2007年07月17日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(1)無防備で無傷な時間

――一光:ただ今帰りました。
  父:うん。
  一光:いかがですか、学問は。
  父:うん。まあ、ぼちぼちだ。
  一光:そうですか。良かった。
  父:うん。
  一光:具合はどうです?
  父:うん。悪くない。(一場)


『べつの桃』の冒頭である。もし、この部分がラスト・シーンだとしたらどう読めるだろうか。濃やかな愛が通うこの時間が、フィクションの最後を飾ってはいけない理由はどこにもない。これも一つの人生のゴールでさえあるだろう。これもまた「悪くない」と思う。

 しかし、引用はあくまで冒頭である。フィクションというものは、例えばゴールでありえたかもしれない一つの瞬間を構成し「冒頭」を生み出す。これが冒頭であるために、私たちは愛の時間がどう変化していくかということを意識させられることになる。

 フィクションは時間を構成する。この構成された時間の中で、物語内の時間の意味は変容させられる。その力を無化することは不可能である。そして、変容を義務づけられた時間であるという意味で、フィクションの冒頭の時間はいつも「か弱さ」をたたえている。

 冒頭にある「か弱さ」は、他のはじまりがありえたかもしれないという意識から生まれるものではない。もちろん、その意識は他の多くの作品と比較させる。しかし、私たちの意識に先立って、フィクションはそれ固有の時間をつむいでいるのである。

 そして、この「か弱さ」は作品の「弱み」ではない。創り手は時に冒頭にインパクトや謎を備えさせその「弱み」を消そうとする。しかし、どんなにインパクトや謎を備えようと、フィクションの冒頭には本質的な「か弱さ」がある。

 引用に戻ろう。一光が父に愛情を注ぎ、父が心からくつろいでそれを受け取るこの時間には、変化に対する意識はない。変化の運命というものを、彼らは全く意識しない。もし、どちらかに不幸があれば、それが致命的に互いを傷つけるような親密さで日常が送られている。

 つまり、彼らはフィクションが構成する時間の意味に対して、そして冒頭がたたえる「か弱さ」に対して無防備である。だからこそこうも言える。その無防備のために彼らは強い。すぐ訪れるだろう未知の変化に対して、いまを不足させようとはしないからである。

 互いを思ういまという時間を生きること。それがあえなく変化するとしても、彼らがいまを永続するものとして感じた事実はフィクションに残る。『べつの桃』の冒頭は、フィクションの構成に対して無防備な、だが生きるものの無傷な時間を伝えている。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇