2007年07月10日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(1)微動を伝える演技空間

――一光:ただ今帰りました。
  父:うん。
  一光:いかがですか、学問は。
  父:うん。まあ、ぼちぼちだ。
  一光:そうですか。良かった。
  父:うん。
  一光:具合はどうです?
  父:うん。悪くない。(一場)
  

 生命は内部にいつも運動を抱えている。もちろん人間もそうである。人間もまた、鼓動し、脈打ち、呼吸するなどの微動をもって生きている。

 生命の微動を感じることは、喜びであるのだと思う。例えば、寝ている子供の愛しさは、無邪気な寝顔ばかりではない。わずかな表情の変化や身じろぎ、そしていつもより深く感じられる呼吸もまた、愛しさである。つまり愛するものの微動が、その愛しさを強めている。生命の微動を感じ取るということには無心な喜びがある。

 登場人物たちの微動を感じ取ること。その感覚を東京青松は演劇の単位とする。それは確かに、小劇場でなければ不可能だろう。かといって、単に小劇場であれば可能なのではない。アクションや台詞の速度を抑制することで、微動する人間が意識される余地を劇場空間に残しているのである。

 引用を見よう。『べつの桃』の冒頭にあるのは、二人の日常の会話である。ここには目をひく大きな身振りも、流暢な台詞回しもない。当たり前の二人の日常のやり取りが、当たり前のように繰り返されているだろう場面である。考えようによっては、つまらない冒頭とみなすこともできる。

 しかし、登場人物の呼吸を感じてみよう。例えば、「うん」と繰り返す父の呼吸である。私の記憶では、この三つの「うん」はほぼ同じリズムで語られていた。それは単調な演技だということを意味しない。父が深くくつろいでいることが感じ取れるのだ。つまり、気の置けない相手の言葉に、ただ応えるというくつろぎが感じられる。そして、その感覚は「うん」という台詞の中にある微動によって強まるのである。

「うん」という直前に、父はわずかに無声の呼吸の多く持つ。これは、父を演じた俳優のくせであり、父のくせである。何か言う前に含まれる呼吸の微動があること。多くの演劇はそれを消すべきノイズと扱うだろう。しかし、東京青松の演劇は、その微動の中に父という人間の生命を伝えているのである。ひょっとしたら、一光は父の微動を受け取るために、ささいな質問を繰り返していたのかもしれない。

『べつの桃』は、自然な微動が許され、そして、その微動を自然に受け取る日常空間から開始されている。微動が伝わる空間は親密な空間である。要するに、この空間が作品冒頭の必然であることが確認できる。微動を伝える演技空間を作品の必然として構想していること。ここに、東京青松の演劇の破格さがあるだろう。【次を読む】
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