2007年07月16日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で 章末 解放された無辺の空間

 ここまで空間をキーワードにして論じてきた。しかし、「『べつの桃』の空間とは何か」や「演劇の空間とは何か」という固定的な結論を書くことはできない。

 なぜなら、私は無数の空間を論じたからだ。最初は静謐な劇場空間の緊張について。次に俳優の身体が「個」という空間として感じられる事象を。そして、その「個」と「個」がつながるいのちの空間形成について私は論じている。この時点で演劇空間はダイナミックだと言えるだろう。固定的な結論は似つかわしくない。

 その一方で、フィクションに対する演劇のコンプレックスについて一定の紙数を割いて論じた。このコンプレックスは演劇空間への不安から生まれる。劇場が劇場に過ぎず、俳優が俳優に過ぎないこと。その根底に対する不安が存在する可能性を書いた。背後の不安を抱えたものがやみくもにどこかを目指し、周囲と同調を図ること。こうした徴候を「暗転恐怖」や「ギャグ偏重」に対して私は感じる。それが偏見であれば幸いである。

『べつの桃』が演劇の不安をどう解決したか。それは『べつの桃』よりずっと以前に作られた「篠田青の『東京青松の道/東京青松から』」を読めば明らかである。「真の基礎訓練とは、日常と自分の揺れを知ることです。感情の動きなどという大雑把なものではなく、ごくごく微細な揺れ。普通であれば見逃す、あるいは忘れてしまうような小さな心の波を、しっかりと受け止める。」(「その8「厄介な人種」

 人間の心身に「微細な揺れ」という微動がある事実。その「小さな心の波」に基づいて劇場と俳優を物語空間として生かすことへの確信が語られている。演劇形式への深い信頼によって、演劇の不安は払拭されている。いや、「不安の払拭」どころでない。「解放」のイメージが「篠田青の『東京青松の道/東京青松から』」で繰り返し語られていた。「解放」という言葉は、束縛からより広い空間に向かうことを意味する。

 その空間とは何か。それは演劇的演技法から解放された微動空間である。そして、この微動空間は良質なフィクションの空間となる。さらに、フィクションは無限の仮想空間を私たちに与える。そればかりではない。フィクションは私たちに「世界」さえも与える。そう。作品が生きている空間は、解放された無辺の空間と言える。このような演技空間を『べつの桃』は生み出しているのである。

 一章で記述したのはこの無辺の空間のほんの一部だろう。空間というキーワードを用いて私が論じたかったのは、『べつの桃』が破格の演技に基づいた作品であること。さらに、その演技がフィクションとの分割を拒むものであること。その二点である。雲のようなフィクションの自然な調和を壊しながら、私はその主題を書くことを選んだ。演技についての言及を終え、次章ではフィクションについて論じていきたい。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇