2006年11月20日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? 章末「私たち」とは誰か

『あなたへ』という作品タイトルに込められた意味は、以下の引用の箇所で観客に明らかにされていたと思う。

――あなたへ。
  私はあなたの素敵なお名前を知っているのですが、事情があって、あなたの前に現れて、名乗ることができません。とにかく、私だけが一方的にあなたのお名前を呼ぶということを誠実と思えないので「あなた」と呼ばせてください。(十三場)

 これは田中博司が真山清美に宛てた手紙の冒頭である。だから「あなた」は真山清美を指す。そして、作品タイトルは「誠実」をもって呼びかけられるべき私たち全てを指す意味のふくらみを持っている。

 では、「誠実」をもって呼びかけられるべき私たちとは誰なのか。この問いに答えることは難しい。他の誰かにとって、私たちがどのような存在かを私たちが答えるのはいつも難しい。このことを『あなたへ』という作品が、考えるヒントを与えている。

 この文章で書いてきた人物像をトレースする形で「私たち」とは誰かを見ていこう。私たちは田中博司のように日常に侵食されることもある。真山清美のように、平凡さに苦しみ、わずかな暴力によって傷つくこともある。逆に、木下優二のように、わずかな暴力によって他者を傷つけてしまうこともある。

 こうした弱さばかりではない。真山清美の非凡さもこの文章では触れている。田中博司の気弱さは、他者に配慮する優しさから生まれているとも考えることはできる。しかし、このように「でもある」というような考え方を進めることは、「私たち」の一部を捉えてはいても、ついに「私たち」自身を表しはしない。

 では、「誠実」をもって呼びかけられるべき私たちとはついに不明なのか。そうではない。そのことを『あなたへ』は確信をもって伝えている。木下優二を心劇によって捉えるということをこの作品は求めていた。心によって、他者の一部ではなく全てと出会う可能性を語っているのだ。

 私たちとは誰なのか。それは心を向けるときに明らかにされるなにものかである。田中博司を、真山清美を、木下優二を、他のたくさんの人々を私たちは心によって捉えてきた。その自身の心に問うてみれば、私たちの姿を感じ取ることはできるだろう。

 その姿が「誠実」に値することを『あなたへ』は注釈する。「誠実」とは持つものでも求めるものでもない。他者と心で向きあうときに自然と抱く感情である。個性と弱さを併せ持つ存在に対する慈しみは「誠実」に遠く及ばない。私たちの姿は、もっと大きい。

 田中博司は、真山清美をそのように捉えている。相手の存在の大きさに向けて、慎重に言葉を紡いでいる。この「誠実」が起こした出来事について、私は章を変えて書きたいと思う。奇跡に等しいが、絵空事でも理想でもない。人間のなしうる当然の出来事として語られていることを、見誤ってはならない。

(この文章の連載を、星屋の個人的な事情によって中断させていた。この文章の読者と、東京青松のメンバーにお詫びする。時間的な断絶を含んだ文章だが、私の意図は何も変わらない。引き続き、この作品にある「強固な信頼」とは何かを明らかにしていきたいと思う。)【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇