2006年11月23日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(3)同期する心について・1

 田中博司の手紙は「奇跡」と感じられる場面を生み出している。それは、真山清美が、幽霊である田中博司を感じることである。


――清美:……あの、これを書いてくれた方、近くにいらっしゃいますか?
  水元:え?
  清美:今、この近くに?(十三場)


 清美が口にする「今」とは既に過剰である。たとえば、田中博司が手紙を書いた過去がここに共存している。「今」という実感は自分のありかを確認させてくれるものだ。しかし、その長さも広がりもはっきりとしない。この「今」の記述を試みてみよう。

 この「今」には、田中博司の意志が息づいている。手紙を読む清美にとって、その意志は彼女につながっている。けれども思い出してほしい。田中博司の意志の源は、真山清美の存在の大きさへの誠実であるのだ。真山清美にはこの時、自分よりも大きい自分が届けられている。これは何という過剰だろうか。

 真山清美は田中博司の意志を受けとる。自分という小さなひろがりの外側から、田中博司は思いを向けてくる。その意志を信じれば、より大きな自分という存在もまた信じられる。誰かの真心に触れるということが、「今」を過剰にし、それが自分の存在をひろげていくことになる。

 これが「今」の素描である。互いの心が触れることが、相手の心のリアルを受けとるという経験を私たちに与える。この「今」の可能性は、そのまま心の可能性を物語る。少なくとも、私たちの中の一人である真山清美は、この可能性を生きている。

 真山清美は言う。「私は幸せです。でも、あなたのお陰でもっともっと幸せになれそうです」と(十三場)。これは率直なコメントである。自分の「幸せ」が、他者の心に触れることで「もっともっと」強まるという平凡な事実がここにある。しかし、この「幸せ」は、単に思われることの幸福感ではない。それだけのことならば、自意識の利に資するばかりだ。

 それは他者の心の中に自分が生きているのを知ること。そして、「他者の心がもたらす生を自分が生きる可能性」を受け入れることである。この精妙な心の運動が、強度の「幸せ」をもたらす。多くの人はこれを愛と呼ぶだろう。しかし、私はいま、愛が持つ力の一部をもっと具体的に記述したい。

 私はこれを心の同期と呼ぼう。心と心が同期するとき、互いのリアルが流れ込んでいく。「今」とはいつのことか、もう明らかだろう。それは心と心が同期する過剰な時間である。その過剰な「今」が、相手の心をも含んだ自分のありかを確認させてくれる。

 田中博司と真山清美の心は「同期」している。だから、彼らの心は極めて「近く」にある。もちろん、この心の事実と、「近くにいらっしゃいますか?」という問いを発することは明白な差異がある。真山清美が、幽霊である田中博司を感じることができたのは、心の同期の次なる運動を待たねばならない。そして、ここには、手紙の配達人である寺崎守と水元翼の存在が大きく関わっているだろう。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇