2007年07月23日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに 章末 信に立つものの冒険

「イディオット・プロット」という言葉がある。ありえない行動を選択する登場人物の振る舞いをさす。具体例を挙げる。例えば災害に遭遇して、母親が子供を置いてどこかへ出かけてしまう。こうしたありえない行動を含む物語を批評する言葉が「愚かものの筋書き」である。

 登場人物が「愚かもの」である理由がある。彼らはフィクションの都合を受け入れているのである。先の具体例で言えば、母親の行動は子供に単独行動の余地を与えている。時に作者は「イディオット・プロット」に対して周到に理由を積み上げることによって、フィクションの都合を消そうとする。

 しかし、このとき失われるものは大きい。周到に理由を積み上げるにせよ、ご都合主義によって放置するにせよ、当然の行動を不可能とした事実はフィクションの中に刻まれている。つまりそれは、フィクションの主題に人間の無力というものを刻印することになるのだ。

 もちろん、私たちは大いなる時間を前に事実微力だ。登場人物も筋書きという「大いなる時間」に対して微力なのも間違いない。しかし、私たちも登場人物も微力ではあるが、全力でできることをするだろう。だから私たちは「愚かもの」ではない。

『べつの桃』という作品は、登場人物を「イディオット・プロット」から解放している。それどころではない。「大いなる時間」の操りの向こうにある時間を実現しようとする。私はそのことをまだ論じていない。論じてきたのは、筋書きという「大いなる時間」に対するもう一つの時間の存在である。

『べつの桃』の登場人物は、誰かと過ごす時間に純粋な幸福があると知っている。そしてその思いを共有する強さも知っている。彼らはこのような時間の経験を持っており、それを「心の起点の時間」として「大いなる時間」に向きあうのである。一章で私は無辺の空間を論じたが、二章の時間はこの一つの対立によって記述できる。

「大いなる時間」の中に私たちは囚われている。しかし、「大いなる時間」のために私たちが存在するのではない。登場人物もそうである。強大な「大いなる時間」と向きあうために、「心の起点の時間」という信に立つこと。この信に立つものの冒険こそ、微力な人間にできる唯一と言っていい現実的な行為である。 次章では、その行為について論じていく。【次を読む】
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