2006年11月29日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(4)演劇というリアル

――寺崎:ズバッといこうか。
  田中:?
  寺崎:あんた、死んだんだよ。
  田中:えっ?(一場)

『あなたへ』の物語は、公園で所在なく佇む田中博司に寺崎守が話しかけたことで開始される。寺崎は「家を出てから誰かと喋ったか」「携帯も、つながらない」と次々に田中博司の状況を言い当てていく。寺崎にとって田中博司は幽霊以外の何ものでもない。上の引用は、そうした寺崎の把握をストレートに当人に告げる場面である。

 この場面の前後には幽霊のリアリティを支える詳細な設定がある。しかし、私はそれらを略して別の事柄を扱いたい。引用の場面は、演劇のリアルの核心を示しているように思えるのだ。

 演劇は生身の俳優が演じる物語である。演劇を見る観客は、目の前にいる彼らが俳優であることを知っている。物語の開始点でそのことは明確に意識されている。しかし、それはいつしか意識の後景に退いていく。俳優を登場人物として見るからである。

 登場人物に共感することでそのリアルは生まれていく。しかし、それは単純なプロセスではない。登場人物に共感するということは、その俳優が発するメッセージを鵜呑みにすることではないのだ。ここには、登場人物の捉え方を他の登場人物によって学ぶという精妙なプロセスがある。

 引用に戻ろう。ここで寺崎守は田中博司を幽霊として捉えている。それが表現された瞬間に、観客は単なる生身の俳優が、別の視線によって見られていることを意識する。この寺崎の視線に対して観客は理解しようとし共感を与える。このとき、生身の俳優が登場人物に変化していくのである。

 リアリティを支える詳細な設定は、このリアルの核心を補強するディテールに過ぎない。演劇のリアルの核心には、他人の視線のリアルがある。田中博司が幽霊であるのは、寺崎が彼をそのように見ているからである。つまり演劇のリアルの中では、(自分の)見えないものを見ることができるのだ。この精妙なプロセスは、幽霊というものの存在のありようと驚くほど近いのである。

(注釈として。東京青松では演劇を「心劇」、俳優を「演者」と呼んでいる。ここには、演劇や俳優が観客に直接表現を行う「物語を殺すストレートさ」というニュアンスをその語から除きたいという意図があるように思う。しかし私は一般論として演劇のリアルを扱おうとするために「演劇」「俳優」という語を用いた。)【次を読む】
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