2007年07月14日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(5)笑いが生む共鳴空間

――サル:うるせえんだよ、お前は! 畜生、俺は女は苦手だし、扱いも下手だがよ。あんたに寂しい思いはさせねえよ。
  キジ:なんだい、いい奴じゃないか。ねえ、いっちゃん。
  一光・イヌ:いっちゃん!(六場)


 笑いという意味の「ギャグ」という語は演劇を起源に持つ。台詞の言えないハプニングに対する苦しまぎれの回避。ここで生まれる笑いを「サルグツワ」という口封じの拘束具によって呼んだのが「ギャグ」の語源となる。現在演劇の中でギャグは小さくない意味を持つだろう。私はその意味を考えてみたい。

 前回私は演劇がフィクションに対するコンプレックスを持つ可能性について書いた。このコンプレックスの中では、フィクションこそ「サルグツワ」と感じられるのでないか。フィクションは生身の身体が何かを言うことを封じている(と捉えられている)。この劇的緊張からの一瞬の解放が、ギャグに求められている可能性がある。

 ギャグをすることで俳優は観客に直接向かう。このとき、俳優は観客と同質の人間であることが表現できる。この表現の中において、俳優は物語の拘束から一瞬解放されるのである。それだけでない。笑いは人間が共鳴する空間を生み出す。フィクションと重ならない自分に葛藤する俳優は、観客と共鳴する空間の中で、自身の立場の不安を忘却することができるのである。

 そして、ギャグを欲するのは俳優ばかりではないかもしれない。観客もまた目の前の俳優が登場人物であるという緊張を感じ続けている。ギャグはこの緊張からの一瞬の解放ともなる。このように俳優の不安と観客の緊張をガス抜きする手段として、演劇の中のギャグは小さくない意味を担っていると考えられる。この可能性に対する私の正直な印象を書こう。そんな都合を感じるギャグは笑えない。

 あるときの演劇の笑いは、観客の共鳴をはね返す空間の力が求められる。また、あるときの演劇の笑いは、俳優とではなく登場人物と観客が共鳴する不可思議を生み出す。引用について登場人物や状況を説明する余裕がない。ただ、ここに含まれる笑いが後者であることを指摘しよう(「いっちゃん」とは一光のことである)。「キジ」の言葉にうちとけて笑うとき、客席の私たちは、不意に自分が物語空間の中にいる驚異を知るのである。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇