2007年07月11日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(2)微動する心身という空間

――父:……一光。わしはお前を育てた。
  一光:ええ、もちろんです。感謝しております。(一場)


 ある人の不意の沈黙に触れて、まず私たちが見るのはその人の顔だろう。そのことで私たちは人の真意を捉えようとする。ならば、顔は真意を示すだろうか。答えは否である。顔は表情豊かだが、真意の全てを伝えることはない。

 だから、私たちは顔の奥にある心を探ろうとする。顔を表面として、その変化を生み出す深層を推し量ろうとする。このとき、心は空間となる。心は「顔という表面と真意という奥行をもつ空間」だと仮構される。

 ところで、心は心臓と重ねられる。人の内部にあり常に働くもの。意ならず強まり消え入る不安を与えるもの。なるほど、これは巧みな比喩だ。心と心臓は連動することもしばしばである。だがそれは比喩に過ぎまい。特に他人の心についてはそうである。

 心の比喩の重ね合わせをほどいてみよう。私たちは他人の心というものを、どのように実感しているだろうか。

 引用を見る。「……」という沈黙に触れて、私たちは父の顔をみる。その顔は真意の全てを表わさない。言葉もまたそうである。父は一光を「育てた」事実をことさら語ろうとするが、私たちにとって、その真意は不明である。父の心は、不透明な空間として浮かび上がる。

 しかし、ただ一つ明らかなことがある。それは父の心がいつもの親密な場と異質なものだということだ。心という不透明な空間は、場と異質な父の「個」となる。このようにして、父の身体が個のカタマリとして意識される。というのも、私たちにとって個という単位はいつも身体であるからだ。

 まとめよう。あるときの心とは全身である。異質な心を探ろうとする集中において、他人の全身が心という空間として現われる。私たちの注意は、顔から全身へと向かう。とはいえ、身体は表情豊かではない。だからこそ、身体の微動が心の発する看過できない波動として感知されるのである。

 微動する心身という空間。これを演劇の単位として扱うことは、現実的な感覚において正しい。引用の箇所で父の微動は、その真意を決して伝えるものではなかった。しかしその微動は、ミニマルであるが心が発されようとする緊張と、父の個である輪郭を強く印象づけたのである。【次を読む】
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2007年07月10日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(1)微動を伝える演技空間

――一光:ただ今帰りました。
  父:うん。
  一光:いかがですか、学問は。
  父:うん。まあ、ぼちぼちだ。
  一光:そうですか。良かった。
  父:うん。
  一光:具合はどうです?
  父:うん。悪くない。(一場)
  

 生命は内部にいつも運動を抱えている。もちろん人間もそうである。人間もまた、鼓動し、脈打ち、呼吸するなどの微動をもって生きている。

 生命の微動を感じることは、喜びであるのだと思う。例えば、寝ている子供の愛しさは、無邪気な寝顔ばかりではない。わずかな表情の変化や身じろぎ、そしていつもより深く感じられる呼吸もまた、愛しさである。つまり愛するものの微動が、その愛しさを強めている。生命の微動を感じ取るということには無心な喜びがある。

 登場人物たちの微動を感じ取ること。その感覚を東京青松は演劇の単位とする。それは確かに、小劇場でなければ不可能だろう。かといって、単に小劇場であれば可能なのではない。アクションや台詞の速度を抑制することで、微動する人間が意識される余地を劇場空間に残しているのである。

 引用を見よう。『べつの桃』の冒頭にあるのは、二人の日常の会話である。ここには目をひく大きな身振りも、流暢な台詞回しもない。当たり前の二人の日常のやり取りが、当たり前のように繰り返されているだろう場面である。考えようによっては、つまらない冒頭とみなすこともできる。

 しかし、登場人物の呼吸を感じてみよう。例えば、「うん」と繰り返す父の呼吸である。私の記憶では、この三つの「うん」はほぼ同じリズムで語られていた。それは単調な演技だということを意味しない。父が深くくつろいでいることが感じ取れるのだ。つまり、気の置けない相手の言葉に、ただ応えるというくつろぎが感じられる。そして、その感覚は「うん」という台詞の中にある微動によって強まるのである。

「うん」という直前に、父はわずかに無声の呼吸の多く持つ。これは、父を演じた俳優のくせであり、父のくせである。何か言う前に含まれる呼吸の微動があること。多くの演劇はそれを消すべきノイズと扱うだろう。しかし、東京青松の演劇は、その微動の中に父という人間の生命を伝えているのである。ひょっとしたら、一光は父の微動を受け取るために、ささいな質問を繰り返していたのかもしれない。

『べつの桃』は、自然な微動が許され、そして、その微動を自然に受け取る日常空間から開始されている。微動が伝わる空間は親密な空間である。要するに、この空間が作品冒頭の必然であることが確認できる。微動を伝える演技空間を作品の必然として構想していること。ここに、東京青松の演劇の破格さがあるだろう。【次を読む】
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2007年07月09日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 予告「『べつの桃』を論じることは」

「演劇は伝えるのではなく、ただ見てもらえばいいのではないでしょうか。物語がそこにあり、登場人物は生きている。それだけで充分なのです。」という文章が、この『とうきょうあおまつぶ』内にある(「篠田青の『東京青松の道/東京青松から』その6「観客を信じること」」より。2010年4月6日現在読むことのできる記事である)。

『べつの桃』はまさに「それだけで充分」な作品であると思う。ただ見るだけ、物語と登場人物に触れるだけで深い満足がある。そんな作品だった。そして、そんな作品のたたずまいは本当に論じにくい。例えば流れる雲を想像しよう。その美しさを事々しく論じることはひたすら無粋に感じる。私がいま引き受けようとしているのは、その無粋な行為なのである。

 これは偽りない実感である。しかし同時に、無責任であるとも思う。こんなイノセントな表明では、『べつの桃』の固有の魅力を伝えることにはならない。どんな作品に対しても、「書くことのできない魅力がある」などと喧伝することはできるのだ。だから、私は『べつの桃』を論じる無粋を引き受けたいと思う。そう思う一方で、何を論じればいいのか思いついていない。私はまだ、雲をつかむような気持ちでいるのだ。

 本文を「予告」と題したのはそのためである。未定事項が多過ぎるため「序」さえも書けない。『べつの桃』を論じようとして、流れる雲を捉えるような徒労を私は感じる。しかし、この雲の中には、きっと『べつの桃』の、そして演劇の、ひいては生の固有の層が流れていると思う。『べつの桃』を論じることは、演劇と生の固有さを明らかにすることになる。私はその重責を自分の文章に負わせたい。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇

2007年07月05日

植林四本目『べつの桃』


2007年7月5日(木)〜8日(日)
荻窪 アール・コリン

脚本・演出:篠田 青
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