2006年12月07日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 章末 信頼の中の強固さとは

 私たちが不確かだと感じるものが、強固なものである。『あなたへ』という作品は、このような認識の切り換えを求めているように思う。

 この章の一部で私は『あなたへ』の作品の中に含まれる強固な信頼について述べた。強固な信頼とは、他人の心のリアルを生きるという「心の同期」である。それによって生まれるものは、解放された心の過剰であり、日常的な幸福である。

 本作で描かれていたのはクライマックスだけではない。心の同期を準備する具体的な方法が本作では示されていた。それが「心の承諾」である。聞き入れられ、引き受けられる中で、心は自身に可能な奇跡を生み出していく。二部で寺崎守の仕事に触れることによって、私はそのことをどうにか示すことができた。

 この心の承諾は、日常生活を変える提案となる。寺崎守が行った心の承諾は、極言すれば一切のスキルを必要としない。心の承諾を行うだけで、人や世界の姿が変じていくだろう。本作の特筆すべき点は、それが職業や生活の場面で行うことが可能とした具体性にある。

 この提案を本作は、生活を営む私たち全てに対して行っていたように思う。私たち全てが心の同期や承諾を生きることができれば、世界は変わる。具体的提案の中に、世界のあるべき姿を示そうとしているのである。この理想の世界観の表明である本作は、全てのフィクションのジャンルの中でも希少なものと評することもできる。

 しかし、この文章の主題はそれらのことではない。心の同期と承諾がリアルであることを証明したいま、論じなければならないのは別のことだ。では何故、私たちの生と『あなたへ』のリアルとの間に、依然として距離があるのか。その最大の理由は、私たちの生の定義が、本作の描いた現実と異なるからだと思う。

 私たちの生の定義とは、「私」が一つの心をもって生きている、というものだ。この生の定義は極めて強固なものである。しかし、それは他者を信頼する強固さとならない。一つの心の外側にある他者は、いつも異質な存在である。もしその他者を信じようとすれば、それは現実から浮遊したイメージを信じることであり、それに殉じることになる。

 本作で描かれた現実はそれとは異なる。他人の心を自分の心の事実として生きることがその現実となる。ここでは、他者への信頼が、そのまま心を感じる自分自身への信頼となるのだ。この信頼は強固なものとなる。このように、一つの心の定義から開始される生と、心に住まう心から開始される生は、全く違うのである。

 この違いに対して、私が書きたいのはただ一つのことだ。私たちは他人の心を、弱く伝わる、あやふやで、不確かなものだと感じる。しかし、その感じ方は、他人の心のリアルの後に現われたのではないか。それが私たちの最も欲するものだからこそ、それを失うことに怯えて打ち消しているに過ぎないのではないか。

 最初からないことにすれば、そこに喪失の悲しみはない。しかし、喪失の悲しみや、怯えや、否認や、全ての負の感情に先立って、他人の心を強固に感じた現実があると思う。自分の心に強く、はっきりと、ゆるがないものとして他者の心が意識される現実があること。『あなたへ』という作品は、その意識の現実に就いて生きることを促す。定義よりもその現実を生きようとするとき、私たちの生は、きっと『あなたへ』と近づいていくだろう。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇