2005年07月23日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 目次

 東京青松を支える篠田 青のコンセプト。ここではその一部、演劇づくりに関する理論が展開されます。「演劇」と聞いて想像するものを遥かに凌駕する、スケールの大きさと緻密さをご堪能ください(文中の団体名やメンバー等の表記については、当時のまま掲載してあります。また、記事ごとの日付は便宜上のものであり、実際に書かれた日時とは異なります)。

植林一本目パンフレット序文 「ようこそ、小劇場へ!」
プロローグ 「連載開始にあたって」
その1 「演劇について」
その2 「映画と演劇」
その3 「解放の始まり」
その4 「物語とその形」
その5 「受け手の愛着と想像」
その6 「観客を信じること」
その7 「脚本家の仕事」
その8 「厄介な人種」
最終回 「新しい演劇」
エピローグ 「あとがき」
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2005年07月22日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 エピローグ 「あとがき」

 俳句や「わび・さび」など、「引き算の美学」を楽しめるのが日本人であり、その繊細さは間違いなく世界に誇れることです。しかし今の世の中には、足し算の無駄ばかりが目に付きます(「大盛り礼賛」とでもいいましょうか)。僕がこの連載で取り上げてきた「表現欲」も、この足し算志向の産物だといえるでしょう。

 これでもかと押してくる足し算の文化は、受け手である僕たちの思考を停止させ、コミュニケーションを閉塞に追いやるものだと考えます。どんどん便利になっていく世の中にも、そうした危険が潜んでいるような気がしてならないのです。映画やTV、漫画にゲームにインターネット。各地の人が手軽に共有できる「絵付きの物語」が増えていく中で、演劇ができることとは何なのでしょう。

 情報化社会によって、娯楽も多様化してきました。細分化の名の下に、空威張りの個性で武装するような生き方が増えています。「少数派=個性的」という勘違いでは、平均化を加速させることにも気づかぬまま。演劇も同じです。自身がそうした狭さに飲み込まれているとは考えもせず、表現欲の生産に躍起になるばかり。これが現状ですから、「どこまでも生で、供給範囲も狭い」という独自性を欠点と捉えてしまえば、演劇は存在意義を失ってしまいます。

 ここ数年のプロ野球の衰退は、企業の道具としての限界がきたことの表れなのでしょう。旧式の球団は弱体化し、地域密着型の球団に成功の兆しが見えてきました。青松はこれに学びたいと思うのです。創り手の快感である表現欲をふるい落とし、現在の演劇ではなく、物語そのものを愛する人に。平均化する世の中に不足を感じている人に。東京で、青松でしか楽しめない豊かな時間を提供していきたい。素敵な物語なら、いずれ伝播していくでしょう。そもそも物語とは、そうしたものであったはずです。

 現行の演劇を嘆きつつも、演劇を選ぶこと。この一見矛盾した行為には、多くの困難が立ちはだかります。演劇をやりたい人というのは足し算の演劇を好む人であり、そうした人に青松の目指す「引き算の美学」を説明するのは想像以上に難しいのです。出演交渉の際にも、「この脚本なら大丈夫だろう」などと思って臨んだら大間違い。役者さんの想像力も十人十色。引き算で書かれた脚本に「?」が点灯してしまう人もたくさんいます(実際、あるゲスト出演者に「『延長』のラストってああいう風になると思ってなかったんですよ〜」と本番直前に言われ、愕然としたものです)。

 また、僕はプロデューサーですが、脚本・演出・出演など、多くの仕事を兼任しています。好きでやっているとしても、これは激務です。忙しくなってくると、「分かっているだろう」が増えてきて、説明不足になってしまうのです。周りも僕の忙しさに遠慮して、曖昧な理解が山積していくという事態を招きかねません。そういうとき、じっくりと読み返せる「青松ルールブック」のようなものがあればいいなと思い、この『青松の道/青松から』を企画しました。そして、受け身のままでは見落とすかもしれない「引き算」の解き方を、客観的に書いてもらえたら。そう思って、星屋心一に『客席から』の執筆を依頼しました(あちらはまだまだ続きます!)。

 これからの青松に必要なことだとしても、植林二本目『たからもの』の脚本執筆と同時進行というのは、これまた激務でありました(書いているときはとにかく必死で、そのことにはわりと鈍感でいられましたが)。毎回原稿をチェックし、感想を伝えてくれた星屋、弟と妹の三人。ホームページを管理してくれている山根さんはじめ、緊張しながら読んでくれた青松の三人。そして、これを読んで下さったみなさん。すべての支えに感謝して。【続けて星屋心一の『東京青松の道/客席から』を読む】
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2005年07月21日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 最終回 「新しい演劇」

 TVというものは飽きられやすく、作り手たちも常に新しいものを探しています。いわゆるトレンディードラマに限界が見えてきたとき、脚本ではなく、演技や演出(カメラワークを含む)の変革が試みられました。回転の早いTV業界において、単純に手っ取り早い方法だったからです。そしてTVは、演劇を利用しました。映像に比べてはるかに狭く、それゆえ表現欲が野放しになっていた演劇は実に「斬新」でした。演劇人たちの過剰な表情や動作を許し、さらにアップを多用するというえげつなさは、映像による物語を粗悪なものにしてしまいました。

 付け焼刃の新手法はすぐに飽きられてしまい、そのようなTVドラマも数を減らしつつあります。しかし、演劇人という歪んだブランドは定着しました。落ち着きを取り戻したカメラワークに隠れて、表現欲は今日もTVに溢れています。演劇を志す人の目にそれが成功例と映ることが、何よりも哀しいのです。

 演劇とは、もっと豊かで素晴らしいものです。色々なことが画面の中に収まってしまう現代において、「どこまでも生である物語」は重要な役割を持つと信じています。だからこそ僕は、演劇の再構築の必要性と方法論を述べてきました。プロデューサーのみならず、脚本家、演出家、役者、そして何よりも観客として、多角的に取り組んだつもりです。

 このような理念に基づいて創られる青松の演劇は、演劇人の目には受け入れ難いものに映るでしょう。発声がなっていない、表現がなっていない、舞台の使い方がなっていない、と。しかし、劇場に来た観客が体験する青松の演劇は、オーソドックスでありながら、新しいものなのです。想像力を要求される、観客参加型の演劇。当然、観劇には集中力が必要ですから、上演時間も長くはありません。観客と役者が物語を共有する濃密な時間こそ、青松の目指すものです。観客の「観劇力」で物語は密度を上げ、小劇場を満たしていくでしょう。

 さて。想像力をお持ちのみなさんは、もうお気づきですね。青松の成長は、みなさんの観劇力と共にあるのです。その過程を見守り、共に歩んで下さることを、青松から、改めてお願い申し上げます。【次を読む】
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2005年07月20日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その8 「厄介な人種」

 脚本家がきちんとした脚本を書けば、あとは演出家と役者の仕事ということになります。演出は客席から物語を整える(チェックする)、役者は舞台上で物語の一部になる。両者に要求されるのは、それ以外をやらないということです。個々人の表現欲を封じ、物語に従事する。そのためには脚本を正しく理解することが重要ですが、どんなに丁寧に書かれた脚本でも伝達ロスは発生してしまいます。誤った解釈を避けるためにも、せめて脚本と演出は(可能な限り)同一人物が担当するべきでしょう。

 演出や役者という仕事は無形であり、そのことが演劇を表現欲の温床にしています。そもそも人は、分かりやすい努力をしないと不安になるものです。一般的な劇団の稽古がやけに規律正しく、むやみに厳しいのもそこに起因しているのではないでしょうか。集団にけじめは必要ですが、彼らの基礎訓練(特に身体訓練)の多くが、役者や演出、そして劇団主宰の安心のためにあるのは間違いありません。もちろん、彼らの演劇は観客の想像力を想定していませんから、前提の違いはあります。演出は「観客に伝わるような」表現を役者に求め、役者もまたその表現を追い求める。それが基本になっています。が、その基本が「舞台で何かを表現する(した)」という安心につながっているのも事実でしょう。

 厄介なのは、役者のほとんどが「人前で何かをしたい人たち」であるということです。観客の前で行われる演劇が物語から遠ざかってしまうのも、無理からぬことといえるかもしれません。ですが、それを許した演劇は役者を甘やかしすぎました。観客からは役者が見えますし、役者を見るのが演劇です。しかし、役者には観客が見えてはなりません。観客を意識しないのではなく、観客などいない状態に身を置くのです。見えるはずの観客を見ず、見えないはずの背景を舞台上に見て、暗転の間に時間や場所を飛び越える。役者が信じたものならば、観客も信じることができるでしょう。過剰な表現を生み出し、物語を歪曲する「創造力」は必要ありません。自らが物語を生きるための想像力こそ、役者には必要なのです。

 下手な役者の代表的な条件に「棒読み」がありますね。なぜ棒読みになってしまうかというと、いつものおしゃべりから離れて、わざわざ何かを言おうとするからです。過剰な表情や身振り、ごてごてした台詞まわしなどで何かを表現しようとするのは、棒読みに等しい行為です。特に一般的な演劇は内面を表現することを好みますが、それはわざわざ表現するものではなく、ただそこにあるものです。登場人物としてその場にスッといられる。物語に必要なのはそういう役者、そういう感覚です。演技や台詞に上手いも下手もありません。あるのは、役者かそうでないかの違いだけ。これは役者にとって「分かりやすい努力」をすることよりも、はるかに厳しい現実なのです。

 身体訓練などをすれば、「演劇とはわざわざ体を使うものだ」と勘違いしてしまいます。発声練習に囚われれば、「台詞とは普段と異なる発声法でわざわざ言うものだ」と勘違いしてしまいます。真の基礎訓練とは、日常と自分の揺れを知ることです。感情の動きなどという大雑把なものではなく、ごくごく微細な揺れ。普通であれば見逃す、あるいは忘れてしまうような小さな心の波を、しっかりと受け止める。考え事をしているときの自分の仕草に気づく。そういう積み重ねがなければ、物語という異世界の中で普段と同じように呼吸することはできません。

 自分自身を学ぶということが、結果として役者の個性を育てることにもなります。個性的な役者たちが登場人物に出会ったとき、脚本家が演出を兼ねることも生きてくるでしょう。役者に合う台詞・合わない台詞というのが出てきて、登場人物が変革を迫られても、すぐに対応できるのです。演劇がこのようなシステムを獲得できれば、役者が変わるたびに物語は生まれ変わり、再演の意義もより深まるという訳です。【次を読む】
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2005年07月19日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その7 「脚本家の仕事」

 演劇を見に行くというのは、非日常を楽しむことだと思います。僕が観客であれば、お金を払ってまで日常を見たいとは思いません。宝くじを買って三億円が当たるまでの「話」より、犬に促されるまま掘ってみたらお宝がざくざく出てきたという「お話」を見たいのです。僕には、幼い頃から数々の物語に囲まれて育ったという実感があります。良質な物語に触れたときの、心が丸くなるような感覚。あの優しさは人の世に必要なものです。それを知る者の演劇は、自然と物語(=フィクション)を目指すでしょう。

 フィクションを楽しみたいからといって、全編にわたって嘘をやられれば観客はうんざりしてしまいます。想像力を信じるというのは、観客に寄りかかることではありません。物語世界にすんなり入ってもらい、上演中だけ嘘を信じてもらう。そのために、演劇も表現欲を取り去る必要があるのです。

 ほとんどの演劇は、脚本家が脚本を書くところから始まります。まず、登場人物の台詞は「口語に近いもの」、または「物語世界における口語として違和感のないもの」であることが重要でしょう。極端にいえば、現代劇で「いやはや、こいつはたまげたわい」、時代劇で「マジかよ、超びっくりしたんですけど」という台詞は避けるということです。脚本家はそれだけ台詞に気を遣わなければなりません。ただし、口語にとらわれすぎるのも考えものです。現代の口語の語彙(ボキャブラリー)の貧困さはご存知の通りで、正直に書きすぎると物語全体が平板になってしまう危険性があります。また、時代劇の口語に至っては正確なところが分からないのですから、それらしく聞こえればそれでいいということになるでしょう。あくまでも違和感のない台詞であることが大切なのです。

 脚本家はさらに、登場人物の行動にも気を配らなければなりません。登場人物が突飛な行動をとり続けると、観客の心は離れてしまいます。困った事態に直面したときに頭をかきむしりながら「困った困った、どうしよう、どうしよう」とわめき、グルグルと走り回るような描写には、そうそう耐えられるものではありません。以前述べた「演説めいた長台詞」なども、これに似た違和感なのです。クライマックスにあらぬ方向を向いて、作品のテーマを暗唱するような人はいません(少なくとも、僕はお目にかかったことがありません。そもそも、クライマックスや作品って何でしょう?)。登場人物に作品のテーマを語らせることが、いかに奇妙かが分かりますね。

 ある登場人物の台詞や行動が他の登場人物の反応を生み、その連続が物語になっていきます。反応の連続に参加してしまうから、観客は感情移入するのです。ところが、このことに気づいている脚本家は多くありません。だから、思いつきやギャグばかり並べ、最後に急に真面目なこと(テーマ)を言わせるなどという脚本が書けてしまうのです。観客をほったらかしにして、言葉にすべきでないことまで説明してくれる、この独りよがりこそが脚本家の表現欲なのです。表現欲ばかりの脚本で上演し、「笑いあり、涙あり」をうたっている劇団は無数に存在します。

 演劇の大部分は脚本によって決定されます。脚本家は物語と観客(の想像力)の関係をきちんと把握し、表現欲を捨て去らなければならないのです。【次を読む】
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2005年07月18日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その6 「観客を信じること」

 多くの演劇は、情報量の少なさを欠点と捉えているように思えます。役者をバタバタと動かしたり、やたらと言葉を並べ立てることで、刺激や情報量を増やそうとしているのではないでしょうか。

 笑わせるために無意味なギャグや動きを挿入して、「観客を楽しませるため」だと言い切る演劇は無数に存在します。そのような演劇はさらに、「観客を飽きさせないために暗転を減らし、必要な暗転でも極力短くするべきだ」と言います。観客のために場面転換を極力減らし、登場人物の出入りだけで物語を展開させる。観客のために笑える要素を多く盛り込む。……観客とは、そんなに愚かなものなのでしょうか。

 現在の演劇には、観客の想像力というものが全く想定されていません。そのような前提で作られる演劇のほとんどは、ただひたすら、押しの一手。観客に訴えることしか考えません。観客に伝えるべきテーマを念頭において書かれた脚本、観客に伝わりやすいように訓練された役者の演技。映像に慣れた僕たちが思わず目をそむけたくなるような押しの強さこそ、演劇における表現欲なのです。

 演劇の最大の特色は、情報量の少なさではありません。目の前に生身の人間がいて、物語の登場人物として存在していること。物語世界と観客とを物理的に隔てるものが何もないのです。観客である僕たちは、人間のことをよく知っています。生身の役者の言動に潜む違和感には、思った以上に敏感なのです。小劇場ともなれば、細かい仕草や表情まで見えてしまうでしょう。そのような状況では、記号化された台詞や演技など無意味です。

 演劇は伝えるのではなく、ただ見てもらえばいいのではないでしょうか。物語がそこにあり、登場人物は生きている。それだけで充分なのです。説明的な台詞などなくとも、材料を散りばめておけば観客は想像し、それぞれのやり方で物語世界を膨らませてくれます。例えば、公園での場面。観客は自分の持っている公園のイメージを使って、登場人物たちの背景を思い描いてくれるでしょう。街の場面では、よく歩く街をあてはめてくれるかもしれません。劇場から出て、その街を歩くときの気持ち!

 観客の自由は、背景を思い描くだけではありません。映像なら決められてしまう視点(カメラワーク)も、小劇場なら自由自在なのです。場面全体を見るのか、一人の登場人物を見つめるのか。顔をアップで見るのか、それとも雄弁な手元を見るか。そこに物語があれば、観客の積極性次第で演劇はどんどん広がっていきます。

 想像する自由を手に入れた観客なら、暗転も楽しめるはずです。本のページをめくるときにも似たわくわく感で、真っ暗な時間を過ごすでしょう。場面転換のための物音を聴きながら、次はどんな場面になるんだろう、物語の中ではどのくらいの時間が経つのだろうと、照明が舞台を照らすのを待つのです。そのような暗転なら、創り手は恥じる必要もありません。開き直ってのんびりとというのではいただけませんが、お話のために堂々と場面転換をすることができます。

 物語とは、お話と受け手の想像力によって創られるもの。それを信じたとき、演劇は解放されるのです。【次を読む】
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2005年07月17日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その5 「受け手の愛着と想像」

 続編が創られるということは、その作品が多くの人に愛されたということです。それなのに、なぜ続編はうまくいかないのでしょう。

 一作目には登場人物との出会いがあります。しかし、多くの続編ではそれが再会に変わります。そこに新鮮さを持ち込むために、「今作からの新キャラクター・新アイテム」が登場しますが、スポンサーを含めた制作者たちは、それだけでは不安なようです。よく目にする「今度の○○は、もっと××!」といった宣伝文句にも顕著ですが、表現を過激にしていくという結論に至る訳ですね。そうして生まれた続編は、上っ面の表現にばかりとらわれてお話がおろそかになり、駄作の烙印を押されてしまいます。

 もちろん、成功したと言われる続編もありますが、一作目も二作目もその次も、全部好きだという人ばかりではないはずです。一作目は好きだが二作目は駄目、一作目よりも二作目が好き。どちらがどうというのではありません。それが観客に与えられた自由というものです。作品への愛着のありかは、それこそ十人十色。その全てを続編に生かそうとするのは到底無理ですし、できたとしても新しい作品とは呼べないでしょう。

 こんな思いをしたことはありませんか。大好きな漫画のアニメ化が決定。楽しみにしていたのに、何だか期待外れだった。絵が違う、声が違う、テンポが違う、原作にないエピソードが勝手に付け加えられている、などなど。漫画は、コマで割られた止め絵で綴られる物語です。コマとコマ、動きと動きの隙間は読者の想像でつなぎます。音声も含めて、読者だけの世界が間違いなく存在しているということです。そのため、たとえアニメの声が原作者のイメージ通りだったとしても、人によっては違和感を覚えてしまうのでしょう。一見近いように思える漫画とアニメですが、かなり違うものだということが分かりますね。

 近年のCGの発達は、映像に劇的な変化をもたらしました。特に目立つのは映画とゲームでしょうか。しかし現在、そのどちらもが伸び悩んでいるといわれます。なぜなのでしょう。CGがもたらしたのは、「今までリアルに表現できなかったものがリアルに表現できるようになった」、つまり情報量の飛躍的な向上です。映画でいえば合成による独特のぎこちなさ、ゲームでいえば単調なグラフィックによる映像表現の限界から、それぞれ解放されたはずなのですが……。

 情報量の増加は、作者の意図の増加でもあります。情報量が増えるほど、受け手が想像できる隙間は減っていくのです。何もかも見せてくれるという物語には、「ビジュアル・ショック」とでもいうべき快感があります。しかし多くの場合、その快感は持続しません。一度見れば充分、ということがほとんどです。最近の映画やゲームには、映像表現を競っている部分があり、受け手の中にもそれを望んでいる部分があるのは明らかです。そうして一過性の商品ばかりが増えていき、心に残るものが少なくなっているのが現状だといえるでしょう。

 映像技術が発達すると、創り手はそれを用いて様々な表現をしたくなるものです。今度はこんな映像を見せてやろう、こんな場面が浮かぶなんて凄いだろう、という感じでしょうか。しかしそれは、(乱暴な言い方ですが)想像力をもった観客に対しておせっかいが過ぎるのです。僕はそういう創り手のおせっかいを「表現欲」と呼んでいます。

 表現欲は何も、映像作品だけに存在するものではありません。現在の演劇は表現欲にまみれていて、それが僕に違和感を抱かせるのです。【次を読む】
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2005年07月16日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その4 「物語とその形」

 お話と想像力のバランスについて考えてみましょう。

 最初の物語はおそらく、声によるものだったと思われます。怪談や落語、お母さんが寝る前にしてくれるお話のような感じですね。懐かしい昔話のカセットテープや、ドラマCDというのもこのジャンルといって差し支えないでしょう。声による物語を楽しむには、かなりの想像力が必要になります。しかしそれは、受け手に目を閉じる自由が保障されているということでもあるのです。

 絵や文字が関わってくると、その自由はかなり狭くなります。その代わり、作者はより正確にイメージを伝えることができ、受け手も作者のイメージに近づくことができます。絵本や小説の場合、物語を形づくる文章はきっちり決まっており、例え読み聞かせや朗読という形をとっても、声による独創性の介入は限定される訳です。

 位置づけが難しいのは紙芝居ですが、現在淘汰されてしまった感があります。これは物語が多様化していく中で、過渡期にあったものなのではないでしょうか。主に、絵と声の独創性の二つが物語を支えている紙芝居。世の中に印刷物が広く出回るようになり、「ブランド」・「公式」としての作者が確立されていくにしたがって、出どころ(文章)の不透明さが「うさんくさい」という印象を与えざるを得なかったように思われます。結局、受け手は紙か芝居かを選んだということかもしれません。

 その紙芝居にとって代わったのは、おそらく漫画です。紙芝居では声が担当していた演出を、吹き出しや効果線、擬音語等の多用によって表現。読者は止まっているはずの絵に動きを感じるまでになります。ここまでくると、受け手に与えられる視覚的な情報量はかなりのものです。ジャンルにもよりますが、台詞のみならず説明文も読ませることができ、背景も描ける漫画は、演劇以上の情報量を持っているといっても良いのではないでしょうか。【次を読む】
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2005年07月15日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その3 「解放の始まり」

 小説を原作にした映画を演劇化する。つまり、小説と映画の両方を原作にして脚本を書くことになります。

 最初の作業は(かなり大雑把な説明ですが)、まず二つの原作から台詞を抜き出すこと。ここですでに、演劇がいかに特殊なものかが分かります。小説なら文章、映画なら風景の映像から始めることもできますが、演劇は役者を出さないまま始めるのが困難なのです。もっといえば、台詞(ナレーション含む)で始めるのがまず当たり前。

 以前述べたように、演劇には映画のような情報量は組み込めません。小説のように、説明で背景や事象を構築していくこともできません。登場人物のやりとりだけで物語を進行させなければならず、それは大変な制約として演劇化の前に立ちはだかるのです。

 ところがどうでしょう。抜き出した台詞を並べてみると、それはすでに物語になっています。もちろんそのまま演劇にできるというような形ではありませんが、登場人物たちは確かに生きているのです。台詞の後ろに生活があり、愛情がある。このことに気づいたとき、僕の演劇の解放が始まりました。

 物語は登場人物の感情や行動によって創られるものであり、背景や小道具は情報にすぎません。それらの情報は心理のきっかけや条件にはなりますが、受け手が興味をもつのはあくまでも登場人物の反応であるはずです。

 例えば、『桃太郎』。きびだんごや犬・猿・キジの色や大きさのイメージには、かなりの個人差があるはずです。鬼ヶ島の地理的・地質学的な情報や鬼の生息数などもそうですね。

 桃太郎に限らず、語り継がれてきた物語はシンプルで、想像できる隙間がたくさんあります。注目していただきたいのが「語り継がれる」という点で、物語には必ずしも挿絵が必要でないことが明らかにされています。生き生きとした語り口も、情報というより「受け手の想像力を喚起するための技術」と捉えるのが正しいように思えます。

 物語に必要なものは、お話と想像力である。このことは、本当は誰もが知っているのではないでしょうか。それを思い出しながら、現代の物語のあり方について考えていきます。【次を読む】
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2005年07月14日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その2 「映画と演劇」

 映画を演劇にするという作業を何度かやったことがあります。その経験が僕の演劇観の礎となり、青松の独自性にもつながっています。

 編集によって完成する映像作品と比べると、演劇には多くの制約があります。最大のものは、「大がかりで複雑な背景を用いて、何度も場面転換をすることは困難である」ということでしょう。実際、映画を演劇化するときに苦労したのもこの点でした。

 映像作品の長所にはもう一つ、圧倒的な情報量があります。舞台背景となる場所(空間)から、細かい小道具に至るまで、画面には実に様々なものが映し出されるのです。そして更に、物語の展開に合わせて顔や手元をアップで撮ったり、空から街全体を撮ったりと、観客の目を適切に誘ってくれます。

 倫理上の問題を除けば、映像表現にはもはや制限がありません。ですから、演劇化に向かない映像作品もたくさんあります。僕が演劇化を試みた作品には、いずれも原作としての小説が存在しました。つまり、映像表現を前提としていない物語であるということ。これが、演劇を自由なものだと考える大きなきっかけになったのです。【次を読む】
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2005年07月13日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 その1 「演劇について」

 小劇場にこだわる理由や青松の方向性について、もう少し詳しく述べてみようと思います。

 大きな劇場での演劇だと、遠くの席からも分かる声や動きが必要だというのは分かります。が、現在の一般的な演劇は、劇場の大小を問わず、騒がしいものが多いように感じられるのです。役者が「舞台狭しと」走り回り、わめき、叫び、台詞をゴテゴテと飾りたてる。そもそも、台詞のつくりがゴテゴテしている。観客に直接向けられるような台詞は、テーマやメッセージのためにあるからでしょう(人は観衆を前にすると、立派なことを言わなくてはならないと思ってしまうのかもしれません)。

 もちろん、そうしたスタイルを楽しめる人もたくさんいるのです。長台詞を息継ぎなしでわめききった役者に対し、客席から拍手が送られる。舞台上で突然挿入される、役者本人(役柄やストーリーとは無関係)に関する裏話やアドリブに笑いが起きる。そのような光景は、劇場ではよく見られます。

 しかし僕には、テーマのための演説めいた脚本や台詞が、大変押し付けがましく感じられるのです。舞台上で明かされる役者の素顔に笑いを求めるような、そんな送り手と観客の関係が、ひどくいびつに感じられるのです。その感じ方を好みの問題だというのなら、演劇はもっと自由であってもいいのではないでしょうか。【次を読む】
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2005年07月12日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 プロローグ 「連載開始にあたって」

 再掲載された挨拶文、『延長/絵美香』をご覧になった皆さんにはどのように感じられましたでしょうか。今回もまたプロローグな内容となりますが、どうかお付き合い下さい。

 たくさんの方に『延長/絵美香』の感想を書いていただけたこと、改めて御礼申し上げます。挨拶文や対談でも分かる通り、僕は現在の演劇に疑問と不満を感じています。ですから、青松は演劇を見たことがない、または演劇に馴染めない人の方を向いているのです。そうした方々からたくさんの好意的な感想をいただけたことは、大きな喜びでした。

 一方で、青松が現在の演劇を楽しめる人(=演劇人)に違和感を与えるのは当然ですし、批判的な意見のほとんどは、そういう方からのものでした。もっといえば、現在の演劇のルールに基づいた批判でしかありませんでした。僕は、演劇人を否定はしません。しかし、彼らの頭の堅さと、その堅さに基づいた思い上がりは、断固否定します。

 なぜ僕の文章が怒りを帯びているのか。演劇人からのみ聞かれた「『青松』っていうけど、『青』だけだった」という言葉がそうさせるのです。原点を団体名に刻みこむことの意味も価値も考えずに、個人を中傷すること。自らの考えが足りないとは思いもしない、その身勝手さに怒りを覚えるのです。そしてその身勝手さは、「青松を現在の演劇のルールの中でしか評価しない」という狭さとしても表れます。

 しかし、そうしたごく少数の無理解は、多くのご支持のありがたみをより強く感じさせてもくれました。これから始まる連載は、『延長/絵美香』を楽しんで下さった方や、残念ながら劇場に来られなかった方に向けて展開するものです。

 題して『青松の道』。

 青松の目指すものは何なのか、また、なぜそれを目指すのか。プロデューサーの僕が『青松から』、僕の友人で、観客代表の星屋心一が『客席から』と、異なる視点で綴っていきます。星屋心一が観客代表となった決め手は、彼がアンケート用紙に書いてくれた感想でした。友情に溢れていたからとか、好意的だったからではもちろんありません。『客席から』のプロローグとして、その感想も掲載いたします。皆さんと同じように客席に座っていた彼が、何を感じたのか。ぜひお読み下さい。【次を読む】
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2005年07月11日

篠田 青の『東京青松の道/東京青松から』
 植林一本目パンフレット序文 「ようこそ、小劇場へ!」

 本日は青松の植林一本目、『延長/絵美香』に足を運んでいただき、誠にありがとうございます。

 僕の現在を決定づけたのは、高校の教室で上演する、文化祭での演劇創りでした。教室という限られた空間に、舞台と客席があるのです。そこが物語で満たされる心地良さを、僕は学校の外にも求めました。小劇場は、観客と創り手が、お互いを肌で感じられる空間です。その濃密さは、大きな劇場はもちろん、映画やTVにも真似はできません。

 もちろん、自分が観客として小劇場に行くときも、その魅力を求めます。しかし、満たされることはないのです。僕が創り手だからではありません。電車に乗り、チケット料金を払うからには、楽しみたいと思います。それなのに、そこにあるのはスカスカした時間だけ。小劇場での時間が毎回そのようであれば、なぜなのだろうと考えます。

 足りないのは、物語でした。観客と創り手を繋ぎ、空間を満たすもの。

 気がつけば、演劇(劇場の大小を問わず)はもちろんのこと、映画にもTVドラマにも、良質な物語が少なくなっています。親と子を繋ぐ絵本でさえも、首をかしげるような新作がもてはやされているのです。このような時代では、哀しいことが起きるのも仕方ないのかもしれません。

 創り手はいつも、受け手に対する責任を負わなければならないと思います。PTAを意識しろ、ということではありません。創り手がやりたいことだけをやるという無責任さでは、スカスカした時間ばかりが増えていくのです。小劇場によくあるパターンとしては、小手先のギャグや劇団内の身内ネタ。それらの多くは役者個人が発しているもので、物語を無視したものです。それを許しているとすれば、脚本や演出もまた無責任だといえましょう。

 青松では、なるべくたくさんのお客様に満足していただきたいと思っております。快適とはいえないお席に、無駄に長くお座りいただくことはしません。あなたがお客様でいて下さるから、僕たちは上演できるのです。時間の長さで料金をいただくのではなく、濃密な時間を提供することを優先します。そしてもちろん、あなたと僕たちを繋ぐ物語を。

 この劇場で過ごす時間が、今日いらして下さったあなたにとって、素敵なものになりますように。

 ご挨拶に代えて。

 プロデューサー・篠田 青

 そして。

 僕にきっかけを与えてくれた吉松さん、支えてくれるスタッフとキャストのみんな、そして、このような生き方をさせてくれるすべての人と、目に見えない何かに、ひたすら感謝を。【次を読む】
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