2007年07月24日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(1)等身大の信によって

――父:不思議だろう。わしの学問は、これを解明することだったのだ。
  一光:ここの涼しさは、一体……。
  父:からくりで暑さ寒さを調整している。
  一光:からくりで?
  父:この箱には、これ以外にも多くのからくりが詰まっている。いや、この箱自体がからくりなのだ。
  一光:箱?
  父:うむ。これが、赤ん坊のお前が入っていた「桃のようなもの」だ。
  一光:そんな! 父上は、これを川から運んだのでしょう?(二場)


 父と一光は「桃のようなもの」の中にいる。それは持ち運びできる大きさを持つ。しかし同時に、引用直後に父が語るように「この箱と、箱の外とは、異なる世界になっている」のである。箱の内部は「異なる世界」であり、彼らはその広い空間の中に居る。

 ところで、演技空間もまた「箱の外とは、異なる世界」である。だから「桃のようなもの」という空間が、演劇の中で物語られても驚くことはない。驚くべきは、演技空間の地が固まらないわずか二場で想像が難しい「異なる空間」を登場させていることであろう。

 ここに一つの自信がのぞく。それは「役者が信じたものならば、観客も信じることができる」(篠田青『東京青松の道/東京青松から』その8「厄介な人種」)という自信である。つまり、役者の「信」は作品空間を生み出す力を持つというのである。

 この「信」の質を物語る言葉が引用にある。それは「わしの学問は、これを解明することだったのだ」という父の台詞だ。父はただ「桃のようなもの」を拾いその中の一光を育てたわけではない。「解明」を目指すような観察や思考とともに一光を育てていたのである。

 つまり、フィクションの空間を生む力は役者や観客の盲信にはない。登場人物の等身大の観察や思考に基づく「信」にあるのだ。観客は等身大の信ゆえにそれを共有する。そうして空間の仮構が成立するのである。演劇の基盤が、現実への等身大の信に基づくこと。この健康な発想が微動する空間を顕在化させ、フィクションに独自の冒険をもたらすことになるのである。【次を読む】
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