2007年07月12日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(3)無微動の心身という空間

――父:……一光。わしはお前を育てた。
  一光:ええ、もちろんです。感謝しております。
  父:育てたが、それだけだ。育てただけなのだ。
  一光:えっ?
  父:お前は、わしの妻から生まれたのではない。
  一光:!
  父:そもそもわしは、所帯をもったことがないのだ。(一場)


 ところで、微動=身体の揺れを切る方法は二種類あると形容できる。

 一つは、自己の身体に集中することである。その集中によって演劇は、バレエなどのスポーツ的な身体を舞台に乗せることができる。多くの演劇は「微動だにしない」というクリアな緊張を表現の単位とする。

 もう少し書こう。それなりに力を込めれば身体の微動は押さえることができる。それは同時に不自然である。俳優は力を込めた状態から、絶妙な加減でそれを抜く。力を込めて抜く身体。これが演劇のスタンダードな身体である。英米圏の俳優がより、この身体をスタンダードとしている印象を私は持つ。

 そして、もう一つの微動を切る方法がこの文章の主題である。それは、個以外の何かに集中することだ。心が純粋に他を意識するとき、身体の微動も消える。具体例を挙げよう。手を前に出して止めるとき、私たちは身体を意識してその微動を止めることもできる。その一方で、誰かと握手するために純粋に行為するときも微動は止まるのである。

 もっとも、この微動が止まるのはその行為が自然だと感じる限りである。握手の習慣になじまない人間は他人を意識しても、身体に集中する方法でしか微動を切ることはできない。自然と感じる行為を他に働きかける集中において、身体の微動は切ることができる。

 実は一光の身体はほぼ無微動である。微動が伝わる空間の中でこの無微動の意味はより強まるだろう。私たちは一光に何かを感じる。というのも、微動の日常と異なる身体を彼が生きているからである。無微動もまた、個を印象づける衣装となるのだ。

 だから私たちは一光の心身へと集中する。さまざまな葛藤を抱えながら、神経を澄ます彼の心を想像する。このとき、私たちは一光の無微動が他への集中によって生まれていると知っている。見分けるほど明確な区別ではないかもしれない。ただ同じように身体を持つ私たちが、身体が何によって働くかという印象を察知するのである。

 一光は父とその言葉への集中において無微動である。そのことは、彼が心も体も父に向かっている事実を示す。もし、一光が自分に集中していると感じれば、それは事実でなく「事実の表現」に変質するだろう。『べつの桃』を観たものは知るだろう。この一光はどこまでも優しい。この引用の場面でも、その優しさが他に向かう身体のあり方によって明らかにされていたのである。

 無微動の心身という空間は、個という広がりのみを伝えるのではない。それが触れている 外の空間へ、いのちを通わせているのである。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇