2006年11月15日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (1)田中博司とは誰か・2

『あなたへ』という物語が始まろうとする暗転の中、私は携帯電話をかちゃかちゃともてあそぶ音を聞いた。これは田中博司の行為である。舞台から伝わるこの音は、端的に居心地悪い響きを持っていた。新しい物語の開始が、客席と同質の日常的すぎる行為に浸されているのだから。

 日常に浸されているのは物語だけではない。田中博司の心は、日常的な行為に染められている。先に述べた通りに、彼は知人に無視されるという異常事態に直面して、なおも携帯電話をもてあそぶ行為に及んでいる。

 同様のことが、彼と寺崎守との対話の中で、滑稽な印象を伴って明らかになる。「公衆電話って、気持ち悪くありませんか?」「携帯で通話した後、画面にほら、脂がつくでしょう。」「自分のでもげっそりするのに、人のがついていると思うと……。」

 この、田中博司が語る神経質な感想は「いまだ自身の死を自覚しないもの」の場違いな発言となる。ここには同時に、平凡さをめぐるグロテスクな事態が物語られている。ここで気持ちが悪いのは、電話機に付着する「脂」ではない。人の心に頑迷に付着している日常的習慣がグロテスクなのである。

 日常的習慣に侵食された心は軽い。この冒頭では、田中博司自身の心が欲した固有の何ものかが見失われている。この田中博司とは、魂を軽さにからめとられている幽霊なのである。彼が存在を軽さにからめとられながら携帯電話をもてあそぶ時、彼の置かれた不条理な状況への困惑も、悲しさも明確には表現されない。ただ暇をもてあます人物にさえ酷似してしまうのである。

 存在の軽さというグロテスクな事実。『あなたへ』という物語の冒頭が、分かりやすい悲劇にも喜劇にも傾かないのは、この一事によるだろう。悲劇と呼ぶには物足りなく、喜劇と呼ぶには深刻すぎる。だがしかし、この軽さこそ、日常を生きる私たちの置かれている厄介な業であることも間違いない。

 だから田中博司とは、魂が軽さにからめとられた私たち自身でもあるのだ。『あなたへ』という作品は、そうした私たち自身を描くためにこそ、携帯電話をもてあそぶ音で開始されなければならなかったと私は思う。私たちという軽さへ向け、物語は紡がれようとしている。【次を読む】
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