2007年07月09日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 予告「『べつの桃』を論じることは」

「演劇は伝えるのではなく、ただ見てもらえばいいのではないでしょうか。物語がそこにあり、登場人物は生きている。それだけで充分なのです。」という文章が、この『とうきょうあおまつぶ』内にある(「篠田青の『東京青松の道/東京青松から』その6「観客を信じること」」より。2010年4月6日現在読むことのできる記事である)。

『べつの桃』はまさに「それだけで充分」な作品であると思う。ただ見るだけ、物語と登場人物に触れるだけで深い満足がある。そんな作品だった。そして、そんな作品のたたずまいは本当に論じにくい。例えば流れる雲を想像しよう。その美しさを事々しく論じることはひたすら無粋に感じる。私がいま引き受けようとしているのは、その無粋な行為なのである。

 これは偽りない実感である。しかし同時に、無責任であるとも思う。こんなイノセントな表明では、『べつの桃』の固有の魅力を伝えることにはならない。どんな作品に対しても、「書くことのできない魅力がある」などと喧伝することはできるのだ。だから、私は『べつの桃』を論じる無粋を引き受けたいと思う。そう思う一方で、何を論じればいいのか思いついていない。私はまだ、雲をつかむような気持ちでいるのだ。

 本文を「予告」と題したのはそのためである。未定事項が多過ぎるため「序」さえも書けない。『べつの桃』を論じようとして、流れる雲を捉えるような徒労を私は感じる。しかし、この雲の中には、きっと『べつの桃』の、そして演劇の、ひいては生の固有の層が流れていると思う。『べつの桃』を論じることは、演劇と生の固有さを明らかにすることになる。私はその重責を自分の文章に負わせたい。【次を読む】
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