2007年07月15日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で(6)フィクションが与える世界という空間

――キジ:噂だからね。話は続くよ。桃から生まれて、桃太郎と名付けられたその赤ん坊。今じゃすっかり大きくなって、近所でも評判の力自慢。それを生かして、人々を困らせている鬼たちを退治しに行くことにした。
  (略)
  キジ:さらに、桃太郎と犬と猿は進みます。と、今度は雉がやってきました。
  サル:雉もかよ!
  イヌ:そんな馬鹿な。(七場)


『べつの桃』の登場人物は、ここで「桃太郎の物語」と遭遇する。この瞬間に、私たち観客に意識される空間のありようを記述してみたいと思う。

 観客は『べつの桃』と桃太郎の関連を冒頭から示唆される。その示唆の中で『べつの桃』を「桃太郎と関連する話だろう」と捉える。そんな風に私たちは作品を批評する。批評する意識によって、私たちは作品の外部に立っていると言える。

 しかし、「桃太郎」の物語が『べつの桃』で語られる瞬間、『べつの桃』の登場人物と「桃太郎の物語」をつなぐ謎が生まれる。この謎によって、私たちは、登場人物と同じように謎の渦中に置かれる。私たちは謎によって物語の内部に入り込むと言えるだろう。

 とはいえ『べつの桃』と「桃太郎の物語」をつなぐ謎を解けるのは私たちである。なぜなら「桃太郎」は私たちにとって馴染みの物語であるからだ。そう考えると、私たちは「桃太郎」と『べつの桃』の外部に立ち、両者を観察する立場にある。

 私たちは物語の内部と外部のどちらに立つのだろうか。ここに認識の混乱がある。この混乱にもう一つの変数を加えよう。私たちが批評する外部に立つのは、「桃太郎のからくり」という物語の意匠に深く移入することでそうなのである。物語の外部により強く立つことが、物語の内部に入り込むことで実現するという奇妙な割り切れなさがある。

 この空間の割り切れなさがフィクションの生命である。フィクションに移入する私たちは、内部と外部を同時に生きる。割り切れない内部と外部に自分がいると体感することで、両者の融合点を垣間見る。実は、この融合点は世界という体感をともなって感じられるのである。

 現実世界で外部は峻別されなければならない。なぜなら、外部を未知としない認識は世界を貧しくするからだ。私たちは世界を局所で捉えることが義務づけられる。しかし、フィクションの感覚の中で、私たちはそのポジションを変える。イメージを超えた体感でもって、内部と外部の融合点としての世界に立っているのだ。

 このような意味で、フィクションに向かう私たちは「世界という空間」を獲得する。私たちが「世界」をまとまりとして認識するのは、フィクションという仮構においてである。くれぐれも、この仮構をただの「つくりごと」と捉えてはならない。私はここまでフィクションを支える良質な演劇の技術について語った。『べつの桃』の引用の瞬間に、世界は微動の通う空間の総和として体感されるのである。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇