2005年07月17日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その5 「受け手の愛着と想像」

 続編が創られるということは、その作品が多くの人に愛されたということです。それなのに、なぜ続編はうまくいかないのでしょう。

 一作目には登場人物との出会いがあります。しかし、多くの続編ではそれが再会に変わります。そこに新鮮さを持ち込むために、「今作からの新キャラクター・新アイテム」が登場しますが、スポンサーを含めた制作者たちは、それだけでは不安なようです。よく目にする「今度の○○は、もっと××!」といった宣伝文句にも顕著ですが、表現を過激にしていくという結論に至る訳ですね。そうして生まれた続編は、上っ面の表現にばかりとらわれてお話がおろそかになり、駄作の烙印を押されてしまいます。

 もちろん、成功したと言われる続編もありますが、一作目も二作目もその次も、全部好きだという人ばかりではないはずです。一作目は好きだが二作目は駄目、一作目よりも二作目が好き。どちらがどうというのではありません。それが観客に与えられた自由というものです。作品への愛着のありかは、それこそ十人十色。その全てを続編に生かそうとするのは到底無理ですし、できたとしても新しい作品とは呼べないでしょう。

 こんな思いをしたことはありませんか。大好きな漫画のアニメ化が決定。楽しみにしていたのに、何だか期待外れだった。絵が違う、声が違う、テンポが違う、原作にないエピソードが勝手に付け加えられている、などなど。漫画は、コマで割られた止め絵で綴られる物語です。コマとコマ、動きと動きの隙間は読者の想像でつなぎます。音声も含めて、読者だけの世界が間違いなく存在しているということです。そのため、たとえアニメの声が原作者のイメージ通りだったとしても、人によっては違和感を覚えてしまうのでしょう。一見近いように思える漫画とアニメですが、かなり違うものだということが分かりますね。

 近年のCGの発達は、映像に劇的な変化をもたらしました。特に目立つのは映画とゲームでしょうか。しかし現在、そのどちらもが伸び悩んでいるといわれます。なぜなのでしょう。CGがもたらしたのは、「今までリアルに表現できなかったものがリアルに表現できるようになった」、つまり情報量の飛躍的な向上です。映画でいえば合成による独特のぎこちなさ、ゲームでいえば単調なグラフィックによる映像表現の限界から、それぞれ解放されたはずなのですが……。

 情報量の増加は、作者の意図の増加でもあります。情報量が増えるほど、受け手が想像できる隙間は減っていくのです。何もかも見せてくれるという物語には、「ビジュアル・ショック」とでもいうべき快感があります。しかし多くの場合、その快感は持続しません。一度見れば充分、ということがほとんどです。最近の映画やゲームには、映像表現を競っている部分があり、受け手の中にもそれを望んでいる部分があるのは明らかです。そうして一過性の商品ばかりが増えていき、心に残るものが少なくなっているのが現状だといえるでしょう。

 映像技術が発達すると、創り手はそれを用いて様々な表現をしたくなるものです。今度はこんな映像を見せてやろう、こんな場面が浮かぶなんて凄いだろう、という感じでしょうか。しかしそれは、(乱暴な言い方ですが)想像力をもった観客に対しておせっかいが過ぎるのです。僕はそういう創り手のおせっかいを「表現欲」と呼んでいます。

 表現欲は何も、映像作品だけに存在するものではありません。現在の演劇は表現欲にまみれていて、それが僕に違和感を抱かせるのです。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 東京青松理論