2005年08月11日

星屋心一の『東京青松の道/客席から』
 その17 「余談3・TVを見るエミカ」

 ――エミカ:「意識してるってどういうこと!? 大声出すわよっ。」
   ショウ:「違うでしょ。どこで覚えたの、そんなの。」

 引用のエミカは「女のコ不信をあおる女」というジョークを演じている。「どこで覚えた」のかは推測可能である。『絵美香』の物語全編を通じて、エミカは部屋の一歩も外に出ることはなかった。だからショウの知らない知識を「覚えた」のであれば、それはTVあるいはラジオなどのメディアでしかない。

 別の場面で映画『JAWS』を二人で見る場面があることから、エミカがブラウン管で「女のコ不信をあおる女」の情報を得た可能性が高い(バラエティ番組だろう)。ここで明らかになることは、エミカが一人でTVを見ていたという事実である。ショウが外出の間、彼女はそのように一人の時間を過ごしていたのだ。

 恋人の不在に、人の心は何を抱くだろうか。寂しさや、相手が帰らないかもしれない不安。あるいはそれを跳ね除けて恋人を笑顔で迎えようとする意志だろうか。そのどれでもあると言えるだろう。しかし、心は心としてあれ、人間は退屈な時間の進行の中で、必ず愛とは別の行動をしている瞬間がある。

 エミカが一人でTVを見る行為は、この「愛とは別の行動」だと言える。愛して待つ瞬間に、バラエティ番組を見ていること。ラブストーリーにおいて、一見怠惰にも映る瞬間だが、私はこのエミカを愛する。夢から現れたエミカは、ここで退屈な時間の積み重ねを生きる私たちと同じ存在なのだ。

 ちなみに、「女のコ不信をあおる女」のジョークをくれぐれも「演劇的ギャグ」と捉えてはならない。文脈を跳び越えて直接観客に向かう表現を、青松は採用していないのだ。以上のように、一つの場面、一つの行動の「理由」が、作品世界に即して厳密に求められるものであると私は確信している。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林一本目篇