2005年08月03日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その9 「『絵美香』論1・高度なリアリズム」

『絵美香』の序盤の会話が気になった。

 ――コージ:「で、どうするんだ? タマキとは。」
   ショウ:「え?」
   コージ:「また友達でやっていくのか?」
   ショウ:「ああ……それは無いなあ。さすがに会えないでしょ、ちょっと。」
   コージ:「まあな。俺はそういうの気にしないけど。」
   ショウ:「凄いですよね。それ。腹とか立ったりしないんですか?」
   コージ:「無くはない。無くはないけど、続けたい関係もあるじゃないか。」

 正直にいうと私は彼らの話に腹を立てたのである。失恋した「ショウ」に、腹を立てる資格はないと思った。たとえ失恋の理由が不可解だとしても、告白に対するはっきりとした解答は得ているのだから、それで納得すべきである。

 また「コージ」の意見も許しがたい。「無くはないけど、続けたい関係もあるじゃないか」と言うとき、腹を立てない理由を自分の都合からのみ話しているのである。正しくは「無くはないけど、相手に怒りを向ける理由(正義)がない」と言うべきだと思う。

 つまり私にとってこうした会話のやり方は正しくないと感じた。しかし、それが演劇として正しくないかと言えばまったく別である。『絵美香』の作品の中の些細な場面だが、作品の良さを伝える格好の場面の一つであると思う。

 どういうことか。まずこの場面の直前、暗転によって省略された会話を読み取らなければならない。ショウの失恋は、彼にとっていささか不可解な形で行われている。彼はその顛末の不可解さ、つまり憤懣やるかたない思いをコージにありのままに話しているのだ。

 そしてコージは、そう話す彼に同情の言葉をかけている。「また友達で」の発言は、同情しながら関係の修復をはかろうとする配慮である。その配慮をはねつけて「腹とか立ったりしないんですか」と言い返すとき、ショウは暗転中の感情(怒り)に戻っているのである。

 つまりこの台詞が語られる場面は、それ以前からの場面の連続と見ることができる。演劇自身が意外と見落としがちだが、演劇において登場人物は場面転換ごとの合間にしか生きていない。それを生きさせようとする周到なアイディアが、些細な台詞にめぐらされている。

 その上で重要なことは、「タマキ」も含めた彼らのグループがどういう集まりかが不明なことである。

 私が『台詞づくり』の回で述べた「対話者たちが自明としていることに言及しない」ルールは、洗練されたシナリオの技術である。それが観客に知らされないことで、たまたま出会った人間の一場面を覗き見するような生々しさを感じることができる。

 そして観客は設定から事物を判断せず、そこで演じられている場面の些細な台詞の心の動きに注目することができる。その台詞を感受すれば、以上のようなリアリティがある。『絵美香』の序盤はこのような高度な技術によって物語られている。

 ちなみに、この設定を不明にするルールの技術は、意外にも不条理劇の手法に近いことを指摘しておこう。そしてそれを「エミカ」が登場する場面の解釈の足がかりとしたい。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林一本目篇