2005年07月20日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その8 「厄介な人種」

 脚本家がきちんとした脚本を書けば、あとは演出家と役者の仕事ということになります。演出は客席から物語を整える(チェックする)、役者は舞台上で物語の一部になる。両者に要求されるのは、それ以外をやらないということです。個々人の表現欲を封じ、物語に従事する。そのためには脚本を正しく理解することが重要ですが、どんなに丁寧に書かれた脚本でも伝達ロスは発生してしまいます。誤った解釈を避けるためにも、せめて脚本と演出は(可能な限り)同一人物が担当するべきでしょう。

 演出や役者という仕事は無形であり、そのことが演劇を表現欲の温床にしています。そもそも人は、分かりやすい努力をしないと不安になるものです。一般的な劇団の稽古がやけに規律正しく、むやみに厳しいのもそこに起因しているのではないでしょうか。集団にけじめは必要ですが、彼らの基礎訓練(特に身体訓練)の多くが、役者や演出、そして劇団主宰の安心のためにあるのは間違いありません。もちろん、彼らの演劇は観客の想像力を想定していませんから、前提の違いはあります。演出は「観客に伝わるような」表現を役者に求め、役者もまたその表現を追い求める。それが基本になっています。が、その基本が「舞台で何かを表現する(した)」という安心につながっているのも事実でしょう。

 厄介なのは、役者のほとんどが「人前で何かをしたい人たち」であるということです。観客の前で行われる演劇が物語から遠ざかってしまうのも、無理からぬことといえるかもしれません。ですが、それを許した演劇は役者を甘やかしすぎました。観客からは役者が見えますし、役者を見るのが演劇です。しかし、役者には観客が見えてはなりません。観客を意識しないのではなく、観客などいない状態に身を置くのです。見えるはずの観客を見ず、見えないはずの背景を舞台上に見て、暗転の間に時間や場所を飛び越える。役者が信じたものならば、観客も信じることができるでしょう。過剰な表現を生み出し、物語を歪曲する「創造力」は必要ありません。自らが物語を生きるための想像力こそ、役者には必要なのです。

 下手な役者の代表的な条件に「棒読み」がありますね。なぜ棒読みになってしまうかというと、いつものおしゃべりから離れて、わざわざ何かを言おうとするからです。過剰な表情や身振り、ごてごてした台詞まわしなどで何かを表現しようとするのは、棒読みに等しい行為です。特に一般的な演劇は内面を表現することを好みますが、それはわざわざ表現するものではなく、ただそこにあるものです。登場人物としてその場にスッといられる。物語に必要なのはそういう役者、そういう感覚です。演技や台詞に上手いも下手もありません。あるのは、役者かそうでないかの違いだけ。これは役者にとって「分かりやすい努力」をすることよりも、はるかに厳しい現実なのです。

 身体訓練などをすれば、「演劇とはわざわざ体を使うものだ」と勘違いしてしまいます。発声練習に囚われれば、「台詞とは普段と異なる発声法でわざわざ言うものだ」と勘違いしてしまいます。真の基礎訓練とは、日常と自分の揺れを知ることです。感情の動きなどという大雑把なものではなく、ごくごく微細な揺れ。普通であれば見逃す、あるいは忘れてしまうような小さな心の波を、しっかりと受け止める。考え事をしているときの自分の仕草に気づく。そういう積み重ねがなければ、物語という異世界の中で普段と同じように呼吸することはできません。

 自分自身を学ぶということが、結果として役者の個性を育てることにもなります。個性的な役者たちが登場人物に出会ったとき、脚本家が演出を兼ねることも生きてくるでしょう。役者に合う台詞・合わない台詞というのが出てきて、登場人物が変革を迫られても、すぐに対応できるのです。演劇がこのようなシステムを獲得できれば、役者が変わるたびに物語は生まれ変わり、再演の意義もより深まるという訳です。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 東京青松理論