として、哀惜を感じるだろう。

 言葉の物語は、常に「いつか」「どこか」で起きたこととして語られる。しかし、この「むかしむかし」「どこか遠く」で起きたストーリーは、物語の中の誰の記憶からも忘れられている。だからこの言葉たちは、現実の基盤を持たずに宙に浮きあがる。それは現実から遊離する物語の定めのように浮き上がっている。「地球によく似た星」とは「物語」の別名を指すだろうか。

 しかし、この物語と私たちは出会っている。出会うどころか、私たちは隊長と姫とともに生き、同じ現実に立っていたとさえ言えるのである。隊長が生きた現実と、その隊長に対して姫が心を寄せた現実。それは私たちの記憶と心に刻み込まれている。それが失われた時に受けた哀惜という心の傷を確かめよう。その傷が過去や失われた世界のよすがであることに気づくだろう。

 だから引用の世界は「いま」「ここ」にある。心がその世界のよすがとなる。命の一つ一つが世界を持ち、そして一つ一つの心がその世界とつながることができる。心が持つ世界は、そして物語も、けっして孤独に存在するのではない。それらは心をよすがとして私たちの前にある。そうして、「どこか遠く」にある世界を「いま」「ここ」へと引き寄せることができるのだ。遠い世界を「いま」「ここ」に感じること。それが姫の起こす奇跡に確かな実質を与えるだろう。【次を読む】
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2006年03月18日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その20 「失われた世界」

――小鬼:「忘れねえよ、あんたのことは。忘れねえ。」
  隊長:「俺もだ。」
  小鬼:「あばよ。」
  隊長:「ああ。元気でな。」

    暗転。
    暗い中、小鬼の泣き声、かすかに。(二十場)


    照明。魔女の家。
    姫、王子を抱いている。

  王子:「どうして泣いてるんです?」
  姫:「!」
  王子:「へへへへへ。」
  姫:「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」
  王子:「痛い、痛いよ。」(二十一場)


 暗転を挟んだこれらの引用の間に、隊長の命は失われている。隊長の願いの通りに王子が生き返ったことが何よりの証だ。隊長は「なんの変哲もない、石ころ」になっているだろう。そして隊長に関する記憶は(小鬼を除いて)誰からも忘れられているだろう。だから王子と姫は屈託なく笑うことができる。その生の喜びを与えた犠牲を、彼らは知ることがない。

 この時、世界は二つに分岐している。もちろんそれは隊長の存在した世界と、存在しない世界である。一方の世界では小鬼が泣いている。もう一方では王子が笑う。それは対照的な世界である。隊長の意志と、小鬼の能力によって、一方の世界には不幸の影は消えてしまったかのようである。命を賭けた冒険が、一つの幸福なエンディングを生み出したのである。

 一つの命が一つの世界を持つこと。この事実を『たからもの』の「魔法」は表現している。命を移動すれば誰からも記憶が失われるというルールは、命が一つの世界を持つと考えれば分かり易い。それは単に命の交換ではなく、命が持つ世界の交換なのである。つまり一度失われた命を蘇らせるためには、そこで失われた世界さえも復元しなければならない。このとき、願う者が持つ世界さえも、交換の犠牲に捧げられなければならないのだ。

 世界は分岐する。それは失われた命が持つ世界と、今ここにある世界である。たった今一つの世界が失われてしまった。だが、失われた世界は想像できる。このとき、もはや『たからもの』の世界は過剰である。一つ一つの命が世界を持つということ。その過剰な世界たちが一つのファンタジーを生み出す。真新しい世界の到来が起こす事件を私たちは奇跡と呼ぶ。その奇跡が、犠牲の上からなるエンディングの後に、真新しいエンディングを生み出すのである。【次を読む】
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2006年03月17日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その19 「誰がための世界」

――隊長:「そうだ。お前はどうなる?」
  小鬼:「何だよ。」
  隊長:「お前も俺のことを忘れるのか?」
  小鬼:「……ああ。」
  隊長:「そうか。寂しくさせるな。」
  小鬼:「忘れちまうんだ。寂しいもへったくれもあるかよ。だいたい、人間の世の中を笑って見るのが、俺なんだぜ。」(二十場)


 小鬼は嘘をついている。そのことは、「少し離れた場所」から彼らの心を感じている私たちには明らかであろう。小鬼が隊長のことを「忘れる」ことは決してない。そしてこの出来事を小鬼が「笑って見る」ことなどないだろう。小鬼の心は隊長が全てを失うことに対して切り裂かれている。そしてその事実を表面的には隠そうとしている。

 誰のためにその事実を隠そうとしているのだろうか。引用の後半を見れば、それは本心を見せない強がりのように見える。自分の不様さを見せたくないという意味で、それはエゴイスティックな行動だと考えることもできるだろう。そしてもう一方は、隊長への優しさである。相手に自分が苦しんでいる事実を伝えないことで、余計な心労を与えないためのわずかばかりの配慮である。

 そのどちらもが本心となるだろう。隊長が命を失うというのに、彼にはできることがない。小鬼にとって、自分の全ての行動はエゴイスティックなものにすぎないのだ。そして、そうであっても隊長の心をいたわろうとすること。つまり小鬼の心は「自分のため/隊長のため」という対極に同時に立つ。その混乱の中に、小鬼の心はある。

 小鬼の引き裂かれた心は、私たちの心と何ら変わりがないものだ。誰かの心のために全てを失うことを選んだ隊長よりも、小鬼の心は私たちの心と近い。自身がみじめなエゴイストと映じているさ中にも、それは誰かのためにある心でもある。小鬼の混乱はこのとき、私たちの心に映じる世界のあり方を雄弁に伝えている。それは、自分のためと相手のためにある世界である。世界が、私たちのためにあるということ。隊長が全てを失う間際に、その真実こそが私たちの心をも切り裂くだろう。【次を読む】
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2006年03月16日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その18 「心から世界へ」

――隊長:「ここの石になるのか?」
  小鬼:「ああ。」
  隊長:「そうか。」

    隊長、辺りを眺める。地面、木々、そして。

  隊長:「いい月だな。」
  小鬼:「……。」
  隊長:「いいところだ。虫の声も聞こえる。」
  小鬼:「……。」(二十場)


 何という穏やかさだろうか。隊長は全てを失うというのに、彼の心には後悔や恐怖の影は見当たらない。まるで旅行者のように、「辺り」の自然を愛でているのである。姫の心を救う一つの意志となった隊長にとって、自我への固執は既に捨て去られている。

 それだけではあるまい。隊長の「最期の場所」となるこの「魔女の森」には、「地面」「木々」「月」「虫の声」がある。これらが隊長の心を穏やかにさせている事実は見逃せない。ここには悲壮な覚悟はなく、その自然の中で自分の居場所を見定めているようだ。

 想像しよう。隊長の眼に映じた世界を。いま消えようとする隊長の「心」の前にはかくばかりの世界が拓けている。それは隊長の心とは無縁のようであり、それを包むようである。それは確かに私たちの目に映じる自然と同じものであるだろう。

 自身の心がたとえ消えたとしても、世界があるという事実。そこには残酷さばかりではなく、一つのやすらぎがある。たとえ「みんなから」忘れられたとしても、いま自身が生きている事実は、この世界の実在が確認させてくれるのである。

 隊長は世界からこの事実を教わっている。だからこそ「姫の泣き声がなくなれば、最高だ」という言葉さえ、その直後には呟かれる。確かな世界の中で、自身のすべきと信じるわずかな行為をなそうとする。心から世界の中にある自分自身を見出しているのだ。隊長の意志はそのような境地にたどりついている。付け加えれば、その世界の実在を信じなければ、この物語の結末を本当に信じることなどできないだろう。【次を読む】
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2006年03月15日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その17 「輝く心」

――隊長:「だったら、それでいい。姫が悲しむのは、もうたくさんだ。それがたとえ、ほんの少しでもな。」
  小鬼:「そんな……。」
  隊長:「で、俺の体はどうなる? 命が抜けた後は。」
  小鬼:「石になる。」
  隊長:「どんな?」
  小鬼:「小石だよ。なんの変哲もない、どこにでもあるような、地味な小石になっちまう。」
  隊長:「ここの石になるのか?」
  小鬼:「ああ。」
  隊長:「そうか。」(二十場)


 既に隊長は「王子を生き返らせる」という願いを叶える時、自身の「命が無くなる」ことを理解している。小鬼はさらに願いに関する残酷なルールを告げた。「命が無くなる」ばかりか、隊長は誰からも忘れられて「いなかった人」になってしまうのである。そして隊長は「それでいい」と答えた。姫の心を悲しみから救うために、彼は全てを失おうとしている。

 この引用の直前、隊長は「俺がいなくなったことを知ったら、姫は悲しむかな?」という疑問を口にする。これは愚問だろうか。誰も「いなかった人」に対して感情を持てるはずはないのだから。しかし、そのことをあえて確認した隊長の意志は純粋である。自身の全てが失われるというのに、隊長は姫の「悲しみ」が生じる可能性をまず懸念しているのだ。「姫が悲しむ」ことがなければ「それでいい」のである。

 そして、「俺の体はどうなる?」と言う隊長は、もはや「体」を持たない人間のように問い尋ねている。「体」が消えたとしても、ただの「肉塊」となり果てたとしても、隊長はそれを平らかに受け容れただろう。自身に関する執着はもうない。ここにあるのは他者へ向けての純粋な意志である。自己犠牲さえ、ここでは重大事ではない。意志が望んだ一つの願いを叶えること。そして、その他の全ては埒外に置かれている。ちっぽけな人間にできる最大の冒険を、彼は果たそうとしている。

 だがやはり、意志そのものであるかのような隊長が埒外においてしまった、他の全てはあまりにも大きい。姫の心へ向けた優しい意志が、今もう一つの心を傷つけている。それは小鬼の心である。小鬼が隊長に生きて欲しいと思っていることは明白である。にもかかわらず、自らの能力で隊長の「命が無くなる」のだ。小鬼の心は、自殺幇助を行う者のように引き裂かれていくだろう。隊長が姫を思いやるほどに、眼前にいる小鬼の心は無視されなければならないのだ。

 これが人間の行為の限界である。自身を含めた全てと引き替えに何かを願ってしまえば、彼を愛するものの心は残酷に切り捨てられてしまうのだ。その事実を隊長がどのように受け止めたかは分からない。けれども、隊長の心はそこには立ち止まらない。自身や自身を思いやる心さえ捨てて、彼は一つの意志を叶えていく。何もせずに傍観していることは「もうたくさん」なのである。

 隊長が「なんの変哲もない、どこにでもあるような、地味な小石」になることは、この意味で似つかわしい。彼はヒーローではない。誰かに優しくすることさえも、多くの犠牲と引き替えにしなければならない不完全な存在である。彼は「なんの変哲もない」人間である。その「なんの変哲もない」人間が思いを遂げようとして行為する。残酷な世界のルールに対して、相反する心たちの中で、それでも自分になすべきだと信じる行為を実現する。これが人間の冒険である。繰り返そう。彼は私たちと同じ人間である。だからこそ彼のなしうる行為が私たちの眼を開くのだ。その「地味な」輝きを見誤ってはならない。【次を読む】
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2006年03月14日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その16 「一つだけの心」

――小鬼:「王子を生き返らせるってことは、あんたの命が無くなるってことなんだよ。」
  隊長:「そんな……。」
  小鬼:「だろ。いい話じゃねえ。」
  隊長:「なあ。」
  小鬼:「あ?」
  隊長:「姫が好きなのは、王子だったんだよな。」
  小鬼:「いや。いや、そういう段階かどうかは……。」
  隊長:「よせよ。気を遣うな。」
  小鬼:「くそっ。」(二十場)


 隊長の願いは、「王子を生き返らせてやってくれ」である。その願いに対し、小鬼が一つのルールを告げる。生き返らせる行為は「命の移動」であり、「願った者の命を、生き返らせたい者に移す」ことになる。だから「願った者」の「命が無くなる」のである。やはり心は全能ではない。犠牲なしに願いを実現することができないのだ。

 隊長は自身の払う残酷な犠牲に対して、「そんな」と絶句している。しかし、「姫が好きなのは、王子だったんだよな」とすぐに決意を固めようとしている。自分が「命を無く」しても、王子が生きていることが姫の幸福であることを納得するというやり方で。このとき、隊長にとって命を失うことよりも、命を失うことで姫が不幸になるかどうかが重要となる。何という犠牲心だろう。

 しかし、この隊長の固めつつある決意を私が冒険と呼ぶ理由は、自身の命を省みない犠牲心にのみあるのではない。ここで払う犠牲はもっと大きいのだ。まず、隊長がその写真を「宝物」と呼んだ「婚約者」の存在である(五場)。いま「王子を生き返らせる」という願いを叶えてしまえば、愛する「婚約者」に対して彼は何もしてやれない。一つの願いを叶えることが、心が望んだ別の願いを振り捨てることになる。

 次に姫が隊長を失うことが、本当によいことなのか、という疑問がある。自己犠牲が必ずしも誰かを幸福にするわけではない。姫にとって隊長はやはりかけがえのない存在であるだろう。この願いの実現は、姫に王子と隊長のどちらが大切かということを天秤にかけるようなものだ。こうした残酷な選択に対して、隊長が一人で答えを出していいものなのかが疑問である。

 最後は、「魔女」についてである。「魔女」は王子の非業の死を招いた衝撃で、「泣き喚きながら、谷に身を投げ」てしまっている。隊長は願いを叶えようとするとき、この「魔女」について考えることさえできない。隊長の真摯な心の中に、「魔女」は住むことができないのである。隊長が姫と王子の命を思いやるほどに、想われることのない「魔女」の死が現実世界にむごたらしく存在し続けている。

 願いを叶えようとするほどに、心の無力さは際立っていく。隊長の婚約者への思い。姫の隊長への思い。魔女の命。王子を生き返らせるという願いが、見捨ててしまうものはあまりにも大きいのだ。それでも、隊長は願ってしまう。心が望んだ一つの願いを叶えようとしてしまう。全能ではない、一つだけの心が思いつめた、最善の行為をなそうとする。この隊長の行為こそ、私は人間がなしうるただ一つの「冒険」だと思うのである。

 小鬼はさらにルールを告げていく。以下の引用で小鬼は、隊長の犠牲によって報いられるものが無であるということを語る。おそらくそれでも、隊長の決意は揺るがないだろう。心は全能ではない。しかし、願いを実現するために犠牲は、あまりにも残酷であると言えるだろう。


――小鬼:「それだけじゃねえんだ。」
  隊長:「ん?」
  小鬼:「命の、元の持ち主は。」
  隊長:「俺か。」
  小鬼:「忘れられちまう。」
  隊長:「誰から?」
  小鬼:「みんなから。みんなからだ。あんたは、いなかった人になっちまう。」(二十場)【次を読む】
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2006年03月13日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その15 「離れてある心」

――小鬼:「姫は?」
  隊長:「泣いてる。」
  小鬼:「そうか。」
  隊長:「俺が、全て気づいていれば……。」
  小鬼:「よせって。全てなんて。冗談じゃねえ。」(二十場)


「魔女の家から少し離れたところ」(二十場・冒頭ト書き)での小鬼と隊長の対話である。魔女の家では、姫は王子の死に直面して泣き続けている。つまり、隊長と小鬼は死の悲劇から「少し離れた」場所にいて、姫の悲しみに思いを馳せている。

「全て」という言葉は、誰かを救おうとする者だけが口に出すものだ。自分を救おうとするならば、「全て」など必要ない。姫の心に思いを馳せ、姫を守ろうとする時、姫の遭遇する「全て」の事象を察知しなければならないのである。

 つまり「全能」を求めることは自然でさえあるのだ。誰かの心をあますところなく救いたいと望むとき、人は「全能」を求め、「全能」でない自分を罰していく。そうして、自責の袋小路に入り込んでいく。だから小鬼は、「よせ」とその思いを断ち切ろうとしている。

 心を救おうとする心。隊長が姫を、小鬼が隊長の心を救おうとしたことは間違いない。離れてある心に手を差しのべ、それを救おうとするとき、誰の心にも等しく無力を残していく。そして、この心の無力さから、『たからもの』の冒険が始まる。


――隊長:「願いを。」
  小鬼:「ん?」
  隊長:「願いを叶えてくれ。」(同上)【次を読む】
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2006年03月12日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その14 「物語から心へ」

――姫:「何で、こんなに悲しいの? ねえ? どうして……?」
  隊長:「くっ……。」
  姫:「もっと話したいの、あなたと。ほんとよ。ねえ。」

    隊長、静かに出て行く。
    その間際に。

  姫:「わあああああああああああああああああああああっ。」(十九場)


 引用は、王子が亡くなった直後の場面である。姫の慟哭によってこの十九場は閉じる。この死の悲しさは誰もが知るところのものだろう。姫は初め、その感情の大きさにとまどう。次いで、まだ王子と語らう現実が続くようにふるまおうとしている。最後に死という現実が、姫の心身を圧していく。

 この時、私たちはもう物語の外にはいない。『たからもの』の中の死という現実が、私たちを物語の中に引き寄せている。だから私たちに見えるのは、物語の中に生きる人々であり、人々の心である。舞台から、私たちは少し離れた場所にいて「息をひそめて」いるのである。息をひそめながら、姫の慟哭を聞いている。

 その慟哭を聞きながら、私たちも「何で、こんなに悲しいの」かを自らに問うべきかもしれない。姫は王子を愛していた。王子とともに生きる現実があることを信じていた。そして、その心を理解する私たちも、彼らとともに生き、同じ現実に立っているのである。その場所から、私は彼らの心を語るだろう。【次を読む】
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2006年03月11日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その13 「思いという物語」

――隊長:「呪いを解いてくれって。何で思いつかなかったんだろう。」
  小鬼:「残念ですがお客様、それはお受けできません。」
  隊長:「何でだよ?」
  小鬼:「呪いを信じていないってことは、そういうものが俺のカタログに載ってないからでな。つまり、ないものは扱えないんだよ。」
  隊長:「欠陥品め。」
  小鬼:「おい!」
  隊長:「だってそうじゃないか。」
  小鬼:「あのなあ、全部が人間のためにあると思ったら大間違いなんだよ! モノによっちゃあ、互換性がないってこともあるんだ。」
  隊長:「やれやれ。じゃあ、魔女の居場所は?」
  小鬼:「漠然としすぎてるよ。どう説明したもんかな。あんたの思いってのがあるだろ。それがある程度具体的なとき、俺の能力でこう、手助けできるっていうのかな。」(十場)


『たからもの』の世界は、私たちが知る以上に大きい。この小鬼という存在こそ、その何よりの証であろう。「互換性」の件にあるように、彼の存在の「全部が人間のためにある」わけではない。それは小鬼が存在する世界も同様である。しかし、その小鬼は「呪いを解」くという願いを叶えられない。「思い」が「具体的」なとき「手助け」できるというその力が、及ばないのである。

 なぜだろうか。「呪い」も「呪いを解」くという行為も、人間の虚構に基づいているからである。つまりその「思い」は「具体的」ではないのだ。もちろん、責任転嫁という人間たちの負の意識を、小鬼が理解できないことも理由の一つだろう。「魔女とか呪いとか、俺は信じない」(十場)という小鬼だが、「魔女」や「呪い」が何かということを述べることはできない。やはり「呪い」は小鬼の「カタログ」にはないのである。

 隊長の「願い」は人間の社会の「思い」を伝えてくれる。それが虚構に基づいていたとしても、「思い」であることには変わらないのだ。「欠陥品め」という隊長の罵倒は、人間の傲慢さというより、虚構の中で人間が抱く思いが切実であることを伝えてくれる。一方、小鬼の能力は「思い」が世界の中で持つ可能性を教えてくれる。彼が願いを叶えるのは「手伝い」に過ぎず、その力は思い自体が有しているらしいのだ。時に願いは、人間が信じる以上の可能性を持つのである。

「世界」の大きさを想像しよう。その中には「小さな国」の人々の中だけで共有される「思い」がある。同時にその人間の小さな「思い」は、大きな世界の中に変化を生み出すほどの力を持つ。隊長が抱いた「思い」。そして小鬼が教える「思い」。そのどちらの「思い」も確かな人間の心なのである。この事実は、人間にとって残酷なものでありながら、同時に希望を与えている。『たからもの』の思いという物語は、かくも複雑な教訓を伝えるのだ。【次を読む】
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2006年03月10日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その12 「人間という物語」

 前回、死を前に人間が無力である事実を述べた。さらに人間は、死を含む世界に対しても無力である。この事実は人間に純粋な恐怖を与える。しかし、人間はただ無力さに甘んじているばかりでなく、無力さを与える世界に対して復讐を試みる。そのことが「呪い」および「魔女」を生み出したのだと思う。

 私が考えているのは以下のような物語だ。人智を超えた自然である「森」で誰かが死ぬ。例えば、それが幼い子供だったとしよう。その子がめったに人が近寄らない場所に入った理由も、命を落とした理由も不明である。人々は無力と恐怖に襲われる。そこで彼らは「魔女」を必要としたのだ。「魔」という人智を超えた存在も、ただの「女」に仮託することで復讐可能なものとなる。世界への復讐のために、一人の女を生け贄としたのだ。

 彼女はもともと「小さな国」の住民であっただろう。さらに「魔女の森」で長い間一人で生活できた事実から考えても、彼女は「森」に入ることを恐れない人間だったはずだ。この異質さが格好の標的となり、「あいつが森に入るのを見た」、「あいつが子供をさらった」と人々は噂をし始める。そのようにして、彼女を魔女たらしめるための根拠を積み重ね、彼ら自身が信じるに至ったのである。

 そして彼女を国から追放する。この追放から「呪い」が生まれた。エゴイスティックに「女」を追放した罪の意識から逃れるため、「小さな国」の人々は、いつまでも「魔女」と「呪い」に脅えることとなったのである。現実の魔女への迫害の記憶(それは決して遠いものではない)と相まって、それはもはや迷信とは打ち消せない実態をまとい、人々を脅かしている。

 これが「魔女」および「呪い」の真相であると信じる。それが無慈悲な「世界」に対する復讐であるかぎりにおいて、「みんな、かわいそうだ」(十九場)と王子が言うことも間違ってはいない。だが「小さな国」の人々が犯した罪は明白である。無実の「魔女」を迫害したこと。そして「世界」に対する人間の無力さから目を背けたことがその罪である。

 それは過去の罪ではない。彼らは不幸が起きるたび、魔女の仕業としただろう。「小さな国」の人々は、それが自らの業であるかのように、人間の理解の「外」の力から常に背を向け続けているのである。常に「魔女」の「呪い」という恐怖にさらされるということを代償に支払ったとしても、彼らは嘘にしがみつくことを選んだのだ。

 世界に背を向けて語り継いだ、人間という物語。それはいじましくも愚かな物語である。『たからもの』という作品は、その物語の限界を示すことで、逆に背を向けた世界の大きさを感受させる。この世界の大きさを直観しさえすれば、「呪い」の謎は決して奥深いものではなくなる。この世界がいつでも人間の謎であること、その解答を前提に解き明かしたものが、以上の文章である。【次を読む】
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2006年03月09日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その11 「死という物語」

 前回の補足にあたる内容を書く。王子は魔女を攻撃しない。「魔女とすっかり話し込んでいた様子。」(十九場)とあるように、王子は魔女と対話することを選んだ。ここで王子は「呪い」や「魔女」の迫害の真相を知らされたようだ。しかし、この直後王子は絶命してしまう。魔女の手から受け取った毒杯をあおることによって。

 この死という物語は、『たからもの』の中に突然現れる。その突然さは、私にとって滑稽ささえ感じるほどであった。

――魔女:「わたしはもう……。これで(持っていたコップを見せて)お……。」
  王子:「ああ、ありがとう!」

    王子、魔女からコップを取り、一気に飲み干す。(十九場)

 このコップの中身が毒である。王子が魔女の「城」に着く瞬間、魔女は毒をあおろうとしていたのである。しかし、その毒を王子は誤って飲んでしまったのだ。このとき、魔女は「これで終わりにしようとしていた」と言おうとしたのだろう。コップを示して、自殺しようとした事実を振り返り、それを告白したのだ。ここには死のうとした事実を乗り越えた魔女の姿がある。その生きる希望を示す行動を、王子は「飲み物を振る舞ってくれた」と誤解したのである。何という悲劇だろうか。

 この突然の死には、その必然を納得させる要素は全くない。「非業の死」という言葉そのままに、死すべき業を持たずに王子は死んでいく。この死に私が感じる滑稽さとは、死を前に、人間の生がただ無力であることによって感じるものである。

『たからもの』は童話の原典のような突然の死を描くことで、人間の生の無力さを教えている。しかし、どんなに無力であっても、人は死を前に何かを願わずにはいられない。私たちの誰もが持つこの願いが、一つの行為に転じること。それが『たからもの』の物語を生み出す端緒となるだろう。それは死への無力さを忘却させるような絵空事(ファンタジー)ではない。真新しいファンタジーがそこにあるのだ。【次を読む】
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2006年03月08日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その10 「罪という物語」

――王子:「姫はどこだ! 姫をどうしたっ!」

    魔女、無言で首を横に振り続ける。

  王子:「しらばっくれるな! お前が魔女だな!」
  魔女:「(なおも首を横に振り)ちっ、ちっ、違います。」
  王子:「くっ、騙されないぞ。」
  魔女:「ほんとです! ほんとに、魔女なんかじゃありません。」
  王子:「呪いをかけておいて、よくも抜け抜けと。このおっ!」

    王子、魔女に攻撃をしかけようと身構える。
    暗転。(十七場より)

 森に入った王子は、探し求めていた姫ではなく「魔女」と出会う。王子はこの物語の中で初めて魔女と会う人物である。しかしその魔女は孤独にうちひしがれた一人の女でしかない。それはこの場面を観た観客の誰もが納得することだろう。確かに彼女は「魔女なんかじゃ」ないのである。

 しかし、「入ったら最後、出てくることができない」という森に入った王子は、この出会いの瞬間にそのことに気づくことはできない。姫を救出するために、迷いを払って彼は魔女を攻撃しようとしている。この緊迫した瞬間に十八場は閉じる。この後、もし仮に王子が魔女に攻撃したとすれば、それこそが本作で語られる人間たちの罪の姿となっただろう。

『たからもの』の中で語られる罪は、行為の水準にとどまるものでは決してない。王子は大切な姫を守ろうとしている。だからこそ、彼は姫の言う「呪い」も「魔女」も信じてしまっている。姫が憂慮していた呪い。そして、姫を捕えているかもしれない魔女。姫の危機に際して、その二つの現象と存在について熟慮することなく、彼は攻撃を選ぼうとする。

 大切な誰かのための行為が過ちを生むこと。そして、それが誰かを傷つけるということ。この「小さな国」の罪の物語とは、要約すればこういうことではないだろうか。そうでなければ、一人の女を「魔女」として迫害した罪を、「中の人間」である彼らが忘却できる理由が分からない。誰かのための行為であったという正義が、彼らの意識から罪をきれいに洗い流してしまったのである。

 罪を忘却すること。実際の行為以上にグロテスクな罪の歴史が、『たからもの』の世界を覆っている。王子の攻撃は――仮に実行してしまえば――暗い歴史の反復となる。優しく聡明な王子が無実の女を苦しめている。だが、その動機は(姫への)優しさであるのだ。忘却に加えて、この動機こそが『たからもの』の罪の物語に余計にグロテスクな色調を加えている。この作品から、この罪の起源を読みとることができるだろうか。私にはまだ分からない。だが、ここには人間の業が確かに描かれていると思う。【次を読む】
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2006年03月07日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その9 「盲点という物語」

――王妃:「姫がいないの。あなた、何かご存知?」
  王子:「珍しいことなんですか?」
  王妃:「こういうことは……。」

    王子、ほんの少し考えるが、すぐに走り出す。

  隊長:「どちらへ!?」
  王子:「何であなたが分からないんですかっ!」

    王子、行ってしまう。

  王:「彼には分かるのか? 外の人間だぞ。」(十四場)


 かくして物語は再開する。姫は一人で「魔女の森」に向かっている。そこは「入ったら最後、出てくることができない」(十一場)と伝えられる場所だ。姫は国にかけられた「呪い」を解くために――自身の「問題をきちんと解決」するために――行動を決意する。上の引用の、残された者たちの会話を見てみよう。「外の人間」である王子は姫の居場所にすぐに気づいた。しかし、他の人間はそうではない。王も王妃も、長年側に仕える隊長も、姫がどこへ向かったのかまったく見当もつかずに右往左往している。

 これは奇妙な事態だ。「外の人間」である王子が姫の居場所を分かることは奇妙ではない。先夜に彼は、姫に「好き」だという気持ちを伝えており、彼女の望む「強さの証明」として自身が森に入ることを口にしている(十二場)。だから彼女の居場所に気づくことは自然なのだ。ここで奇妙なのは、彼女をよく知る「中の人間」たちが分からないことの方である。この引用の直後に隊長は王の発言にひっかかったようなそぶりを見せる。この時、隊長だけは、「中の人間」である自分たちの奇妙さに違和感を感じたようである。

 この「魔女の森」こそ彼らの盲点である。それは「入ったら最後、出てくることができない」という伝説が、いつしか「入ることが考えられない場所」となっているということだ。タブー視されているという以上に、考えるべきことが考えられていない。だからといって私は彼らを無知や愚かだとは考えない。というより、彼らは非力であり不誠実だったのである。愛する姫のために、「中の人間」である彼らは、可能性をくまなく考えるという思考を行わなかった。例えば、右往左往した後に、「彼には分かるのか?」と単に疑問を口にしてしまう王は、姫を分かろうとする思考の努力を放棄してしまっているのだ。だから王は姫の捜索に対して非力であるばかりか、不誠実なのである。

 引用の場面は「中の人間」たちの隠れた弱さと悪を表現する点において、『たからもの』の中で重要な場面である。盲点という物語は、真新しさと真逆であるところの人間の業を一瞬だけ、しかし入念に照らし出す。この業こそが「呪い」を生み出した母胎である可能性はあるだろう。そしてそれは、単なる「呪い」以上におぞましいものであるかもしれない。【次を読む】
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