2005年07月27日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その2 「暗転1」

 青松の暗転は多い。演劇として禁じ手に近い多さである。青松の暗転の効果を考える前に、まず、暗転の多用がなぜ禁じ手なのかについて書いてみよう。

 演劇は生身の人間が演じるものだ。そして「暗転」は「場面・時間の切り替え」である。舞台や舞台袖にいる人間(役者)が「場面・時間の切り換え」を何度も行えば、「生身のリアリズム」に対して違和感がある。目の前の人間がいきなり場所や時間を転じる違和感である。また暗転は、セットの配置などに時間がかかる。物語進行に「間」が生じてしまうのだ。これも暗転が禁じ手である理由だ。

 多くの演劇では、そのために「一場志向」が高い。例えば「陪審員十二人が暑い部屋の中で討論する」とか「ゴドーが来ないがいつまでも待つ」など、物語空間を一場面に固定させるために、特定状況下で物語を進行させている。

「一場」の特定状況にしばられない物語はいくらでも可能だ。しかし、その物語の多くを演劇は扱えない。つまり「一場」は新たな劇を生み出すための制限となる。

 一方、「一場固定」に対して「明転」と呼ばれる手法もある。舞台を暗くせずに、セットや人間を素早く入れ換えるやり方である。舞台の上手(かみて・観客から見て右)と下手(しもて・観客から見て左)のどちらかで物語を進行させ、その間に舞台中央のシーンを入れ換えることもできる。

「明転」は場面転換をスムーズに行うための技術である。しかしここにも明白な欠点はある。つまり役者の移動や舞台の転換など、「演劇の都合」を観客に見せ付けることになるからだ。

 青松は、「一場志向」や「明転」を演劇の制限として捉えた。暗転の多用はそこから生まれた手法であろう。「暗転を消すこと、それが演劇だ」と考えてきた私は、はじめ青松の演劇をいぶかしく思った。幼稚にさえ感じた。次に心底驚いたのである。演劇の根本的問題を新たに克服しようとする意志がここにはある、と。

 この演劇に対する革新性を青松に感じたことは私にとって喜びであった。だが、志はあっても、暗転が禁じ手であるデメリットは依然として残る。次回は青松が暗転のデメリットをどう克服しようとしたか、具体的手法を見ていこう。ここに青松の真価があると言っても過言ではない。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林一本目篇