2007年07月13日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(4)いのちという心身空間

――一光:すみません、あまりにも唐突で……。私は今、自分が何者なのかすら、理解できずにいるのです。
  父:そうか。そうだな。すまない。

         暗転。

         (ト書略)

  父:やはり、行くか。
  一光:はい。(二場から三場)


 生身のリアリズムという長所を持つ演劇は、フィクションに対するコンプレックスを持つ傾向がある。生身がどこまでも生身であること。フィクションと生身とは真に重ならないかもしれないという恐怖からそれは生まれる。

 このコンプレックスは暗転で強く自覚される。先程まで登場人物だった俳優は、暗転の中で「仕事」をする。この俳優も観客と至近距離にあるために、フィクションと重ならない自分が自覚されることになる。フィクションに対するコンプレックスは、暗転に対するコンプレックスともなる。

 暗転を制限することで生まれる物語の不自然さを私は過去に指摘したことがある。東京青松は「生身のフィクション」というレベルを構想することで、フィクションと暗転に対するコンプレックスを解消した。引用箇所でそのことを確かめてみよう。

 一光は「すみません」という語勢の中に微動を多く含む。首を左右に振るような、振るというに至らない微動から、首をわずかに振る。その動きには、他人を巻きこむ押しつけがましさはない。このささやかな微動によって、混乱の極みにある一光の、優れて内省的な人格が伝わるのである。

 一光の人格に触れることで、一つのいのちを持つ存在と感じる。観客が登場人物をいのちと感じるとき、暗転はコンプレックスの対象ではなくなるのである。というのも、私たちにとっていのちは連続するものであり、装置のようにオンオフが切り替えられるものではないからである。

 フィクションの中でいのちは連続する。そして、このいのちの演劇的運動は圧巻である。暗転を超えて、一光は出立の準備を終えている。混乱の極みにあるいのちが、次の瞬間に一つの解決の上に立つ。いのちが様々なものを凝縮して立つ存在だと教えられる。

 微動/無微動の心身空間がいのちとなること。これが東京青松の「生身のフィクション」のレベルである。この発想に演技の王道があることは了解されるだろう。東京青松は王道かつ破格の解決を演劇にもたらしているのである。【次を読む】
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