2005年07月29日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その4 「篠田青への手紙」

 以下の文章は観劇二週間後に篠田青に送った手紙の全文である。掲載理由は、私の「アンケート」の文章と、これまで書いた「延長/絵美香」論の間を埋める事情を伝えているためである。手紙の文面の内容はとくに篠田青の教唆を得たものではない。ただし彼の創り手としての明確な自覚に、私の読みが動揺させられたことは事実である。

(以下全文・※印は掲載のための注釈)

 やあ。こんにちは。早速本題に入ろう。この前の電話で『延長/絵美香』について再び考えたいことができた。私はストーリー展開(事件)が少ないことを弱点だとアンケートに書いたし、それは公演時間とコンセプトの制約上仕方ないことだと考えてきていた。だが私はコンセプトを明確に見切った上で批判しただろうか。役者・演出・脚本・プロデュースの話を聞くことでその迷いは強まった。そこで『延長/絵美香』のコンセプトを再び考え直す機会としてこの手紙を書きたい。

 まず、作劇上のポイントとして、科白にいくつかのルールが敷かれていることは明らかだ。「現実」も描くと脚本・演出家は言った。例えば『絵美香』で四人が何の集まりなのかは分からない。これはストーリーをシンプルにするという効果もあるが、一面世界設定の曖昧さや事件の不在を招いてしまうリスクもある。だがこれは「対話者たちが自明としていることに言及しない」というルールがどの場面にも貫徹していることを指している。「人に言うと恥ずかしい映画を見に行く同好会」の名称は語られても、四人の集団について毛ほどもヒントがないのはこのためであろう。つまり彼らが集まる意義は彼らの中で最も了解されていることなのだ。

 ところで作劇術で現在も有効な「三一致の法則」とは「時・場所・主題」の三つの要素の一致である。「三一致」によって犠牲にされるのは、会話のリアリズムだろう。「ある人物の主題に対する関与は何なのか」という要請をキャラクタが話すことが義務づけられるからだ。もちろん青松だけがその制約から自由だということではない。『延長/絵美香』でも「主題」を伝えるための操作は行われている。通常科白の中で調整する操作のほとんどが、ここでは暗転に委ねられているのが特徴である。この暗転は映画の編集(カット)とほぼ同義であるだろう。この編集はキャラクタを生かす技法である。この前後にもキャラクタは生きているし、役割期待でなく個人の意志として会話することが許すのだ。篠田青は『める変』(※青色108号の旗揚げ公演。脚本・演出とも篠田青)の時からキャラクタには優しかったと証言しておこう(そのレベルで生きる役者が求められているということでもあるだろう)。

 そして観客である私にとって、この暗転の量に飽きないために「語られなかった物語」という省略が必要だった。「間に何かが起きた」という感覚が「暗転」を単なる「場面転換」以上の意味を与えるからだ。『延長』ではそれが性的行為だったりする点が愉快だった。『絵美香』では「ソフトクリーム」に関するグロテスクな悲劇がそこに含まれている。さらに『絵美香』には『延長』がまるごと省略されている。こうして見ていくと、もはやそれが「暗転の量」をカバーする構成というものではなくなり、『延長/絵美香』の物語の生理となっていることにも気づく。『延長/絵美香』が一作である理由もそこにある。生きたキャラクタがなした行為や思いの複数を暗転という余韻の中に残すこと。「ナンパ」のエピソードのリンクはお洒落だが、ここではそれ以上にその瞬間と間にある「思い」をきちんと観客に置き残す構成であることは見逃せない(「わび・さび」ですね!)

 人とその人の物語を生きさせること。『延長/絵美香』のルール違反的な印象を与える技法は、結局現実に対してフィクションの強度をいかに高めるかということに注がれているのだ。この単純な正しさは何だ! ここで私はアンケートの発言を撤回しなければならない。舞台上の「事件」の少なさは「暗転」での事件に耳をすませるための「対比(対照)」であるのだ。私に不満足があるのなら、「暗転」で行われた事件の動き方を問題にすべきだったのだ。あるいは、この技法に対してまだ普通の演劇だったことにだ。このことに思い至った瞬間、私は『延長/絵美香』の再演が心底見たくなった。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林一本目篇