2007年07月31日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 本文への注釈として

 雲は大気現象である。ひろがる空間と時間のリアルによって生起する。私は『べつの桃』を雲のように美しい作品と感じる。ここには、ひろがる世界のリアルを集約させたいのちがあるだろう。だからこそ、いのちの一挙手一投足がまぶしい。『べつの桃』の美しさは、私にとってこのようなものだ。

 その美しさについては、ほとんど書けなかったと思う。私の論述は、雲を大気現象のプロセスとして記述する、無粋かつ不完全なやり方だった。ただ、この散文的な作業で試みたことが一つある。美しさと感じるものが恣意でなく、価値ある実質に基づくという証明である。

 本文は一章が演技論、二章がフィクション論、三章が作品論という構成を持っている。私は東京青松の「芸術ではなく、人間の可能性を追求する」姿勢の意味を理解したいために、技術・虚構・作品の可能性の先を記述しようと試みた。このことによって、ある水準の文章が書けたと自負している。東京青松に感謝を捧げる次第である。

 これ以後に東京青松について書く予定はない。振り返って、私は私自身の怠惰を思う。東京青松の作品に価値を認める以上、私は一人でそれを書くべきだったかもしれない。「とうきょうあおまつぶ」のために書かれたという文章の事実が、馴れ合いと感じさせるゆるみを生じさせた気がする。孤独であるいまこそ、私は東京青松を観た現実と向きあわなければならない。

 最後に、『べつの桃』というタイトルについて触れる。「桃」は一光のアイデンティティではない。そして、彼はついに起源を知ることはなかった。だとすれば、一光のアイデンティティは、起源でなく仲間や家族と立つ場所から生じることになるだろう。だから、『べつの桃』は地球だと解釈できる。彼らは、起源の意味を知らない私たちと同じ場所に立ち、まばゆいいのちをつむいでいたのである。【目次へ】
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2007年07月30日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること 章末 世界を再建すること

――一光:さあ、ここだ。
  心太:……信じられませんね。
  一光:うん。
  心太:何かを見つけられたんでしょうか。
  一光:見つけたというよりも、なんだか、私自身がみんなに見つけてもらったような気がするよ。(十七場)


 彼らは帰途についている。照助とお風はすでに彼らが出会った場所で別れた。そしていま、一光は心太と別れようとしている。別れに際して、彼らがどんな話し合いをしたかは分からない。一光が別れることを主張したのは想像できる。彼は別れによって、これ以上仲間のいのちを軽んじることがないようにする。そしていま、彼らのなした「世界の更新」は思い出のように振り返られる。

 私も振り返ろう。「微動する空間」「心の起点の時間」「世界の更新」の三つキーワードによって私は『べつの桃』を論じた。これらは全て向かいあう人間たちに起きる現実的な経験である。「微動する空間」で他人を慈しむリアルがある。そのリアルが他者と生きる「心の起点の時間」に人を立たせる。「心の起点の時間」に基づく他人への行為が、自分に返る可能性を生きることで「世界の更新」は完了する。

 少なくとも、『べつの桃』の登場人物たちがこのようないのちを開いていたのは間違いない。だがいま彼らは、世界の更新を思い出のように振り返るばかりだ。心たちが実現した世界は、それぞれの心に帰ってそこを終のすみかとするようだ。結局、世界の更新は心の描いた理想でしかなかったのだろうか。それは現実に無力な理想でしかなかったのか。

 そうではないと『べつの桃』の登場人物が教えていた。彼らは「大いなる時間」の与える現実の危機の一つ一つを乗り越えていたのである。彼らは互いに向かいあうことで貴重ないのちをつむいでいたのだ。もちろん、一光がその世界を致命的に傷つけたのも事実だ。だが、その事実は彼らの危機として捉え直すこともできる。それが危機ならば乗り越えるための運動が始められるのである。

 つまり、失われた世界は再建できる。もし、一光にその意志がないならば、他の仲間がそれを始めればいい。一光は自分を「みんなに見つけてもらった」と言う。しかし、一光は何度でも「みんなに見つけてもらう」ことができるはずだ。更新された世界に対する等身大の信によって、仲間たちが一光の心を打つための行動を開始することができるならば。

 これは可能性の話である。彼らが世界を再建する保障はどこにもない。例えば仲間が心で向き合おうとしても、一光が応えないこともある。世界だと思えたものはすでに孤独な心に帰ってしまった。愛するものとの心の断絶を体験するかもしれない。ここに最大の恐怖がある。このとき、人は心に収めておけばうやむやにできた世界の喪失を生きなければならない。

 だから世界を再建する行為は賭けとなる。これは他の賭けと異なり自らの勝利のために行われない。愛するもののために。世界のために。愛の中で拓いた世界への等身大の信に従って、使命と感じるものを全うする。これが人間の冒険である。この冒険の中で人間が実現できることがあるだろう。それは、無数の空間の一つと、「大いなる時間」に対する一瞬とを、単一の太い意味によって生きることである。

 引用は略す。心太、照助、お風は、このように賭けたのである。【次を読む】
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2007年07月29日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(6)世界を失うこと

――一光:一人でも逃げられればいいと思っていたのに、四人揃って帰れたんだ。これでいい。
  心太:嘘でしょう。
  一光:ん?
  心太:上陸のとき、一人で逃げてもいいって言ってたけど、ありゃあ嘘です。一光さんは、いざとなったらみんなを連れて逃げる、誰一人見捨てず逃げると思ってたじゃないですか。
  一光:よせ。結局みんなに助けられた私だ。これ以上恥をかかせないでくれ。
  心太:いや、恥ずかしいことじゃない。そういう一光さんに惹かれて集まったからこそ、みんなで帰れた。あっしはそう信じてます。
  照助:そうだな。
  お風:そうだよ。
  心太:素晴らしい大将だ。
  一光:……。(十四場)


 鬼ヶ島での鬼征伐は失敗する。後衛に退いていた偵察役のお風が、最初に心太、次に照助、最後に一光を見つける。お風が「大キジの秘薬」を与え、彼らは命を吹き返す。お風は心太、照助とともに一光を連れ帰る。引用はその後の場面である。彼らはいま舟の上にいる。

 私は「鬼とは何か」や「『桃太郎』と一光たちのつながりとは何か」という問いに答えられない。それらが「大いなる時間」の法則であるとしか言えない。一光たちは鬼征伐を試みることでその「大いなる時間」に加担した。そして、「なぜ一光たちが鬼征伐に失敗したか」も答えられない。「桃のようなもの」や「きびだんご」のようなものなど装備の不足か、「逃げてもいい」という心理が原因かもしれない。

 少なくとも、「大いなる時間」はこの失敗を想定している。そうでなければ「桃太郎」がパラレルである理由がない。すでに彼らは役目を終えた。「大いなる時間」から切り離されているこのいま、彼らが生きはじめる時間に注目してみよう。

 心太は上陸した過去の時間を想起する。そこで語られるのは一光の真心である。一光との出会いによって一変した彼らの人生の「心の起点の時間」を語っている。しかし、一光はその言葉を受けとることを拒否している。「みんなに助けられた」ことが「恥」だからではない。「みんなを助けなかった」ことが「恥」であるからだ。そのことは、お風が一光を最後に見つけた事実から推察できるだろう。

 一光は敵陣に最も深く攻め込んでいたのである。もちろん、当初から一光が仲間の命を第一に考えていたことは間違いない。ならばなぜ一光は救援に回らず敵陣に入っていったのか。おそらく、それは瞋恚(しんい・激しい怒り、憎しみ)のためだと思われる。一光も深く傷を負っていた。仲間を助ける力が失われたと感じたとき、復讐心が一光を支配したということが考えられる。それは自分を死に至らしめるほどの瞋恚である。

 だから一光は「恥」を抱えている。自分ばかりか仲間を死に至らしめる瞋恚を生きていたからである。ここにはっきりと背信がある。真剣に生きて仲間の生命を軽んじたこと。このとき、一光は彼らと生きる世界を致命的に傷つけたのである。仲間たちが語る「心の起点の時間」を一光が拒否するのは、それを分かち合う資格がないと自省しているからである。

 この自省を語ってはいけない。語るそばから仲間は許してしまうだろう。このとき、仲間は自分たちの生よりも一光を重く扱うことになる。それが一光は許せない。すでに仲間の生命を軽んじた一光にとって、仲間の許しは自身の過失の反復である。「心の起点の時間」が語られるほどに、もはやそこにいない自分が意識される。それは仲間と世界をこよなく感じるほどにそうである。このようにして、一光は世界を傷つけ、そこに生きるリアルを失ったのである。【次を読む】
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2007年07月28日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(5)プレゼントによって

――一光:みんなは、それでもただ「イヌ」「サル」「キジ」と呼んでくれと言う。その気持ちも少しは分かるつもりだし、尊重したいと思う。しかしな、私にとって、みんなは特別なのだ。一人でさまよう旅にするつもりが、こんなに賑やかに、楽しく来ることができた。だから、だからな。
  キジ:うん。
  一光:その、もし嫌でなければ、みんなに名を授けたいのだ。(七場)


 一光にとって、それはいま初めて思いついたことではない。「これは前から考えていたことなんだが」と一光は前置きする。だからそれは、仲間と過ごす固有の時間から生まれた発想である。その固有の時間に基づく発想こそ、パラレルに存在している時間とべつの現実を確認していくことになるだろう。

 一光のプレゼントは仲間たちに受け入れられる。イヌは「心太」。サルは「照助」。キジは「お風」。この「拙いながらも、懸命に考えた」名前が仲間たちを感激させている。もちろん、プレゼントだけでない。それを与えようとする心が嬉しいのである。その心は、自分が享けた現実を仲間と分かとうとしている。好意が目指すのはいつも固有の現実の交換である。

 さらに、このプレゼントは名前である。だから、プレゼントは「固有の現実を与えられる」レベルにとどまらない。与えられた彼ら一人一人の現在として生きはじめるのである。

 心太、照助、お風の現在を想像しよう。与えられた名の中に一光の心が込められている。その名を生きようとする意欲には、二方向のエネルギーがあると形容できる。一つは、与えられた名を新たに生きようとする利己のエネルギーである。もう一つは、与えてくれるものに何かを返すことを使命とする利他のエネルギーである。このように形容したが、それは一であって二ではない。

 好意という現実の交換の中で、利己/利他の区別は意味をなさなくなる。改めて問おう。この自他へ向かう過剰なエネルギーはどこから湧くのだろうか。「世界から」が主観的に最適な解答である。自分でもない。他人でもない。その両方である広がりから得られるエネルギーの淵源は世界というにふさわしい。これが世界の更新の感覚である。

 世界が与えたパラレルという傷はもはやない。過剰なエネルギーを発するプレゼントによって、世界自体が書き換えられているからである。ところで、もし好意が普遍的な感情ならば何が言えるだろう。おそらく、それは次のことである。固有の現実を交換し世界を更新することも普遍的である。この普遍的なことがらが特殊と扱われるほどに、私たちの孤独は常態であるけれど。【次を読む】
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2007年07月27日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(4)救うことによって

――一光:うん。お前たちはただの犬でもないし、猿でもないし、雉でもない。大イヌ、大ザル、大キジだ。
  サル:なんだよ。今さら。
  イヌ:聞けよ。
  一光:みんなは、それでもただ「イヌ」「サル」「キジ」と呼んでくれと言う。その気持ちも少しは分かるつもりだし、尊重したいと思う。しかしな、私にとって、みんなは特別なのだ。一人でさまよう旅にするつもりが、こんなに賑やかに、楽しく来ることができた。だから、だからな。
  キジ:うん。(七場)


 引用のこのとき、彼らはすでに「桃太郎」の物語の噂を聞いている。

「桃太郎」の噂に対する反応を見ていこう。サルは「下手すりゃ偽物扱いだ」と「桃太郎」との優劣にこだわる。キジは「あたしたちはあたしたち」と正論を言う。とはいえ、それはサルの言葉に対する否定にとどまる。イヌは「『桃から生まれた桃太郎』にしなかったお父上は、さすがでしたねえ」と集団の中の個性を見ようとしている。

 このように彼らの反応はさまざまである。しかし、「桃太郎」の噂に対して、性急に結論を求める姿勢は全く同じである。つまり、彼らは同じように傷ついているのだ。彼らは自分の言葉によって性急に立場を決めようとした。そうせざるをえないほどに、「桃太郎」の噂は衝撃を与えているのである。

 おそらく、「真実の時間」を暴露する「桃太郎」の噂は一光にも衝撃を与えただろう。だが彼は性急な推測や結論に飛びつかない。「本当だろうか」「確かめたいという気持ちは強いが」と慎重に真偽を問題にしている。ここに等身大の信がある。しかし、あるときから「桃太郎」の真偽より重要な信が意識される。

 一光には仲間の受けた衝撃こそが信なのである。「桃太郎の物語」が衝撃を与えるこのとき、彼の意識を占めるのは、同じように衝撃を受けているだろう仲間たちである。まず、彼らを救わなければならない。一光は仲間のために「私にとって、みんなは特別」だと伝えるささやかな行為をなそうとする。

 ここに精妙な現象がある。というのも、一光はいつのまにか「桃太郎の物語」が与える衝撃から逃れているのだ。なぜか。それは仲間の受けた衝撃を救おうとすることによってである。「他人を救うことは自分を救うこと」。この普遍的に存在するだろう現象に対し、簡単な考察を加えておこう。

 一光は仲間を救おうとすることによって、自分が救われる世界のありようを実感している。つまり、他人を救おうとする心によって、「自分が救われる世界の可能性」を世界に上書きしているのである。私は同型の考察を前回で述べている。ここにもまた世界の更新があるのだ。

 仲間を救おうとする瞬間に、一光は自分が救われる世界に立つ。もちろん、それは実現されていない救いである。しかし、その心の可能性は「心の起点の時間」となる。心が発する基軸への肯定によって、新たな世界は実感されている。世界の更新という精妙な現象が、パラレルが与える傷から一光を救うことになったのである。【次を読む】
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2007年07月26日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(3)孤独を分かち合うことによって

――キジ:あたしだってさ、楽しくふざけ合いたいだけってんじゃないんだ。仲間が欲しいんだよ。一緒にいたい。その上で怖い目に遭うんなら、少しは覚悟だってできるさ。
  一光:そうか。……よし、気がつけばはぐれ者ばかりの旅だ。一緒に行こう。
  キジ:ほんとかい?
  イヌ:よろしくお願いしますよ。
  キジ:ありがと!
  一光:サル。
  サル:……。
  イヌ:お前、泣いているのか?

        泣いている。

  サル:うるせえんだよ、お前は! 畜生、俺は女は苦手だし、扱いも下手だがよ。あんたに寂しい思いはさせねえよ。(六場)


 彼らはみな「はぐれ者」である。「桃のようなもの」の中にいた桃太郎は言うまでもない。イヌ、サル、キジもまた、動物界で長生し変異した生物である。彼らは大イヌ、大サル、大キジと呼ぶべき存在でもある。頂点に立つことはできても、もはや仲間の群れと交わることはできない。

 その「はぐれ者」たちが「一緒に」旅することになる。彼らは「はぐれ者」の孤独を分かち合うことになるだろう。ところで、孤独を分かち合うこととは何だろうか。いま、私はポップソングの歌詞のような問いを立てている。しかし、この問いこそ私たちがナイーブに求めるものを伝えるだろう。

 孤独を分かち合うことは、単に孤独が消えることではない。自分より大きな存在に受け入れられ解消することでもない。まして、傷をなめ合うような小さな連帯を持つことでもない。私たちは時に孤独を分かち合うことをナイーブに求める。だが、この行為の中に含まれる力を実感することは難しい。

 引用から考えてみよう。サルはキジの「寂しい思い」に共感する。同時にそれを埋めたいと思う。つまり、キジの「寂しい思い」が埋められるなら、サルは自身が「寂しい」存在と感じた世界は間違いだったことになる。つまり、サルは「寂しい思い」を感じた現実とべつの現実に踏み出しているのである。

 そう。孤独を分かち合うことは世界の更新である。微動する生命への共感を機軸として、他への行為はそのまま自分自身へ向けるべき行為に転じる。ここに世界の意味の更新がある。絶対的な孤独の世界はもうない。固有の現実の交換によって、孤独が埋められるべき世界へと転回されているのである。

 サルが泣きながら約束する理由は明らかだろう。新たな世界に立つ感動の中で、それが与える使命を口にしているのである。このような感覚を生きる幸福というものはある。『べつの桃』の「はぐれ者」たちは美しい。私たちがナイーブに求める孤独を分かち合う行為の中にある、世界の更新の力を純粋に受けとめているからである。【次を読む】
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2007年07月25日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(2)名づけによって

――父:やはり、行くか。
  一光:はい。
  父:……わしは、この日を待ち焦がれていたのかもしれん。
  一光:?
  父:お前の名を付けるときな。
  一光:は。
  父:これが、大変だった。猫の子にすら名を授けたことのないわしが、やんごとなき子の名を付けなくてはならん。
  一光:そんな。
  父:まあ、聞け。最初に思いついたのは「桃太郎」だった。
  一光:桃太郎?
  父:桃のようなものから生まれたから、桃太郎。単純だろう。あまりにも単純な上に、あれは桃ではないのだから、やめた。(三場)


 父の話はこの後も続く。未整理と言えるその話の長さによって、別れを惜しみ続ける父の心の流露が感じられる。彼が語る名づけの行為には、人間にできる冒険がある。まず、父は「桃太郎」という名前を慎重に退ける。桃の中に赤子がいるという奇跡的な出来事をただ受け容れているのでなく、そこに等身大の観察や思考を通わせているのである。

 次に父は「桃」以外の赤子の起源を想像する。引用の後に、「天助」「天太郎」「月光」「星光」「照助」「輝太郎」というさまざまな名前を考えた事実が語られている。それらの名前は全て、一光が「どこからやってきたのだろう」という発想から生まれている。しかし、あるときから「どこからやってきた」という起源はもう重要でなくなるのである。

 生きている時間を想像しよう。赤子を腕に抱く独身男のいる時間である。彼は赤子に名づけようとして「天」や「星」など赤子の起源(の推定)を名に記そうとした。そのどれもうまくいかない。彼は最終的に「一光」という名を選ぶ。この命名の瞬間に彼は起源のことを忘れている。おそらく、赤子の生命を「ただ一つの光」と感じているからである。

 生命とは未知である。そして、その未知の中には何か大きな意味があるとも感じられる。特に生まれたての生命に出会うとき、私たちはそうした感覚を持つ。きっと赤子を抱く独身男もそうである。父は「光」という名を赤子に与えようとするが、それは天からの「光」ではない。地上の一つの生命の内にある輝かしさを「光」と感じたのである。

 このようにして父は「一光」と命名する。一光から最も大切な現実を受けとって名づけている。同時に、受けとった現実を一光に与えているのである。名づけによって、人はかけがえない固有の現実の交換を行う。「これが、大変だった」と振り返ることから、頭を絞り心を込める等身大の信があることも確認できるだろう。この名づけこそ父と一光が共有する「心の起点の時間」を与えることになるのである。【次を読む】
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2007年07月24日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(1)等身大の信によって

――父:不思議だろう。わしの学問は、これを解明することだったのだ。
  一光:ここの涼しさは、一体……。
  父:からくりで暑さ寒さを調整している。
  一光:からくりで?
  父:この箱には、これ以外にも多くのからくりが詰まっている。いや、この箱自体がからくりなのだ。
  一光:箱?
  父:うむ。これが、赤ん坊のお前が入っていた「桃のようなもの」だ。
  一光:そんな! 父上は、これを川から運んだのでしょう?(二場)


 父と一光は「桃のようなもの」の中にいる。それは持ち運びできる大きさを持つ。しかし同時に、引用直後に父が語るように「この箱と、箱の外とは、異なる世界になっている」のである。箱の内部は「異なる世界」であり、彼らはその広い空間の中に居る。

 ところで、演技空間もまた「箱の外とは、異なる世界」である。だから「桃のようなもの」という空間が、演劇の中で物語られても驚くことはない。驚くべきは、演技空間の地が固まらないわずか二場で想像が難しい「異なる空間」を登場させていることであろう。

 ここに一つの自信がのぞく。それは「役者が信じたものならば、観客も信じることができる」(篠田青『東京青松の道/東京青松から』その8「厄介な人種」)という自信である。つまり、役者の「信」は作品空間を生み出す力を持つというのである。

 この「信」の質を物語る言葉が引用にある。それは「わしの学問は、これを解明することだったのだ」という父の台詞だ。父はただ「桃のようなもの」を拾いその中の一光を育てたわけではない。「解明」を目指すような観察や思考とともに一光を育てていたのである。

 つまり、フィクションの空間を生む力は役者や観客の盲信にはない。登場人物の等身大の観察や思考に基づく「信」にあるのだ。観客は等身大の信ゆえにそれを共有する。そうして空間の仮構が成立するのである。演劇の基盤が、現実への等身大の信に基づくこと。この健康な発想が微動する空間を顕在化させ、フィクションに独自の冒険をもたらすことになるのである。【次を読む】
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2007年07月23日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに 章末 信に立つものの冒険

「イディオット・プロット」という言葉がある。ありえない行動を選択する登場人物の振る舞いをさす。具体例を挙げる。例えば災害に遭遇して、母親が子供を置いてどこかへ出かけてしまう。こうしたありえない行動を含む物語を批評する言葉が「愚かものの筋書き」である。

 登場人物が「愚かもの」である理由がある。彼らはフィクションの都合を受け入れているのである。先の具体例で言えば、母親の行動は子供に単独行動の余地を与えている。時に作者は「イディオット・プロット」に対して周到に理由を積み上げることによって、フィクションの都合を消そうとする。

 しかし、このとき失われるものは大きい。周到に理由を積み上げるにせよ、ご都合主義によって放置するにせよ、当然の行動を不可能とした事実はフィクションの中に刻まれている。つまりそれは、フィクションの主題に人間の無力というものを刻印することになるのだ。

 もちろん、私たちは大いなる時間を前に事実微力だ。登場人物も筋書きという「大いなる時間」に対して微力なのも間違いない。しかし、私たちも登場人物も微力ではあるが、全力でできることをするだろう。だから私たちは「愚かもの」ではない。

『べつの桃』という作品は、登場人物を「イディオット・プロット」から解放している。それどころではない。「大いなる時間」の操りの向こうにある時間を実現しようとする。私はそのことをまだ論じていない。論じてきたのは、筋書きという「大いなる時間」に対するもう一つの時間の存在である。

『べつの桃』の登場人物は、誰かと過ごす時間に純粋な幸福があると知っている。そしてその思いを共有する強さも知っている。彼らはこのような時間の経験を持っており、それを「心の起点の時間」として「大いなる時間」に向きあうのである。一章で私は無辺の空間を論じたが、二章の時間はこの一つの対立によって記述できる。

「大いなる時間」の中に私たちは囚われている。しかし、「大いなる時間」のために私たちが存在するのではない。登場人物もそうである。強大な「大いなる時間」と向きあうために、「心の起点の時間」という信に立つこと。この信に立つものの冒険こそ、微力な人間にできる唯一と言っていい現実的な行為である。 次章では、その行為について論じていく。【次を読む】
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2007年07月22日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(6)パラレルの時間の一つを生きること

――キジ:噂だからね。話は続くよ。桃から生まれて、桃太郎と名付けられたその赤ん坊。今じゃすっかり大きくなって、近所でも評判の力自慢。それを生かして、人々を困らせている鬼たちを退治しに行くことにした。
  (略)
  キジ:さらに、桃太郎と犬と猿は進みます。と、今度は雉がやってきました。
  サル:雉もかよ!
  イヌ:そんな馬鹿な。(七場)


「噂」として語られた「桃太郎」の物語の意味とは何だろうか。彼らにとって、それが自尊心を傷つけるものであることは間違いない。彼らの一人は「そんな馬鹿な」とつぶやく。自分の信じたオリジナリティが傷つけられているからである。

 彼らにとって「桃太郎」の物語は残酷である。心の起点を確かめながら進んできた旅と、ほとんど同じように旅するべつの者たちの存在を伝えている。『べつの桃』のフィクションの時間が、「桃太郎」の時間とパラレルであること。そのことが、彼らが特別な存在であるという特権をきれいに剥奪していくだろう。

 特権が剥奪された時間を生きること。このとき、『べつの桃』の時間は私たちの時間と近似してくる。私たちは、自分たちが特別な存在であるという理由によって、ある時間を生きる権利が与えられているわけでない。この意味で、私たちは特権が剥奪された時間を生きているのである。

 もっとも、私たちは「そんな馬鹿な」と叫んだりはしない。というのは、私たちにとって人生がパラレルであることは自明だからだ。しかし、それを本当に受け入れているかは疑わしい。この疑いを裏づける材料として、フィクションの一つの効果を挙げることができる。

 フィクションの中の「運命の時間」は、私たちの現実を束の間忘却させる。それはどんなフィクションでもそうなのである。そこに「運命の時間」があるならば、私たちはそこに「剥奪された特権」を幻想することができる。フィクションはこうして、パラレルな時間を忘却させる効果を持つ。

 フィクションに現実の忘却を求める人間の性によって、パラレルな時間は受け入れがたいものであることが分かる。現実の時間を生きる困難を認めよう。この立場に立つとき、『べつの桃』の登場人物が固有の時間を生きようとする努力が「つくりごと」を超えた意味を帯びてくる。そう。『べつの桃』は逃避のためのフィクションでない。

『べつの桃』の登場人物たちは運命の必然を生きてはいない。フィクションの構成された時間の中で、彼らの心が求めた時間を懸命に生きているのである。そのことは、ここまでの文章によって論じてきた。そして引用の瞬間から、彼らは私たちと同じくパラレルな時間の一つを生きる困難と立ち向かう。【次を読む】
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2007年07月21日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(5)約束が共有された時間

――サル:うるせえんだよ、お前は! 畜生、俺は女は苦手だし、扱いも下手だがよ。あんたに寂しい思いはさせねえよ。
  キジ:なんだい、いい奴じゃないか。ねえ、いっちゃん。
  一光・イヌ:いっちゃん!(六場)


 ここに一つの約束がある。サルは言う。「あんたに寂しい思いはさせねえ」と。その言葉はキジの心を明るくする。さらには、場自体をハプニングのような明るさをもたらしている。このとき、集団の中に「寂しい思い」はない。つまり、一つの約束が集団のありようを変えてしまっている。

 しかし、約束はいつまで効力を持つのだろうか。サルは確かに「いつまでも」という意味を込めている。しかし、彼らは旅の途上にあるのだ。その旅の中で、彼らの運命がどのように変転していくかは不明である。だから、約束は「いつのまにか」反故にされてしまうかもしれない。

 約束は時間を支配しない。約束が示すのは、時間の運命を越えたいという希望である。だから、約束というものは時間に対する私たちの無力さを印象づける。この無力さはいじましい。だが、無力なだけではない。約束はフィクションの中に、彼らが生きるべき時間の理想を導入しているのである。

 約束は心が望んだ時間のありかたを示す。「あんたに寂しい思いはさせねえ」とサルが言うとき、心が望んだ一つの時間を明らかにしているのだ。彼らが一生ともにあること。サルの言葉は心が望んだ理想の時間を率直に告げている。

 そして、集団の中にこの約束がとけこむとき、サルの理想は全員の理想となるだろう。フィクションの一過程で、新たな理想の時間が生み出されている。その時間を彼らが生きるかは不明だ。しかし、共有された時間が彼らの心の起点となりうる。その「心の起点の時間」によって、彼らは未来と対していくことになるだろう。【次を読む】
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2007年07月20日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(4)時間たちのせめぎ合い

――一光:すみません、あまりにも唐突で……。私は今、自分が何者なのかすら、理解できずにいるのです。
  父:そうか。そうだな。すまない。

         暗転。
         (ト書略)
  父:やはり、行くか。
  一光:はい。(二場から三場)


 暗転の中で時間はどう変化するか。それがほんの一瞬か、数日であるか私たちには分からない。ただ一つ明らかなのは、これまでの時間が貫通していることである。いや、それは正確には貫通ではない。私はすでに複数の時間について論じている。暗転の中では、圧縮された複数の時間たちがせめぎ合う。この時間たちのせめぎ合いこそが、暗転と演劇形式に一つのうねりを与える。

 引用を見よう。「真実の時間」が一光を混乱の極みに陥れている。「真実の時間」が強力に存在を主張している。しかし、それだけではない。一光の「心の起点の時間」がここにはある。そして、にせものの時間を生きることを選んだ父の「孤独の時間」もある。暗転の中で複数の時間たちがせめぎ合うのである。

 時間たちのせめぎ合いは、アイデンティティの危機を生む。「真実の時間」は新しい一光の可能性を伝える。だが「心の起点の時間」も別の一光がいる事実を教えている。さらに「孤独の時間」を過ごす父が愛した一光の過去の姿も感じることもできるだろう。アイデンティティは、異質な時間の中の「自分たち」から「自分」を生みだすことによって確立されなければならない。

 一光のアイデンティティはどう確立されるのか。「やはり、行くか」と「はい」の応答の呼吸の中で、彼らが一つの解決を選んだことが分かる。一光一人がそれを確立するのではない。対話が可能な他者と生きるために確立されるのである。アイデンティティの格闘の一切を略して、得難い正しさが選びとられたことが伝えられている。

 フィクションの時間たちのせめぎ合いが、登場人物のアイデンティフィケーションのうねりを生んでいる。アイデンティティは目に見えない。だから、暗転の不可視で感知するのがふさわしい。ここに人間の営為をトレースする形式の充実があるだろう。それと同時に、時間たちのせめぎ合いがいのちに圧縮されるという、人間の驚異がここにある。【次を読む】
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2007年07月19日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(3)孤独という時間

――父:……一光。わしはお前を育てた。
  一光:ええ、もちろんです。感謝しております。
  父:育てたが、それだけだ。育てただけなのだ。
  一光:えっ?
  父:お前は、わしの妻から生まれたのではない。
  一光:!
  父:そもそもわしは、所帯をもったことがないのだ。(一場)


 引用のこのとき、過去という起源がフィクションに導入されている。過去という起源は「真実の時間」となる。その時間が二人の時間を変化に追いやるだろう。一光はひどく驚いている。その驚きが、彼を育むと同時に彼自身が育んできた「心の起点の時間」の存在を弱めているだろう。

 この場面にはもう一つの時間がある。それは「所帯をもったことがない」という父の時間である。「妻」を持つことなく一光を「育てただけ」という父が過ごした時間が、「真実の時間」や「心の起点の時間」とともに引用の場面に圧縮されている。

 ところで、父の語る言葉から、彼が二つの嘘をついていたと分かる。一光が実子であること。そして、妻がいたことである。つまり、父は「真実の時間」を告げると同時に、子も妻もない独身男に変じるのである。

 ここに父の孤独がある。独身男だからではない。子も妻も持つ人間であると偽ることでそう印象づけられるのである。独身男がいつからか妻子持である嘘を生きること。父の個である孤独が感じられる。

 この「孤独の時間」に思いをはせよう。きっと、後に一光がそうしたようにである。それは父の孤独のみを伝えるものではない。にせものの時間を選び、幼い一光に向かった決断の意味を想像させてくれる。「真実の時間」によって、全てが覆われるものでないことが了解されるだろう。【次を読む】
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2007年07月18日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(2)「真実の時間」vs「心の起点の時間」

――父:……一光。わしはお前を育てた。
  一光:ええ、もちろんです。感謝しております。(一場)


 フィクションは彼らの時間を変化させる。その変化を告げるのは「過去」である。「お前を育てた」というかつての事実が語られることで、この時フィクションに過去が導入されている。フィクションは現在と過去を構成することで、特別な意味を産出するだろう。

 過去はフィクションの中に厚みをもたらす。しかしそれはただの厚みではない。過去は登場人物たちの起源となる。いま父の口から語られるのは一光の起源であるが、その起源が語られることによって一光の時間は変化する。過去と現在のつながりが与えられ、彼は「真実の時間」を生きることになる。

 こうして、過去という起源は「真実の時間」を生み出す。だが、「真実の時間」が始まれば、今までの時間を捨ててよいわけではない。ある種のフィクションはスピーディーな展開を求めて「嘘」を次々と捨てていく。しかし『べつの桃』はべつの運動を作品にもたらしているのだ。

 一光の言葉に注目しよう。「感謝しております」。この言葉の中にあるべつの時間を感じ取ろう。

 この言葉は「育てた」という過去の時点だけを指しているわけではない。過去から現在まで存続する思いを伝えている。つまり、この言葉は過去から現在まで存続する感謝の時間から生まれている。おそらく一光にとって自分の人生を振り返るとき、最も意味を持つのは父への感謝である。だからこうも言える。それは一光の「心の起点の時間」となりうる。

「心の起点の時間」とは何か。それは自発的な思考や行動の際に心が想起する時間である。思考し行動するとき、それが受けいれられる未来を自然と期待する。このとき、未来は私たちの心の中で一つの実感を持っていると言える。この時間への実感が「心の起点の時間」である。実感の傾きによって、「心の起点の時間」は私たちのアイデンティティの原型となるだろう。

 まとめよう。「真実の時間」を語りはじめる父に対して、一光は「心の起点の時間」を無邪気に答える。そのことで、異質な時間が一つの場面に圧縮されている。良質なフィクションはこのような時間の密度を持つ。そして、それらの時間の意味を捨てずに受けとめるものである。【次を読む】
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2007年07月17日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(1)無防備で無傷な時間

――一光:ただ今帰りました。
  父:うん。
  一光:いかがですか、学問は。
  父:うん。まあ、ぼちぼちだ。
  一光:そうですか。良かった。
  父:うん。
  一光:具合はどうです?
  父:うん。悪くない。(一場)


『べつの桃』の冒頭である。もし、この部分がラスト・シーンだとしたらどう読めるだろうか。濃やかな愛が通うこの時間が、フィクションの最後を飾ってはいけない理由はどこにもない。これも一つの人生のゴールでさえあるだろう。これもまた「悪くない」と思う。

 しかし、引用はあくまで冒頭である。フィクションというものは、例えばゴールでありえたかもしれない一つの瞬間を構成し「冒頭」を生み出す。これが冒頭であるために、私たちは愛の時間がどう変化していくかということを意識させられることになる。

 フィクションは時間を構成する。この構成された時間の中で、物語内の時間の意味は変容させられる。その力を無化することは不可能である。そして、変容を義務づけられた時間であるという意味で、フィクションの冒頭の時間はいつも「か弱さ」をたたえている。

 冒頭にある「か弱さ」は、他のはじまりがありえたかもしれないという意識から生まれるものではない。もちろん、その意識は他の多くの作品と比較させる。しかし、私たちの意識に先立って、フィクションはそれ固有の時間をつむいでいるのである。

 そして、この「か弱さ」は作品の「弱み」ではない。創り手は時に冒頭にインパクトや謎を備えさせその「弱み」を消そうとする。しかし、どんなにインパクトや謎を備えようと、フィクションの冒頭には本質的な「か弱さ」がある。

 引用に戻ろう。一光が父に愛情を注ぎ、父が心からくつろいでそれを受け取るこの時間には、変化に対する意識はない。変化の運命というものを、彼らは全く意識しない。もし、どちらかに不幸があれば、それが致命的に互いを傷つけるような親密さで日常が送られている。

 つまり、彼らはフィクションが構成する時間の意味に対して、そして冒頭がたたえる「か弱さ」に対して無防備である。だからこそこうも言える。その無防備のために彼らは強い。すぐ訪れるだろう未知の変化に対して、いまを不足させようとはしないからである。

 互いを思ういまという時間を生きること。それがあえなく変化するとしても、彼らがいまを永続するものとして感じた事実はフィクションに残る。『べつの桃』の冒頭は、フィクションの構成に対して無防備な、だが生きるものの無傷な時間を伝えている。【次を読む】
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2007年07月16日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で 章末 解放された無辺の空間

 ここまで空間をキーワードにして論じてきた。しかし、「『べつの桃』の空間とは何か」や「演劇の空間とは何か」という固定的な結論を書くことはできない。

 なぜなら、私は無数の空間を論じたからだ。最初は静謐な劇場空間の緊張について。次に俳優の身体が「個」という空間として感じられる事象を。そして、その「個」と「個」がつながるいのちの空間形成について私は論じている。この時点で演劇空間はダイナミックだと言えるだろう。固定的な結論は似つかわしくない。

 その一方で、フィクションに対する演劇のコンプレックスについて一定の紙数を割いて論じた。このコンプレックスは演劇空間への不安から生まれる。劇場が劇場に過ぎず、俳優が俳優に過ぎないこと。その根底に対する不安が存在する可能性を書いた。背後の不安を抱えたものがやみくもにどこかを目指し、周囲と同調を図ること。こうした徴候を「暗転恐怖」や「ギャグ偏重」に対して私は感じる。それが偏見であれば幸いである。

『べつの桃』が演劇の不安をどう解決したか。それは『べつの桃』よりずっと以前に作られた「篠田青の『東京青松の道/東京青松から』」を読めば明らかである。「真の基礎訓練とは、日常と自分の揺れを知ることです。感情の動きなどという大雑把なものではなく、ごくごく微細な揺れ。普通であれば見逃す、あるいは忘れてしまうような小さな心の波を、しっかりと受け止める。」(「その8「厄介な人種」

 人間の心身に「微細な揺れ」という微動がある事実。その「小さな心の波」に基づいて劇場と俳優を物語空間として生かすことへの確信が語られている。演劇形式への深い信頼によって、演劇の不安は払拭されている。いや、「不安の払拭」どころでない。「解放」のイメージが「篠田青の『東京青松の道/東京青松から』」で繰り返し語られていた。「解放」という言葉は、束縛からより広い空間に向かうことを意味する。

 その空間とは何か。それは演劇的演技法から解放された微動空間である。そして、この微動空間は良質なフィクションの空間となる。さらに、フィクションは無限の仮想空間を私たちに与える。そればかりではない。フィクションは私たちに「世界」さえも与える。そう。作品が生きている空間は、解放された無辺の空間と言える。このような演技空間を『べつの桃』は生み出しているのである。

 一章で記述したのはこの無辺の空間のほんの一部だろう。空間というキーワードを用いて私が論じたかったのは、『べつの桃』が破格の演技に基づいた作品であること。さらに、その演技がフィクションとの分割を拒むものであること。その二点である。雲のようなフィクションの自然な調和を壊しながら、私はその主題を書くことを選んだ。演技についての言及を終え、次章ではフィクションについて論じていきたい。【次を読む】
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2007年07月15日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(6)フィクションが与える世界という空間

――キジ:噂だからね。話は続くよ。桃から生まれて、桃太郎と名付けられたその赤ん坊。今じゃすっかり大きくなって、近所でも評判の力自慢。それを生かして、人々を困らせている鬼たちを退治しに行くことにした。
  (略)
  キジ:さらに、桃太郎と犬と猿は進みます。と、今度は雉がやってきました。
  サル:雉もかよ!
  イヌ:そんな馬鹿な。(七場)


『べつの桃』の登場人物は、ここで「桃太郎の物語」と遭遇する。この瞬間に、私たち観客に意識される空間のありようを記述してみたいと思う。

 観客は『べつの桃』と桃太郎の関連を冒頭から示唆される。その示唆の中で『べつの桃』を「桃太郎と関連する話だろう」と捉える。そんな風に私たちは作品を批評する。批評する意識によって、私たちは作品の外部に立っていると言える。

 しかし、「桃太郎」の物語が『べつの桃』で語られる瞬間、『べつの桃』の登場人物と「桃太郎の物語」をつなぐ謎が生まれる。この謎によって、私たちは、登場人物と同じように謎の渦中に置かれる。私たちは謎によって物語の内部に入り込むと言えるだろう。

 とはいえ『べつの桃』と「桃太郎の物語」をつなぐ謎を解けるのは私たちである。なぜなら「桃太郎」は私たちにとって馴染みの物語であるからだ。そう考えると、私たちは「桃太郎」と『べつの桃』の外部に立ち、両者を観察する立場にある。

 私たちは物語の内部と外部のどちらに立つのだろうか。ここに認識の混乱がある。この混乱にもう一つの変数を加えよう。私たちが批評する外部に立つのは、「桃太郎のからくり」という物語の意匠に深く移入することでそうなのである。物語の外部により強く立つことが、物語の内部に入り込むことで実現するという奇妙な割り切れなさがある。

 この空間の割り切れなさがフィクションの生命である。フィクションに移入する私たちは、内部と外部を同時に生きる。割り切れない内部と外部に自分がいると体感することで、両者の融合点を垣間見る。実は、この融合点は世界という体感をともなって感じられるのである。

 現実世界で外部は峻別されなければならない。なぜなら、外部を未知としない認識は世界を貧しくするからだ。私たちは世界を局所で捉えることが義務づけられる。しかし、フィクションの感覚の中で、私たちはそのポジションを変える。イメージを超えた体感でもって、内部と外部の融合点としての世界に立っているのだ。

 このような意味で、フィクションに向かう私たちは「世界という空間」を獲得する。私たちが「世界」をまとまりとして認識するのは、フィクションという仮構においてである。くれぐれも、この仮構をただの「つくりごと」と捉えてはならない。私はここまでフィクションを支える良質な演劇の技術について語った。『べつの桃』の引用の瞬間に、世界は微動の通う空間の総和として体感されるのである。【次を読む】
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2007年07月14日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(5)笑いが生む共鳴空間

――サル:うるせえんだよ、お前は! 畜生、俺は女は苦手だし、扱いも下手だがよ。あんたに寂しい思いはさせねえよ。
  キジ:なんだい、いい奴じゃないか。ねえ、いっちゃん。
  一光・イヌ:いっちゃん!(六場)


 笑いという意味の「ギャグ」という語は演劇を起源に持つ。台詞の言えないハプニングに対する苦しまぎれの回避。ここで生まれる笑いを「サルグツワ」という口封じの拘束具によって呼んだのが「ギャグ」の語源となる。現在演劇の中でギャグは小さくない意味を持つだろう。私はその意味を考えてみたい。

 前回私は演劇がフィクションに対するコンプレックスを持つ可能性について書いた。このコンプレックスの中では、フィクションこそ「サルグツワ」と感じられるのでないか。フィクションは生身の身体が何かを言うことを封じている(と捉えられている)。この劇的緊張からの一瞬の解放が、ギャグに求められている可能性がある。

 ギャグをすることで俳優は観客に直接向かう。このとき、俳優は観客と同質の人間であることが表現できる。この表現の中において、俳優は物語の拘束から一瞬解放されるのである。それだけでない。笑いは人間が共鳴する空間を生み出す。フィクションと重ならない自分に葛藤する俳優は、観客と共鳴する空間の中で、自身の立場の不安を忘却することができるのである。

 そして、ギャグを欲するのは俳優ばかりではないかもしれない。観客もまた目の前の俳優が登場人物であるという緊張を感じ続けている。ギャグはこの緊張からの一瞬の解放ともなる。このように俳優の不安と観客の緊張をガス抜きする手段として、演劇の中のギャグは小さくない意味を担っていると考えられる。この可能性に対する私の正直な印象を書こう。そんな都合を感じるギャグは笑えない。

 あるときの演劇の笑いは、観客の共鳴をはね返す空間の力が求められる。また、あるときの演劇の笑いは、俳優とではなく登場人物と観客が共鳴する不可思議を生み出す。引用について登場人物や状況を説明する余裕がない。ただ、ここに含まれる笑いが後者であることを指摘しよう(「いっちゃん」とは一光のことである)。「キジ」の言葉にうちとけて笑うとき、客席の私たちは、不意に自分が物語空間の中にいる驚異を知るのである。【次を読む】
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2007年07月13日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(4)いのちという心身空間

――一光:すみません、あまりにも唐突で……。私は今、自分が何者なのかすら、理解できずにいるのです。
  父:そうか。そうだな。すまない。

         暗転。

         (ト書略)

  父:やはり、行くか。
  一光:はい。(二場から三場)


 生身のリアリズムという長所を持つ演劇は、フィクションに対するコンプレックスを持つ傾向がある。生身がどこまでも生身であること。フィクションと生身とは真に重ならないかもしれないという恐怖からそれは生まれる。

 このコンプレックスは暗転で強く自覚される。先程まで登場人物だった俳優は、暗転の中で「仕事」をする。この俳優も観客と至近距離にあるために、フィクションと重ならない自分が自覚されることになる。フィクションに対するコンプレックスは、暗転に対するコンプレックスともなる。

 暗転を制限することで生まれる物語の不自然さを私は過去に指摘したことがある。東京青松は「生身のフィクション」というレベルを構想することで、フィクションと暗転に対するコンプレックスを解消した。引用箇所でそのことを確かめてみよう。

 一光は「すみません」という語勢の中に微動を多く含む。首を左右に振るような、振るというに至らない微動から、首をわずかに振る。その動きには、他人を巻きこむ押しつけがましさはない。このささやかな微動によって、混乱の極みにある一光の、優れて内省的な人格が伝わるのである。

 一光の人格に触れることで、一つのいのちを持つ存在と感じる。観客が登場人物をいのちと感じるとき、暗転はコンプレックスの対象ではなくなるのである。というのも、私たちにとっていのちは連続するものであり、装置のようにオンオフが切り替えられるものではないからである。

 フィクションの中でいのちは連続する。そして、このいのちの演劇的運動は圧巻である。暗転を超えて、一光は出立の準備を終えている。混乱の極みにあるいのちが、次の瞬間に一つの解決の上に立つ。いのちが様々なものを凝縮して立つ存在だと教えられる。

 微動/無微動の心身空間がいのちとなること。これが東京青松の「生身のフィクション」のレベルである。この発想に演技の王道があることは了解されるだろう。東京青松は王道かつ破格の解決を演劇にもたらしているのである。【次を読む】
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2007年07月12日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(3)無微動の心身という空間

――父:……一光。わしはお前を育てた。
  一光:ええ、もちろんです。感謝しております。
  父:育てたが、それだけだ。育てただけなのだ。
  一光:えっ?
  父:お前は、わしの妻から生まれたのではない。
  一光:!
  父:そもそもわしは、所帯をもったことがないのだ。(一場)


 ところで、微動=身体の揺れを切る方法は二種類あると形容できる。

 一つは、自己の身体に集中することである。その集中によって演劇は、バレエなどのスポーツ的な身体を舞台に乗せることができる。多くの演劇は「微動だにしない」というクリアな緊張を表現の単位とする。

 もう少し書こう。それなりに力を込めれば身体の微動は押さえることができる。それは同時に不自然である。俳優は力を込めた状態から、絶妙な加減でそれを抜く。力を込めて抜く身体。これが演劇のスタンダードな身体である。英米圏の俳優がより、この身体をスタンダードとしている印象を私は持つ。

 そして、もう一つの微動を切る方法がこの文章の主題である。それは、個以外の何かに集中することだ。心が純粋に他を意識するとき、身体の微動も消える。具体例を挙げよう。手を前に出して止めるとき、私たちは身体を意識してその微動を止めることもできる。その一方で、誰かと握手するために純粋に行為するときも微動は止まるのである。

 もっとも、この微動が止まるのはその行為が自然だと感じる限りである。握手の習慣になじまない人間は他人を意識しても、身体に集中する方法でしか微動を切ることはできない。自然と感じる行為を他に働きかける集中において、身体の微動は切ることができる。

 実は一光の身体はほぼ無微動である。微動が伝わる空間の中でこの無微動の意味はより強まるだろう。私たちは一光に何かを感じる。というのも、微動の日常と異なる身体を彼が生きているからである。無微動もまた、個を印象づける衣装となるのだ。

 だから私たちは一光の心身へと集中する。さまざまな葛藤を抱えながら、神経を澄ます彼の心を想像する。このとき、私たちは一光の無微動が他への集中によって生まれていると知っている。見分けるほど明確な区別ではないかもしれない。ただ同じように身体を持つ私たちが、身体が何によって働くかという印象を察知するのである。

 一光は父とその言葉への集中において無微動である。そのことは、彼が心も体も父に向かっている事実を示す。もし、一光が自分に集中していると感じれば、それは事実でなく「事実の表現」に変質するだろう。『べつの桃』を観たものは知るだろう。この一光はどこまでも優しい。この引用の場面でも、その優しさが他に向かう身体のあり方によって明らかにされていたのである。

 無微動の心身という空間は、個という広がりのみを伝えるのではない。それが触れている 外の空間へ、いのちを通わせているのである。【次を読む】
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