2006年11月22日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(2)無力の壁

 田中博司の手紙を一部引用する。


 ――私にできるのは、いや、「できる」というのはおこがましいですね。私がしたいのは、ただあなたが幸せであることを願う、そのことだけなのです。
   (十三場)


「できる」という言葉を田中博司は修正する。「できる」を「したい」に言い換えるのは、ごく自然な言い回しである。それは謙虚な意志表明となる。けれども、「願う」ことを「したい」というのはほとんど異様なフレーズである。田中博司にとっては「願う」ことさえも、分を超えた行為だと捉えているのだ。

 何故「願う」ことが分を超えているのか。その答えは、私たち自身が手紙やEメールなどで「願う」や「祈る」という言葉を書くときの心境に立てば、たやすく思い至るだろう。誰かへの言葉を書きつづる時、誰かにとっての善を望もうとするほどに、その目と手の届かない誰かに対する無力が感じられる。

 田中博司が無力にどれ程の時間立ち止まったかは不明だ。けれども彼は無力を超えて真山清美に語りかけている。「私にできる」ことよりも、「私がしたい」ことを伝えることが必要である。田中博司は、そのように自分の意志を堅持している。

 田中博司はまた、別の無力にも出会っている。通常私たちが誰かに「できる」ことよりも「したい」ことを選ぶ場合、それはいつも誰かに直接影響を与える行為が選ばれている。例えば「助けられないかもしれないが、話したい」など。このような具体的な行為の中で、より善なるものが生まれることが期待されている。

 田中博司はそうではない。彼は、目と手の届かない誰かに対して無力であるばかりか、相手の応答を得られるような具体的な行為にも無力である。田中博司は二重の無力の中にある。だからこそ田中博司は、純粋なる私たちの隣人となる。

 私たちは誰かに対して無力ではないのか。こうした問いを私たちは抱えている。それは例えば「助けられないかもしれないが、話したい」と言って知人と会った後に抱く苦さを想像してみると分かる。自分が善をなしたということが、誰かにとって善であるかは何の保障もないことを知るだろう。

 繰り返そう。田中博司がこれらの無力にどれ程の時間立ち止まったかは不明である。それでも、彼は伝えることを選んだ。つまり、彼は無力の壁を超えたのだ。単に何かをしてみせる以上に、無力を超えることに自分の意志を堅持している。

 だから、この手紙の意志は過剰である。つまり、手紙の書かれた過去の時空から既に過剰であったのだ。手紙の書かれた時空が読まれる時空と共存することで生みだされる物語を私はまだ語り出せないでいる。それは次回に譲ろう。この文章で最後に強調しなければならないのは、過剰な田中博司の姿の平凡さである。

 過去から現在にかけて一つの意志を堅持する田中博司。彼が手紙を読む姿は、誤解を恐れず言えば、全く格好良くなかった。平凡な人間がいまここにいるのだという感じだった。田中博司は、誰かを思う心などを表現していない。ただ真山清美を思う、その一事によって立っていた。その無防備さ、その裸さが、私たちに静かな感動を与える。この田中博司の姿は、平凡にして大きいのだ。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇