2007年07月22日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(6)パラレルの時間の一つを生きること

――キジ:噂だからね。話は続くよ。桃から生まれて、桃太郎と名付けられたその赤ん坊。今じゃすっかり大きくなって、近所でも評判の力自慢。それを生かして、人々を困らせている鬼たちを退治しに行くことにした。
  (略)
  キジ:さらに、桃太郎と犬と猿は進みます。と、今度は雉がやってきました。
  サル:雉もかよ!
  イヌ:そんな馬鹿な。(七場)


「噂」として語られた「桃太郎」の物語の意味とは何だろうか。彼らにとって、それが自尊心を傷つけるものであることは間違いない。彼らの一人は「そんな馬鹿な」とつぶやく。自分の信じたオリジナリティが傷つけられているからである。

 彼らにとって「桃太郎」の物語は残酷である。心の起点を確かめながら進んできた旅と、ほとんど同じように旅するべつの者たちの存在を伝えている。『べつの桃』のフィクションの時間が、「桃太郎」の時間とパラレルであること。そのことが、彼らが特別な存在であるという特権をきれいに剥奪していくだろう。

 特権が剥奪された時間を生きること。このとき、『べつの桃』の時間は私たちの時間と近似してくる。私たちは、自分たちが特別な存在であるという理由によって、ある時間を生きる権利が与えられているわけでない。この意味で、私たちは特権が剥奪された時間を生きているのである。

 もっとも、私たちは「そんな馬鹿な」と叫んだりはしない。というのは、私たちにとって人生がパラレルであることは自明だからだ。しかし、それを本当に受け入れているかは疑わしい。この疑いを裏づける材料として、フィクションの一つの効果を挙げることができる。

 フィクションの中の「運命の時間」は、私たちの現実を束の間忘却させる。それはどんなフィクションでもそうなのである。そこに「運命の時間」があるならば、私たちはそこに「剥奪された特権」を幻想することができる。フィクションはこうして、パラレルな時間を忘却させる効果を持つ。

 フィクションに現実の忘却を求める人間の性によって、パラレルな時間は受け入れがたいものであることが分かる。現実の時間を生きる困難を認めよう。この立場に立つとき、『べつの桃』の登場人物が固有の時間を生きようとする努力が「つくりごと」を超えた意味を帯びてくる。そう。『べつの桃』は逃避のためのフィクションでない。

『べつの桃』の登場人物たちは運命の必然を生きてはいない。フィクションの構成された時間の中で、彼らの心が求めた時間を懸命に生きているのである。そのことは、ここまでの文章によって論じてきた。そして引用の瞬間から、彼らは私たちと同じくパラレルな時間の一つを生きる困難と立ち向かう。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇