2006年03月04日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その6 「演技という要素」

  ――王妃:「あなたも。あなたもゆっくり。あの子には、わたしから話してみます。」
    王  :「いつ?」
    王妃:「い・ず・れ! いい? 下手に動かないのよ。」
    王  :「……。」
    王妃:「返事は?」
    王  :「……。」
    王妃:「(王の顔を両手で掴んで)ん?」
    王  :「はい。」
    王妃:「約束よ。父親らしくね。」
    王  :「ん。」
    王妃:「夫としては、そんなにひどくないんだから。」(七場より)

 人によって感じる距離感が異なることを、誰もが体験的に知るだろう。上の引用場面を見るときに、この「距離感の変化」というものがよく表れていると思う。王と王妃が娘についての相談を行っている寝室の場面で、黙ったり、そっけない返答をする王は、甘えた子どものようである。また王妃は、母親のように王をいさめている。

 ここでは、寝室という空間の中で、互いだけの親密さで会話をしている。箱椅子のみが舞台装置である『たからもの』にとって、こうした距離感の近さが空間を伝え、物語という厚みを生み出している。つまり演技が空間を生み出す力が求められている。それが本作の演技の魅力である。

 最後の台詞に注目しよう。「夫としては、そんなにひどくないんだから。」という台詞は、舞台では独り言のように聞こえた。それはこの七場で「馬鹿じゃないもん」などと口走る王がまるで馬鹿のように振る舞うことから印象づくられる。「そんなにひどくない」という台詞は、ここでは相手への親密さを伝えるものでありながら、王に完全には理解されない性質の感情が語られている。

 この台詞は、相手をいたわる愛情深さを持ちつつ――また、バカップルのようでもあるが――王には完全には届かない。「王の顔を両手で掴」む距離感の近さの中で、わずかに隔てた台詞の響きがそこにはある。人によって異なる距離感は、ある時点で抱いた感情によっても変化するのだ。王妃はここで相手を思う孤独な空間を生んでいる、と言えるだろう。

 この距離感の微細な変化の響きが青松の台詞にはある。一つ一つの台詞が、耳を傾けることで、刻々と真新しい人間関係=空間を生み出し続けていることに気づかされる。

(ちなみに、脚本の「耳」の良さがこの引用から指摘できる。「いつ」「いずれ」の頭韻は、聞いていて心地よい。そもそも台詞の韻とは、音楽がそうであるように、音の調べの良さのためにある。それを「意味」にまで喚起させない密かな頭韻こそ、そうした音の調べに観客を乗せていく。)【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林二本目篇