2006年11月30日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・1

 ここまで、幽霊をめぐっていくつかのリアルを取りあげた。一口に言って、それらは異質なレベルのリアルである。しかし、同時に一つでもある。個人にとって、特にフィクションに触れる個人にとって、リアルは一つの世界観としてまとめられるからである。局所から世界へと、リアルは拡張され世界をかたどる。

『あなたへ』の幽霊をめぐるリアルがどのような世界観を形づくるのか。それは見過ごされがちな人間の心を主題としたものとなる。これを想像するとき、非現実なはずの幽霊は世界を構成する必要なピースになるだろう。その傍証をここでは略す。いま私が強調したいのは、『あなたへ』という物語の世界観の中に含まれる特徴的なかたちである。

 例えば「二章 第一部 強固な信頼とは何か(4)信頼によって生まれるもの」「二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(4)演劇というリアル」を参照してほしい。両者にあるのは、心の同期=他人の心を事実として捉えるリアルであるとまとめられる。

『あなたへ』の観客は、この両者のリアルに順に触れていくことになる。まず演劇行為の中にある「他人の心を事実と捉えること」を体感する。次に同じ現象を登場人物がリアルとして生きる場面を目撃する。さらに物語が日常生活を描くため、そのリアルが観客の現実に起き得ることを喚起させられる。

 つまり、『あなたへ』の世界観の中には、「演劇形式」「物語内容」「現実世界」三者に同形のリアルが描かれている。この相似形は暗号ではなく必然である。『あなたへ』は、「他人の心を事実として捉える」という一事を、「いまここ」と世界に通底する中心として扱っているのである。

『あなたへ』の世界観は、波紋のように広がる同心円のリアルによって構成されている。「他人の心を事実と捉える」という中心を共有するやり方で、外へ外へと向かう実感の広がりによって世界観が構成されているのである。中心から濃やかに広がる世界観を持つことは幸福である。自分と世界との緊密なつながりを強く実感できるからである。

 そして、「国家公務員」という「非現実さ」も確かにこの中心を共有している。しかしそれを「幽霊」と同じ円に含めるべきでない。本作で物語られたどんな事象よりも外側に位置づけるべきである。そのように「国家公務員」を世界観としてのリアルと捉えるとき、『あなたへ』のほとんどの観客にとって意外なメッセージを抽き出すことができるだろう。私は次回から、この最も外側の円について語ることにしよう。【次を読む】
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2006年11月29日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(4)演劇というリアル

――寺崎:ズバッといこうか。
  田中:?
  寺崎:あんた、死んだんだよ。
  田中:えっ?(一場)

『あなたへ』の物語は、公園で所在なく佇む田中博司に寺崎守が話しかけたことで開始される。寺崎は「家を出てから誰かと喋ったか」「携帯も、つながらない」と次々に田中博司の状況を言い当てていく。寺崎にとって田中博司は幽霊以外の何ものでもない。上の引用は、そうした寺崎の把握をストレートに当人に告げる場面である。

 この場面の前後には幽霊のリアリティを支える詳細な設定がある。しかし、私はそれらを略して別の事柄を扱いたい。引用の場面は、演劇のリアルの核心を示しているように思えるのだ。

 演劇は生身の俳優が演じる物語である。演劇を見る観客は、目の前にいる彼らが俳優であることを知っている。物語の開始点でそのことは明確に意識されている。しかし、それはいつしか意識の後景に退いていく。俳優を登場人物として見るからである。

 登場人物に共感することでそのリアルは生まれていく。しかし、それは単純なプロセスではない。登場人物に共感するということは、その俳優が発するメッセージを鵜呑みにすることではないのだ。ここには、登場人物の捉え方を他の登場人物によって学ぶという精妙なプロセスがある。

 引用に戻ろう。ここで寺崎守は田中博司を幽霊として捉えている。それが表現された瞬間に、観客は単なる生身の俳優が、別の視線によって見られていることを意識する。この寺崎の視線に対して観客は理解しようとし共感を与える。このとき、生身の俳優が登場人物に変化していくのである。

 リアリティを支える詳細な設定は、このリアルの核心を補強するディテールに過ぎない。演劇のリアルの核心には、他人の視線のリアルがある。田中博司が幽霊であるのは、寺崎が彼をそのように見ているからである。つまり演劇のリアルの中では、(自分の)見えないものを見ることができるのだ。この精妙なプロセスは、幽霊というものの存在のありようと驚くほど近いのである。

(注釈として。東京青松では演劇を「心劇」、俳優を「演者」と呼んでいる。ここには、演劇や俳優が観客に直接表現を行う「物語を殺すストレートさ」というニュアンスをその語から除きたいという意図があるように思う。しかし私は一般論として演劇のリアルを扱おうとするために「演劇」「俳優」という語を用いた。)【次を読む】
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2006年11月28日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(3)生の実感の中のリアル

――田中:その人がね、いつもと違ったんです。下を向いて、そんな様子を見たのは初めてだったもので、それが凄く気になって、なんていうか、声をかけたいような、そんな気持ちになってしまって。
  寺崎:どう?
  水元:ええ、たぶん。
  田中:えっ?
  寺崎:それだよ、田中さん。
  水元:そのとき、あなたは事故に遭ったんです。
  田中:事故?
  寺崎:田中さんにとっては、事故の衝撃よりも、その人のことが重要だったんだ。(四場)


「車道をはさんで、向こう側を歩いている」他人の「いつもと違った」という出来事が、田中博司の最後の心象となる。それだけでない。田中博司が「事故の衝撃」を忘れているのは、「凄く気になって、声をかけたいような、そんな気持ち」になった瞬間である。

 私たちは、この時点をつかまなければならない。田中博司の心を占めるのは、現実世界に自己の思いを届かせたいという意思である。

 心象と意思。どちらも人間が世界を捉えつながりを持とうとするとき生まれるものだ。人間の生は心象と意思によって占められていると言えるだろう。田中博司はその最後の瞬間に、生のあるべき形に自らを開いていたのである。

 この姿が死という軽さによってかき消される。心象や意思など目に見えないものは現実世界にその痕跡を留めるべくもない。そして、このことを「意外」と感じることも、人間の実感であると思う。

 幽霊はこの実感の中のリアルである。生のあるべき形がただ意味もなくかき消されることが信じられない。幽霊とは信仰や願望であるよりも、第一にこの実感の中にある存在である。

 この実感の中では、目に見えない心というものが極めて鮮明に捉えられている。それもまた上の引用で確認できる。田中博司にとって「事故の衝撃」より、他人の心の変化が「衝撃」を与えるほど鮮明なのだ。この田中博司は生の実感を純粋に生きていた。

 私たちがこのように感じる瞬間に、幽霊である田中博司は、私たちの実感とつながる存在となる。それが信仰や願望であるよりも、あるいは物語の設定としてよりも、田中博司が生けるリアルとして実感されるのである。そのような作劇が『あなたへ』には存在している。【次を読む】
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2006年11月27日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(2)死というリアル

 幽霊である田中博司が私たちと同じリアルな存在であることを私は「一章「あなた」とは誰か?(1)・1」「一章「あなた」とは誰か(1)・2」で詳述した。田中博司と私たちとの差異は、彼が死んでおり、私たちがそうでないということに尽きるだろう。


――清美:〈略〉すぐ横で事故が起きたんだよ。
  優二:で?
  清美:え?
  優二:死んだの?(三場)


 田中博司の交通事故の原因を、真山清美と木下優二は知らない。だから、このような事故が「すぐ横」ではなく清美と優二、私たちを襲う可能性はあったとも思える。いま私は、「先のことは分からない」というようなごく平凡な真理について語っている。しかしこの平凡さの中に、息苦しいリアルがある。

 清美と優二の会話に戻ろう。分からないのは「先のこと」ばかりでない。彼らにとって、他人が経験した過去は分からない。引用の優二の問いに、清美は「分かんないよ、そんなの」と答えている。他人が経験した過去は、その死であったとしても、「そんなの」という軽さを持つかのように無責任であるほかない。

『あなたへ』という作品には、事故の状況を伝える情報は上の引用箇所にしかない。ということは、田中博司自身にもその死は不明であるようだ。「先のことは分からない」というどころではない。死というものは、過去・現在・未来の全てを「?」にしてしまう。

 死は私たちに、「?」という疑問符で宙づりするような、息苦しい軽さを与える。断定しよう。死というものは軽い。生の重さに比してあまりに軽いのだ。その軽さが私たちの生を傷つける。死をめぐる重さは、その軽さに反する結びつきを死者と私たちの間に信じる、あるいは信じたいと思うことで生じるものだろう。

『あなたへ』は、こうした死の本質的な軽さというものを捉えているという意味で、リアルな作品である。幽霊が登場するという意味でファンタジーであり、この作品から死の深刻さを感じたものはあるいは少ないかもしれない。しかし、引用箇所で語られる死の軽さは、胸を締めつける息苦しさをもって物語られていたのである。幽霊が生まれる直前に、本作は現実的なリアルをそこに置いた。【次を読む】
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2006年11月26日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(1)非現実さの中のリアル

 心の同期によって日常の幸福を生み出すこと。その実現を真摯に求めているのが『あなたへ』だとすれば、この物語の設定にある「非現実さ」をどう捉えるべきか。ここで言う「非現実さ」とは、田中博司が幽霊であること。そして寺崎守、水元翼が幽霊を成仏させる「国家公務員」という職に就いていることを指している。


――田中:ありがとうございました。変な話ですけど、死んでから最高の友達ができた気分です。(十三場)


「最高の友達」とは、寺崎と水守を指す。田中博司は幽霊にならなければ、彼らと出会うことはなかった。そして田中博司は彼らとの交流の中に力を得て、心の同期を開始している。つまり、心の同期の中核には、幽霊にまつわる「変な話」=「非現実さ」があると言っていい。このとき、一つの問いが問われなければならない。それは「心の同期を生み出す条件が真に日常の中にあるのか、それとも非現実というフィクションの中にしかないのか」である。

 結論を先取りしよう。心の同期は日常の中にこそある。そう信じる私は、この物語の「非現実さ」について考えなければならない。そうして、物語という「非現実さ」の中にある心の同期を現実に還付させたい。第二章第二部は、作品が現実に生きるという証明に捧げられる。具体的には、この二つの「非現実さ」の設定に明白なリアルがあることを書く予定である。【次を読む】
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2006年11月25日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(4)信頼によって生まれるもの

 心の同期が生みだすもの。それは一つの幸福であることは間違いない。私たちの自我のエゴイズムにとって、他人の心を生きるという感覚自体が奇跡的なのだから。ここでは、真山清美が得たものが何かを追ってみよう。


――清美:ねえ優ちゃん、私のこと好き?
  優二:え?
  清美:好き?
  優二:ん。
  清美:え? ちゃんと言って。(十四場)


 田中博司の手紙を読み終えた真山清美は恋人木下優二と幸福な時間を過ごしている。真山清美が得たものは、簡単に言えば「自信」である。優二の一言半句に過剰な配慮をしては傷ついていた真山清美が、優二に気持ちを(三度も)問うている。自分に自信をもって相手と向き合うことが、幸福な人間関係を生むという自己啓発をも感じさせる。

 真山清美はここで「私だってモテるんだよ。知ってた?」とも言っている。こう聞くと田中博司の手紙は、自分がモテるという自信を与えてくれるものでしかないように見える。しかし、それだけのことなら自信はすぐに砕けるだろう。例えば、優二が考えなしに「嫌い」という返事をするなどがそれである。その程度の自信は即座に自己不信へと転落する。

 ここで描かれている幸福な時間には、そのような転落の危険を感じない。それが「ハッピーエンドのお約束」だからではなく、ここには別様の自信があると解すべきだろう。それは引用場面にはっきりと示されている。真山清美は恋人が自分のことを「好き」だと知っている。そしてそのことを「ちゃんと言って」ほしいと思っているのだ。今までの真山清美を考えるならば、ここにこそ最も驚くべき自信がある。

 この自信は単純に木下優二の心を理解しているということから発している。言い換えれば、自分の心の中に、他人の心をも容れているということになる。つまり、自分の何かに自信を持つのでなく、相手の心のリアルな感触が、真山清美に自信を与えている。そしてこの自信が木下優二の心を打つ。自分の心のリアルを捉えた言葉が、重んじるべき他人の心として心を打つのだ。

 まとめよう。この心の同期が生みだすものは、他人と生きる現実的な幸福である。他人の心を生きるという感覚の奇跡から、他人と生きる現実の幸福が与えられている。真山清美が得たのは、心と日常の幸福である。田中博司の手紙によって他人の心を生きた真山清美は、木下優二の心を生きることを自然と開始し、木下優二と生きる日常の幸福を得ているのである。

 真山清美は心の同期に無自覚である。そのことは、この精妙な現象を自覚するという非凡さに、私たちが立つ必要のないことを語っているように思う。『あなたへ』は私たちにこのように心の同期を生きることを促している。それがもはや感覚の問題ではなく、日常の幸福となることを見逃しようのない真摯さで示しているのだ。【次を読む】
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2006年11月24日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(3)同期する心について・2

 手紙の配達人は手紙の内容を知らない。「田中さんの手紙をさ、覗くようなまねはしないから」と言う寺崎守と、それに「もちろん僕も」と応ずる水元翼は、田中博司が何を書いたかを知らない(十一場)。にもかかわらず、彼らは田中博司の手紙が読まれるのを見届けようとする。何のために? もちろん田中博司のためにである。ここに素朴な親切というものがある。

 彼らは、田中博司の思いが真山清美に届くことを望む。しかし、この望みはいくつもの迷いを抱えている。本当に田中博司が望むように、真山清美に思いを届けることができるのか? 仮に届いたとしてもそれが田中博司の思いを遂げさせることになるのか? また、その思いが遂げたのを彼らはどのようにして知ることができるのか? これらの全ては正解が想定しきれない。未来には迷いがある、だから彼らは緊張する。

 田中博司がナレーターとして手紙を読む時間の中を、寺崎守と水元翼はこのように過ごしている。真山清美と田中博司の心の同期を、その外側から、緊張しながら見守っている。彼らは、手紙の内容を知らない。それと同じく、心の同期の運動も知らない。にもかかわらず、彼らは「この近く」に立つことになる。

 真山清美は手紙を読みおえる。田中博司の意志を信じるならば、寺崎と水元の意志も信じられる。真山清美は、彼らの振る舞いを受け入れるべきものとして映じるだろう。そのように映じた中に、感じるものがある。それは田中博司の存在である。たとえば、それはこんな近い過去に感じられるものだ。


――水元:(略)できればその、読んでいるところに立ち会わせていただきたいんですが。
  清美:……いいですよ。
  水元:本当ですか?
  清美:ええ。八つ当たりしちゃった分。
  水元:ありがとうございます!

        水元、向こう側にいる二人にガッツポーズ。(十二場)


 そしてそれは、清美が手紙を読み終えた直後にはっきりと感じられる。


――清美:読みました。
  水元・寺崎・田中:ありがとうございました。(十三場)


 そう。三人は感情を共有している。だから真山清美には、ここに二人しかいないことに違和感を持つ。寺崎と水元が心を共有している三人目が、彼女に見えないことが不思議なのだ。寺崎と水元の振る舞いの自然さが、三人目の存在を確かに示しているというのに。

 だから彼女は寺崎と水元に問う。「これを書いてくれた方、近くにいらっしゃいますか?」と。このフレーズは、二つの事実を示すだろう。一つは、清美が田中博司を直接「ここ」にいると感じていない事実。もう一つは、「近くに」いるか否かの答えを、清美は寺崎と水元が知るだろうと考えた事実である。彼女に田中博司は見えない。しかし、寺崎と水元が見る田中博司を共有しているのである。

 真山清美が幽霊である田中博司を感じること。これは『あなたへ』の作品の中で「奇跡」と感じられる。しかし、これは心の同期がもたらす副産物に過ぎない。心の事実として「近く」に感じる誰か。その誰かの「近く」にあって、感情を共有するものたちがいる。この誰か=田中博司へ寄り添う心を通して、彼らを見れば、そこに三人目がいるように振る舞う事実が見逃しようなく現われてくる。

 真山清美は、この心の事実を、自分の見える事実によって切り捨てはしない。このことが、真山清美が心の同期を生きている事実を物語る。そして、この同期もまた過剰であるのだ。一つの心の同期が、他の心との同期をも生むこと。裸の心が過剰な世界へと接続されている。これを奇跡と思うべきではない。単に奇跡を信じるのでは、同期する心のリアルが見失われてしまうのだから。この心の同期が私たちの現実の可能性であることを、寡黙に、だが雄弁に『あなたへ』は物語っている。【次を読む】
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2006年11月23日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(3)同期する心について・1

 田中博司の手紙は「奇跡」と感じられる場面を生み出している。それは、真山清美が、幽霊である田中博司を感じることである。


――清美:……あの、これを書いてくれた方、近くにいらっしゃいますか?
  水元:え?
  清美:今、この近くに?(十三場)


 清美が口にする「今」とは既に過剰である。たとえば、田中博司が手紙を書いた過去がここに共存している。「今」という実感は自分のありかを確認させてくれるものだ。しかし、その長さも広がりもはっきりとしない。この「今」の記述を試みてみよう。

 この「今」には、田中博司の意志が息づいている。手紙を読む清美にとって、その意志は彼女につながっている。けれども思い出してほしい。田中博司の意志の源は、真山清美の存在の大きさへの誠実であるのだ。真山清美にはこの時、自分よりも大きい自分が届けられている。これは何という過剰だろうか。

 真山清美は田中博司の意志を受けとる。自分という小さなひろがりの外側から、田中博司は思いを向けてくる。その意志を信じれば、より大きな自分という存在もまた信じられる。誰かの真心に触れるということが、「今」を過剰にし、それが自分の存在をひろげていくことになる。

 これが「今」の素描である。互いの心が触れることが、相手の心のリアルを受けとるという経験を私たちに与える。この「今」の可能性は、そのまま心の可能性を物語る。少なくとも、私たちの中の一人である真山清美は、この可能性を生きている。

 真山清美は言う。「私は幸せです。でも、あなたのお陰でもっともっと幸せになれそうです」と(十三場)。これは率直なコメントである。自分の「幸せ」が、他者の心に触れることで「もっともっと」強まるという平凡な事実がここにある。しかし、この「幸せ」は、単に思われることの幸福感ではない。それだけのことならば、自意識の利に資するばかりだ。

 それは他者の心の中に自分が生きているのを知ること。そして、「他者の心がもたらす生を自分が生きる可能性」を受け入れることである。この精妙な心の運動が、強度の「幸せ」をもたらす。多くの人はこれを愛と呼ぶだろう。しかし、私はいま、愛が持つ力の一部をもっと具体的に記述したい。

 私はこれを心の同期と呼ぼう。心と心が同期するとき、互いのリアルが流れ込んでいく。「今」とはいつのことか、もう明らかだろう。それは心と心が同期する過剰な時間である。その過剰な「今」が、相手の心をも含んだ自分のありかを確認させてくれる。

 田中博司と真山清美の心は「同期」している。だから、彼らの心は極めて「近く」にある。もちろん、この心の事実と、「近くにいらっしゃいますか?」という問いを発することは明白な差異がある。真山清美が、幽霊である田中博司を感じることができたのは、心の同期の次なる運動を待たねばならない。そして、ここには、手紙の配達人である寺崎守と水元翼の存在が大きく関わっているだろう。【次を読む】
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2006年11月22日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(2)無力の壁

 田中博司の手紙を一部引用する。


 ――私にできるのは、いや、「できる」というのはおこがましいですね。私がしたいのは、ただあなたが幸せであることを願う、そのことだけなのです。
   (十三場)


「できる」という言葉を田中博司は修正する。「できる」を「したい」に言い換えるのは、ごく自然な言い回しである。それは謙虚な意志表明となる。けれども、「願う」ことを「したい」というのはほとんど異様なフレーズである。田中博司にとっては「願う」ことさえも、分を超えた行為だと捉えているのだ。

 何故「願う」ことが分を超えているのか。その答えは、私たち自身が手紙やEメールなどで「願う」や「祈る」という言葉を書くときの心境に立てば、たやすく思い至るだろう。誰かへの言葉を書きつづる時、誰かにとっての善を望もうとするほどに、その目と手の届かない誰かに対する無力が感じられる。

 田中博司が無力にどれ程の時間立ち止まったかは不明だ。けれども彼は無力を超えて真山清美に語りかけている。「私にできる」ことよりも、「私がしたい」ことを伝えることが必要である。田中博司は、そのように自分の意志を堅持している。

 田中博司はまた、別の無力にも出会っている。通常私たちが誰かに「できる」ことよりも「したい」ことを選ぶ場合、それはいつも誰かに直接影響を与える行為が選ばれている。例えば「助けられないかもしれないが、話したい」など。このような具体的な行為の中で、より善なるものが生まれることが期待されている。

 田中博司はそうではない。彼は、目と手の届かない誰かに対して無力であるばかりか、相手の応答を得られるような具体的な行為にも無力である。田中博司は二重の無力の中にある。だからこそ田中博司は、純粋なる私たちの隣人となる。

 私たちは誰かに対して無力ではないのか。こうした問いを私たちは抱えている。それは例えば「助けられないかもしれないが、話したい」と言って知人と会った後に抱く苦さを想像してみると分かる。自分が善をなしたということが、誰かにとって善であるかは何の保障もないことを知るだろう。

 繰り返そう。田中博司がこれらの無力にどれ程の時間立ち止まったかは不明である。それでも、彼は伝えることを選んだ。つまり、彼は無力の壁を超えたのだ。単に何かをしてみせる以上に、無力を超えることに自分の意志を堅持している。

 だから、この手紙の意志は過剰である。つまり、手紙の書かれた過去の時空から既に過剰であったのだ。手紙の書かれた時空が読まれる時空と共存することで生みだされる物語を私はまだ語り出せないでいる。それは次回に譲ろう。この文章で最後に強調しなければならないのは、過剰な田中博司の姿の平凡さである。

 過去から現在にかけて一つの意志を堅持する田中博司。彼が手紙を読む姿は、誤解を恐れず言えば、全く格好良くなかった。平凡な人間がいまここにいるのだという感じだった。田中博司は、誰かを思う心などを表現していない。ただ真山清美を思う、その一事によって立っていた。その無防備さ、その裸さが、私たちに静かな感動を与える。この田中博司の姿は、平凡にして大きいのだ。【次を読む】
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2006年11月21日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(1)象られた力

 真山清美に送った手紙が読まれる場面で、田中博司はナレーターとなる。脚本では、以下の指示が読める。

    ――清美が封を開けるとともに、照明も変化。
      田中が手紙を音読する。(十三場)

 この劇構成には、はっと胸をつかれる。使い古された劇的手法でありながら、それが真正の感動として私たちに感受されるからである。何故そのようなことが起きるのか。まず、手法と物語の強固なつながりとしてそれを論じてみよう。

 一般論として、映画や演劇で、手紙を「上演」することにノイズを伴う。演劇では文字が小さすぎて観客が読めない。映画では観客が読むためのショットが冗長となる。そこで音読という手法がある。そして送り手が手紙を音読する場合、それは物語上の時空とは別の時空を挿入することになる。手紙の書かれた時空が、手紙の読まれた時空へと招かれる。

『あなたへ』は、手紙の音読によって生じる時空に対して、明確な目的を与えている。私は「時空を挿入する」という言いまわしを用いた。他の多くの物語には当てはまるが、『あなたへ』という作品には、不適当な言い回しであったと思う。それは「共存」というべきであろう。

 田中博司によって手紙が書かれた時空も、真山清美がその手紙を読む時空も、ひとしなみに貴重である。どちらの時空にも、一つの心が揺れている。その心の時空を等価値として共存させること。それがこの場面に託された意味だと私は思う。『あなたへ』は、この場面で、時間の進行の中でかき消えてしまう心と時空のつながりが余さずに捉えられているのである。そもそも文字とは、そのように伝達されるものなのだ。

 手紙の音読は、このとき使い古された劇的手法であることをもうやめている。人間のなす事実として、文字の力を正確にトレースしている。手法と物語が表現するものが、ここでは充実した一致を迎えているのである。そしてこの物語の破格さは、その次に用意されている。書かれた時空と、読む時空が共存するいまとは既に過剰である。この現実の過剰さが、次なる物語を生みだすことになる。【次を読む】
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2006年11月20日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? 章末「私たち」とは誰か

『あなたへ』という作品タイトルに込められた意味は、以下の引用の箇所で観客に明らかにされていたと思う。

――あなたへ。
  私はあなたの素敵なお名前を知っているのですが、事情があって、あなたの前に現れて、名乗ることができません。とにかく、私だけが一方的にあなたのお名前を呼ぶということを誠実と思えないので「あなた」と呼ばせてください。(十三場)

 これは田中博司が真山清美に宛てた手紙の冒頭である。だから「あなた」は真山清美を指す。そして、作品タイトルは「誠実」をもって呼びかけられるべき私たち全てを指す意味のふくらみを持っている。

 では、「誠実」をもって呼びかけられるべき私たちとは誰なのか。この問いに答えることは難しい。他の誰かにとって、私たちがどのような存在かを私たちが答えるのはいつも難しい。このことを『あなたへ』という作品が、考えるヒントを与えている。

 この文章で書いてきた人物像をトレースする形で「私たち」とは誰かを見ていこう。私たちは田中博司のように日常に侵食されることもある。真山清美のように、平凡さに苦しみ、わずかな暴力によって傷つくこともある。逆に、木下優二のように、わずかな暴力によって他者を傷つけてしまうこともある。

 こうした弱さばかりではない。真山清美の非凡さもこの文章では触れている。田中博司の気弱さは、他者に配慮する優しさから生まれているとも考えることはできる。しかし、このように「でもある」というような考え方を進めることは、「私たち」の一部を捉えてはいても、ついに「私たち」自身を表しはしない。

 では、「誠実」をもって呼びかけられるべき私たちとはついに不明なのか。そうではない。そのことを『あなたへ』は確信をもって伝えている。木下優二を心劇によって捉えるということをこの作品は求めていた。心によって、他者の一部ではなく全てと出会う可能性を語っているのだ。

 私たちとは誰なのか。それは心を向けるときに明らかにされるなにものかである。田中博司を、真山清美を、木下優二を、他のたくさんの人々を私たちは心によって捉えてきた。その自身の心に問うてみれば、私たちの姿を感じ取ることはできるだろう。

 その姿が「誠実」に値することを『あなたへ』は注釈する。「誠実」とは持つものでも求めるものでもない。他者と心で向きあうときに自然と抱く感情である。個性と弱さを併せ持つ存在に対する慈しみは「誠実」に遠く及ばない。私たちの姿は、もっと大きい。

 田中博司は、真山清美をそのように捉えている。相手の存在の大きさに向けて、慎重に言葉を紡いでいる。この「誠実」が起こした出来事について、私は章を変えて書きたいと思う。奇跡に等しいが、絵空事でも理想でもない。人間のなしうる当然の出来事として語られていることを、見誤ってはならない。

(この文章の連載を、星屋の個人的な事情によって中断させていた。この文章の読者と、東京青松のメンバーにお詫びする。時間的な断絶を含んだ文章だが、私の意図は何も変わらない。引き続き、この作品にある「強固な信頼」とは何かを明らかにしていきたいと思う。)【次を読む】
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2006年11月19日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (3)木下優二とは誰か・2

 木下優二は何に心を向けていたのか? その明確な答えを得ることは困難である。木下優二はこの作品において徹底して釈明をしない登場人物であり、彼の心理を捉えるために単純に情報が少ないのである。しかし、これだけははっきりと言える。その疑問の答えは私達の眼前に提出されている。この作品に木下優二の心は確かに存在しているだろう。

 例えば東京青松の暗転は物語を容れる独自の構造を持っている。その独自さが、暗転の中の木下優二を読むことの保障となるだろう。ちなみに、暗転について私は『東京青松の道/客席から』・植林一本目篇その2その3で詳説している。しかし、植林三本目『あなたへ』における暗転の物語は、また別の趣をもって観客に感受されるだろう。それは特に、木下優二の場合に顕著である。


  清美:ねえ優ちゃん、私のこと好き?
  優二:え?
  清美:好き?
  優二:ん。
  清美:え? ちゃんと言って。
  優二:……。


         暗転。(十四場)


 暗転で語られた物語を推測することはたやすい。引用で「ん。」とぶっきらぼうに肯定する優二の中で、清美に対する愛情と気恥ずかしさが交差している。ここには、優二の愛情が物語られるエピソードが含まれているのだ。それを推測することで物語は厚みを増す。しかし、それは推測の終着点ではない。前回触れた清美に対する彼の行動をそこに合わせてみよう。清美に愛情を持つと同時に、心を欠いてしまう人間である。

 さらに言えば、彼は清美に性交渉を求め断られた腹いせに家を飛び出すような人間である。そのとき彼が別の女性と会っていたという話もある。こうした多くの要素を推測の材料に投げ込むと、彼の心の本体を定めることは難しくなるだろう。清美への愛情に気恥ずかしさを覚えながら心を欠き、同時に他の女性とデートする男。むろんデートも誤解の余地はある。なぜならそれは暗転の中の出来事であり、はっきりと我々が目にしたわけではない。このように、事実関係さえ不明確であるのだから、彼の心はますます不定となる。

 ここが推測の限界点である。しかし、それは答えがないことを意味しない。優二を判断する一番の材料を残している。それは私たちの目の前にいる優二自身である。実際に、優二という人となりに接して、彼がどういう人物かを直観する。答えがないのではない。観客一人一人が別の解答を生み出すこととなるのだ。つまり優二という人物を知るためには、彼に接したあなたの心を問い尋ねてみなければならない。

 東京青松の「心劇」の中で、私たちは現実の人と向き合うようなやり方で優二と出会うことになる。事実や心が不定であること。それでも相手から何かを受け取り、自分の心によってその何かを定めていくこと。事実の推測の果てに、彼が何者であるかを判断することが心の試練となる。多くの人はこのことを自覚しないし、時に「誰も本当は分からない」というシニカルな認識にこもろうとするだろう。しかし、心の試練はこの現実に存在しているのだ。

 だから優二は私たちの中の一人である。取替えの利かない個性を持つために、推測やイメージを拒む存在である。推測や想像力やイメージを働かせるだけではなく、それを自分の心で受け取ることが求められている。あなたにとって優二とは、どのような人物だろうか。それがあなたの心が選んだ彼の事実であることを、確かめてみるといいだろう。相手の心を受け取ろうとし、心が動く作業。その心の試練というべきものの感触は「対話」というに近い。東京青松の「心劇」中には、このような対話があるのだ。【次を読む】
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2006年11月18日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (3)木下優二とは誰か・1

 木下優二の傍若無人さに釈明の余地はない。彼が真山清美を傷つけ、苦しめていることは明らかである。しかし一方で、彼もまた、「悪人」ではなく平凡な人間であることも間違いない。その事実と、彼の登場場面に徹底された演出によって、わずかな雑さによって傷つけられる現実の危うさが認識できるだろう。


――清美:ただいまー。
  優二:ん。
  清美:ねえ、事故見ちゃった。
  優二:ふうん。
  清美:人がはねられたみたい。
  優二:「みたい」ってなんだよ。見ちゃったって言ったじゃん。
  清美:いや、その瞬間は見てないけど。
  優二:じゃあ見てないんじゃん。(三場)


「清美と優二の部屋」での会話である。彼らの会話は、引用箇所である冒頭から既に息苦しい。その息苦しさは、清美に対する心の不足から生まれている。「ただいまー」という言葉に対して「おかえり」はない。「事故」という大事件を伝える口吻を受け取らない。恋人である清美の受けたショックを想像することもない。そうした心を受け取らないからこそ、優二は言葉尻のみを捉えることしかできない。結局、清美は「事故」を「見てない」ことにさえなってしまう。

 優二は何故ここまで恋人の清美に心を欠いていられるのか。それは、彼が単純に寛いでいるからだ。「空気を読む」などの言葉の流行が示すように、社会生活において対人関係への気配りが要求されている。恋人との密室において、彼は何かを配慮するという労苦から自身を放免しているだけなのだ。こうした事実を見れば、彼は「悪人」ではないことが確認できるだろう。最も心を許した「家族」に対して、人はこうした行動を取りやすい。

 優二は、清美に心を欠きながらも、清美にしか意識を向けていない。彼の振る舞いは、それを第三者に説明するような「演技」の形跡を一切残していない。だから観客は、自身が存在することの許されていない空間に立ち会うことになる。そうした場に居続ける緊張感を伴って、優二の行動を見つめ続けるとき、彼の心の不足は息苦しいまでに印象づけられることになる。優二にとって、それは引き続く恋人との生活の一瞬に過ぎないだろう。だが私たちは、その一瞬に心を欠くことが、どれだけ現実を台無しに傷つけていくかを目撃することになる。

 こうした一瞬は、誰にも等しく訪れるだろう。現実を台無しにするか、一瞬に心を込められるかどうかは、私たちの終わりない試練となる。篠田青の演技は、(これは実際困難な演技だが)観客に釈明せず、傍若無人に振る舞うことによって、心の不足が傷つける現実の危うさを認識させている。つまり優二とは、「悪人」ではない。ある瞬間に心を不足させてしまう私たちでもあるのだ。このように結論する瞬間に、一つの疑問が浮かぶ。清美に対して心を欠いた彼が何に心を向けていたのかという疑問だ。おそらく、その心のあり方は清美と似ている。【次を読む】
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2006年11月17日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (2)真山清美とは誰か・2

 あなたが、見知らぬ他人に話しかけられたとしよう。あなたは、黙殺するか。それとも、他人である距離をおきながら、常識的な受け答えで終始するだろうか。真山清美の場合を見てみよう。以下の引用は、彼女が見知らぬ他人に話しかけられた場面である。


――水元:こんにちは。
  清美:えっ?
  水元:デートですか。
  清美:はい?
  水元:彼氏と?
  清美:ええ。
  水元:ここ、初めてですか?
  清美:なんですか?
  水元:いや、僕ね。昨日もここへ来たんです。
  清美:はあ。
  水元:あなたの彼氏さんね、昨日、違う女の人と来てましたよ。しかも、席まで同じ。
  清美:!
  水元:かなり親しげな様子でした。すみません、突然こんなこと。あなたがその、とてもいい人そうなので。(九場)


 この場面で彼女は、恋人である優二と喫茶店にいる。優二はトイレに行くために席を外している。その瞬間彼女は見知らぬ他人に話しかけられた。彼女の反応を見てみよう。あいまいな返事をしながら、「なんですか?」と相手を誰何している。これは、私たちの反応と何ら異なるところはない。私たちのする反応の中でもむしろ親切な部類に属するだろう。彼女の「非凡」と言える反応はこの後にある。その場面を紹介する前に、清美にとって、水元という人物の目的が明らかになった事実を確認しよう。彼女にとって水元は、恋人の不実を伝える第三者となる。あなたならば、この状況にどう反応するだろうか。動揺を隠しつつ黙殺するか、それとも、「ほっといてくれ」と他人である距離を強調するだろうか。続きを見よう。


  ――清美、席を立つ。
    突然、水元をひっぱたく。

  水元:でっ。
  清美:謝って下さい。
  水元:?
  清美:私たちの時間をめちゃめちゃにする権利が、あなたにあるんですか? ないでしょ? 謝って下さい!
  水元:……。
  清美:謝って下さい。


 まず、この反応の激しさから、「幸福な日常」を乱す要素を何が何でも排除しようとする心の毒が覗く。恋人が他の女と会っていたかどうかよりも、いまこの瞬間の「幸福」を乱す存在が許せないというようにだ。しかし、それが「謝って下さい」という言葉に収斂するときに、一つの「非凡さ」が感じられる。彼女は望まぬ事実を告げる他人を、黙殺もしなければ、他人として遠ざけようともしない。自身を不快にさせた事実を相手に認めさせ、それを謝罪させようとしているのだ。

 清美の行為は常識外れだと言える。しかし、そのことは清美が日常的習慣の軽さを踏み越えていることを意味している。水元の言葉を容れ、自分の思いをストレートに告げる彼女。不幸を告げる第三者を自分と同じ人間として扱っているのである。私たちは果たして、彼女のように見知らぬ他人に対してこのような真心を持つことができるだろうか。彼女は瞬間的に、そうした得難い正しさを選び取った。この瞬発力が非凡であり美しい。

 心の毒に苦しむものが、同時に心の美しさをも併せ持つ事実。引用の場面には、その両者を一つの行為で表現することで、共感という言葉では収まらない人のあり方を教えてくれる。彼女のある面に共感し、同時に驚嘆すること。それは真山清美を自分とは異なるリアルな個人として見ることに他ならない。だから真山清美とは、一人一人が取替えの利かない個性を持つ、私たち自身となるのだ。【次を読む】
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2006年11月16日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (2)真山清美とは誰か・1

 真山清美は「二十六歳、A型。言うまでもないですけど、いわゆるOLですな。独身です。」(第七場)と言われる通り、やはり平凡な人間であると言える。ただし、彼女にとって平凡さは、自身を傷つける毒のように働いている。その毒とはどんなものか。それは例えば、次のような場面から感じ取ることができるだろう。以下は恋人である木下優二との会話である。やや長く引用するが、じっくりと清美の感情を探ってほしい。


――優二:よし、何食べたい?
  清美:なんでもいいよ。
  優二:何言ってんだよ。お前が食いたいもんにするから。
  清美:えーっ。うーん、なんだろ。
  優二:早く、早く。
  清美: んー、じゃあ、オムライスかなあ。
  優二:オムライス? オムライスかあ。
  清美:あ、やだ?
  優二:ん?
  清美:なんでもいいよ。優ちゃんは?
  優二:んー、ラーメンだな。
  清美:いいよ。ラーメンにしよ。
  優二:そう? ラーメンにする?
  清美:うん。
  優二:ラーメン食べたい?
  清美:うん、ラーメン食べたい。(六場)


 優二の身勝手な振る舞いへのコメントはここでは行わない。重要なのは、清美が優二を過剰に配慮している事実である。「オムライス」を食べたいという希望を、「オムライスかあ」「ん?」という反応で撤回する素早さは、優二の機嫌を損ねることを極度に恐れているようである。そして、優二に訊かれるままに「ラーメン食べたい」と答える時に、彼女は確実に傷つくことになるだろう。

 傷つくのは恋人の身勝手さに対してだけではない。それは彼女が求める「恋人との幸福な生活」に対して傷ついていると言える。清美が優二を許し続ける背景には、相手に優しくし、そして優しくされる平凡かつ幸福な日常を過ごしたいというささやかな希望があるはずだ。だからこそ、彼女が過ごしたい「幸福な日常」を乱す要素を敏感に察知し回避しようとしている。変わらぬ優しさによって、「恋人との幸福な生活」を維持し続けようとしているのだ(これが「幻想」だなどと、誰も呼ぶことはできないだろう)。

 だが、清美は自身と「幸福な生活」の差異を自覚せざるを得ない。その明白な差異が、優二に傷つけられた清美の心をさらに苛む。引用の場面は、求めた「平凡さ」が二重に清美を傷つけている事態が物語られている。求められた「平凡さ」が毒となる。「日常」は自身の魂を軽くし、「平凡さ」はそれと一致しない自身の心を毒として蝕む。平凡な日常を生きる人の心とはかくも複雑なものである。

 その心の複雑さを『あなたへ』という物語はトレースしていく。どこにでもある些細な会話をリアルに提示することで、こうした心の在りようをすくい上げている。そのことが既に心の救済となるかもしれない。だが、『あなたへ』を観劇するものは、そうした共感とは異なる要素に目を開くことになる。例えばそれは、「平凡さ」を求めた真山清美の振る舞いにある。次に、彼女の「非凡」と言える行動を見てみよう。それは、一口に言って美しいものだ。

(この節、続く)【次を読む】
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2006年11月15日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (1)田中博司とは誰か・2

『あなたへ』という物語が始まろうとする暗転の中、私は携帯電話をかちゃかちゃともてあそぶ音を聞いた。これは田中博司の行為である。舞台から伝わるこの音は、端的に居心地悪い響きを持っていた。新しい物語の開始が、客席と同質の日常的すぎる行為に浸されているのだから。

 日常に浸されているのは物語だけではない。田中博司の心は、日常的な行為に染められている。先に述べた通りに、彼は知人に無視されるという異常事態に直面して、なおも携帯電話をもてあそぶ行為に及んでいる。

 同様のことが、彼と寺崎守との対話の中で、滑稽な印象を伴って明らかになる。「公衆電話って、気持ち悪くありませんか?」「携帯で通話した後、画面にほら、脂がつくでしょう。」「自分のでもげっそりするのに、人のがついていると思うと……。」

 この、田中博司が語る神経質な感想は「いまだ自身の死を自覚しないもの」の場違いな発言となる。ここには同時に、平凡さをめぐるグロテスクな事態が物語られている。ここで気持ちが悪いのは、電話機に付着する「脂」ではない。人の心に頑迷に付着している日常的習慣がグロテスクなのである。

 日常的習慣に侵食された心は軽い。この冒頭では、田中博司自身の心が欲した固有の何ものかが見失われている。この田中博司とは、魂を軽さにからめとられている幽霊なのである。彼が存在を軽さにからめとられながら携帯電話をもてあそぶ時、彼の置かれた不条理な状況への困惑も、悲しさも明確には表現されない。ただ暇をもてあます人物にさえ酷似してしまうのである。

 存在の軽さというグロテスクな事実。『あなたへ』という物語の冒頭が、分かりやすい悲劇にも喜劇にも傾かないのは、この一事によるだろう。悲劇と呼ぶには物足りなく、喜劇と呼ぶには深刻すぎる。だがしかし、この軽さこそ、日常を生きる私たちの置かれている厄介な業であることも間違いない。

 だから田中博司とは、魂が軽さにからめとられた私たち自身でもあるのだ。『あなたへ』という作品は、そうした私たち自身を描くためにこそ、携帯電話をもてあそぶ音で開始されなければならなかったと私は思う。私たちという軽さへ向け、物語は紡がれようとしている。【次を読む】
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2006年11月14日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (1)田中博司とは誰か・1

『あなたへ』と題された作品の登場人物の全員は、私たちが強く共感を覚えるような存在である。言ってみれば、どこにでもいそうな平凡な人間なのだ。例えば田中博司がそうである。「サラリーマンの鑑」と言われるように、彼は典型的な会社員の風貌を持つ。『あなたへ』という作品は、この田中博司の登場からはじまる。物語の冒頭、彼は一人公園のベンチに座って、携帯をもてあそぶ。これはまさしく平凡な行動であり、逆に平凡でありすぎるがゆえに、その行動がいかなる意味を持つかと私たちの目を引きつけることになるだろう。

 この田中博司は自分が死んだことに気づかない幽霊である。物語を識る私たちにとって、このこともまた平凡な事態だとは言える。心霊体験を持たないにせよ、私たちは即座にそうした幽霊をいくつか挙げることができるほどに、幽霊譚には遭遇しているはずなのだから。

 しかし、そうした納得に引きこもることを許さない気配がこの作品の冒頭にある。なぜ幽霊になってまで、彼は携帯電話をもてあそぶのか? この行動は彼の幽霊だという異常事態に対しても平凡すぎるのではないのか?

 そのことを理解するために、彼の置かれた状況を整理してみよう。幽霊である田中博司は、出社しようとして「社員証が通らなく」なり、「警備員」や「同僚」にまで無視される。こうした異常事態に対して彼は「なんだか悲しくなってしまって、なんというか、休みたい気分になって」、公園のベンチに悄然として座ることになる。

 異常事態に対して、人がむしろ習慣的な行動にしがみつくということは周知のことである。田中博司もまた、そうした行動をとっていることは間違いない。また、彼には「会社には連絡しようと思った」という携帯電話を扱う正当な理由もあるのである(ちなみに田中博司には自分の携帯電話は扱えない。それは「記憶が見せている」だけで「実体がない」)。

 つまり田中博司は、習慣的な行動にしがみつく人間らしい幽霊だと言える。しかし、何より重要なことは、死にみまわれ知人に無視されている彼が、全く悲しそうに見えないという事実である。それは、携帯電話をもてあそぶという平凡すぎる行動によってそうなのである。

 ここには、平凡さというものが持つ、グロテスクな事態があるだろう。

(この節続く・上の引用は全て『あなたへ』の第一場より)【次を読む】
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2006年11月13日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 序 「『あなたへ』の作品論を書くにあたって」

 2006年12月5日、劇場「アール・コリン」と東京青松の共同企画のトークイベント「おはなしの時間」に参加した。東京青松の総合プロデューサーである篠田青と、「アール・コリン」の小屋主である土屋吾郎という、演劇の送り手の対談である。対談といっても討論というより、会場の空気に呼応するように「いろいろなこと」が話題にされていた。それらのつながりを読むことに集中した気もちいい時間を過ごすことになった。

 が、同時に、この送り手たちの話を聞くうちにもどかしい思いも感じた。彼らが演劇を送ることに託した意志の大きさと自負ははっきりと伝わっている。だが、その大きさが一作の演劇にはたして込められるものであるのか。それは具体的にどのようなものなのか。私には想像が及ばなかったのである。

 これは創作の核を即座にイメージしたいという私自身の性急さかもしれない。一方、彼らは自身が送り出す作品に対して寡黙だったとも言えるだろう。しかし、その不足を埋めるように、聴衆の誰もが感じたはずの彼らの「強固な信頼」が――送り手たちの意志の大きさや自負が――抽象的なものではないことを証しているように思われた。

 いま用いた「強固な信頼」という言葉は、「おはなしの時間」の中で語られている。篠田青は大意として「送り手と受け手の関係だけでなく、人と人とに強固な信頼を築くことが現在に必要である」と語った。ここには正論以上の含意がある。しかし、私がまたしても理解したいというもどかしさを感じるのは、『あなたへ』という作品の主題がまさにそれであると感じていたからだ。

『あなたへ』という作品には、「運命」や「家族」という絆を示す言葉はまったくあらわれない。一般的にこうした絆に頼らずに人が「強固な信頼」を築くことは端的に困難であるのにもかかわらずである。「ありふれた親切」でも「獏とした信頼」でも「社会正義」でもない。そうした物語めいた概念によらず、他人である私たちが具体的に「強固な信頼」を生み出すこと。この得がたい現実が本作で物語られていたはずだ。『あなたへ』と題された今作は、私たちの生に欠けたものを届けようとしているだろう。

 その「強固な信頼」を生み出すものが何なのか。またその「信頼」が何を生み出すのか。そのことを私は『あなたへ』から探り当てたいと思う。『あなたへ』には確かにそれが含まれていると私は直観する。直観するが、私はそれを言葉に移すことができないでいる。私が感じるもどかしさとは、結局、私の『あなたへ』という作品の大きさや捉え難さに対するとまどいであると言えるかもしれない。その捉え難い魅力を求めて、私は『あなたへ』をこれから論じていきたいと思う。【次を読む】
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2006年11月09日

植林三本目『あなたへ』


2006年11月9日(木)〜12日(日)
荻窪 アール・コリン

脚本・演出:篠田 青
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