2005年07月28日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その3 「暗転2」

 青松は暗転のデメリットをどう克服しようとしたのか。このことの解答を青松は二つ提出していると思う。どちらもシンプルな解答であるが、その解答が要求する演劇は破格である。

 一つは「台詞づくり」の回で述べた等身大のキャラクタの力である。暗転は「生身のリアリズム」への違和感だが、その違和感を越えるリアリティを役者の演技に求めているのだ。青松の舞台はモノローグや名調子こそないが、役者に求める演技力は高いのである。

 もう一つは「暗転」に物語を容れることである。「場面・時間の切り替え」はもちろん、多くの劇の必然であり、そこに経緯もある。だが、青松の暗転には過剰な物語が詰め込まれている。暗転がただの「切り替え」ではなく、そこで物語を持続させている。

 具体例を挙げよう。『延長』は風俗店の個室を舞台としている。ここで生じる暗転には「性的行為」がはさまれる。このとき観客は息苦しい思いで暗転を見つめるだろう。時にコミカルに、時にグロテスクに。ほとんどのシーンが「性的行為の前」「性的行為の後」として描かれている。暗転で何が起きたか、それを感受しながら物語を読むことを指示しているのである。

『絵美香』には、『延長』そのものが「間」として含まれている(詳細は省く)。『絵美香』の中には『延長』自体が延長されているのだ。物語が進行するにつれ、暗転の中にはおびただしく物語が蓄積していく。私はこのように暗転に活力を与えた演劇を知らない。青松の演劇で暗転は多い。だがその暗転はただの間ではなく、私たちの前に動いているのだ。

 もっとも、この手法を青松がすべて活かしたわけではない。しかし暗転のデメリットを克服するための手法は明確に提起されている。この時演劇は、物語に対して自由に開かれることになるだろう。キャラクタも舞台空間も「演劇の都合」を一切背負うことなしに。

 青松の植林一本目は、この前人未到の演劇の可能性を示唆しただけで十分に成功である。そして、観客のみなさんがそこから何かを受け取ったとすれば、演劇の可能性が夢ではなかったことが証明されるだろう。そこで見られた夢がどのようなものであったか。そのことを私は引き続き語りたい。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林一本目篇