2006年03月21日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その23 「現実という世界」

――小鬼:「そう言うなって。あんたも独り言言わずに済むだろ? けっけっけ。」
  隊長:「独り言ではない。」
  小鬼:「そりゃまあ、どう呼ぶかはあんたの自由だ。……なあ、それ何だ?」
  隊長:「ん?」
  小鬼:「話し相手だよ。」
  隊長:「ああ。宝物だ。」(五場)


 見えない世界に対して、私たちは真実何ができるのか? その答えを私は、空白に思いをこらすことだと考えている。そのことが、「見えないもの」を確かに存在せしめ、無数の世界を「いま」「ここ」に招きよせることができるのだ。考えてみれば、私たちの身の回りには「空白」が多く存在している。すぐ隣りの人物の心や、世界のどこかで起こる出来事、もはや手の届かぬ過去、そして人間の智恵の届かぬ存在など、「見えない世界」は無数にある。これらを心の中に「空白」として住まわせること。そして、その「見えない」空白に対して思いをこらすこと。

「見えない世界」の全てを把握することなど誰もできない。しかし、「見えない世界」のわずかな実在に触れることはできるだろう。その実在のかけらをこの作品は「宝物」と呼んでいる。

 引用の「宝物」とは、死んだ婚約者の写真である。隊長にとって、この婚約者の不在こそが心の空白であることは間違いないだろう。だがそれは空虚ではない。隊長は心の空白を「話し相手」として「いま」「ここ」に招きよせている。それは小鬼にとって「独り言」に見えてしまう。だが、隊長は彼女が生きた過去、彼女を愛した過去という空白に思いをこらすことで、過去という「見えない世界」を現在に引き寄せている。「いま」「ここ」に招きよせられた世界はもはや過去ではない。それは紛れもない現実として、隊長の心の中に住まうことになる。だから婚約者の写真は過去を映したものではない。それは「いま」「ここ」に婚約者が実在することを示す大切な「宝物」であるのだ。

 これを感傷に過ぎないと考えることもできる。確かにそれを「どう呼ぶか」は私たちの「自由」ではある。だが、不自由な「いま」「ここ」という現実に対して、心がどれだけ「自由」であるのかという冒険を私たちは諦めてはならない。心の自由へ向けた冒険に踏み出すこと。それをどう呼ぶか、どう捉えるかは私たちの自由であるのだ。この心の自由が、『たからもの』の奇跡を生み出すことになる。【次を読む】
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