2007年07月30日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること 章末 世界を再建すること

――一光:さあ、ここだ。
  心太:……信じられませんね。
  一光:うん。
  心太:何かを見つけられたんでしょうか。
  一光:見つけたというよりも、なんだか、私自身がみんなに見つけてもらったような気がするよ。(十七場)


 彼らは帰途についている。照助とお風はすでに彼らが出会った場所で別れた。そしていま、一光は心太と別れようとしている。別れに際して、彼らがどんな話し合いをしたかは分からない。一光が別れることを主張したのは想像できる。彼は別れによって、これ以上仲間のいのちを軽んじることがないようにする。そしていま、彼らのなした「世界の更新」は思い出のように振り返られる。

 私も振り返ろう。「微動する空間」「心の起点の時間」「世界の更新」の三つキーワードによって私は『べつの桃』を論じた。これらは全て向かいあう人間たちに起きる現実的な経験である。「微動する空間」で他人を慈しむリアルがある。そのリアルが他者と生きる「心の起点の時間」に人を立たせる。「心の起点の時間」に基づく他人への行為が、自分に返る可能性を生きることで「世界の更新」は完了する。

 少なくとも、『べつの桃』の登場人物たちがこのようないのちを開いていたのは間違いない。だがいま彼らは、世界の更新を思い出のように振り返るばかりだ。心たちが実現した世界は、それぞれの心に帰ってそこを終のすみかとするようだ。結局、世界の更新は心の描いた理想でしかなかったのだろうか。それは現実に無力な理想でしかなかったのか。

 そうではないと『べつの桃』の登場人物が教えていた。彼らは「大いなる時間」の与える現実の危機の一つ一つを乗り越えていたのである。彼らは互いに向かいあうことで貴重ないのちをつむいでいたのだ。もちろん、一光がその世界を致命的に傷つけたのも事実だ。だが、その事実は彼らの危機として捉え直すこともできる。それが危機ならば乗り越えるための運動が始められるのである。

 つまり、失われた世界は再建できる。もし、一光にその意志がないならば、他の仲間がそれを始めればいい。一光は自分を「みんなに見つけてもらった」と言う。しかし、一光は何度でも「みんなに見つけてもらう」ことができるはずだ。更新された世界に対する等身大の信によって、仲間たちが一光の心を打つための行動を開始することができるならば。

 これは可能性の話である。彼らが世界を再建する保障はどこにもない。例えば仲間が心で向き合おうとしても、一光が応えないこともある。世界だと思えたものはすでに孤独な心に帰ってしまった。愛するものとの心の断絶を体験するかもしれない。ここに最大の恐怖がある。このとき、人は心に収めておけばうやむやにできた世界の喪失を生きなければならない。

 だから世界を再建する行為は賭けとなる。これは他の賭けと異なり自らの勝利のために行われない。愛するもののために。世界のために。愛の中で拓いた世界への等身大の信に従って、使命と感じるものを全うする。これが人間の冒険である。この冒険の中で人間が実現できることがあるだろう。それは、無数の空間の一つと、「大いなる時間」に対する一瞬とを、単一の太い意味によって生きることである。

 引用は略す。心太、照助、お風は、このように賭けたのである。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林四本目篇