2006年03月06日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その8 「倦怠という物語」

――姫:「ああ、もう。どうしてすぐにそうなの? わたしはそんなことは言ってない! それに、王子に言う必要だってないでしょう?」
  王:「だってお前……。」
  姫:「やめて! もうおしまい! 喧嘩したくないの。」(十一場)

 引用文の「そんなこと」とは、王が薦める結婚相手(王子)を拒否して、隊長と結婚する意志を示したことを指す。彼女は確かに「政治のついでの候補なんて……。そんなことなら、隊長と結婚します!」(四場)と条件節付きで言ってはいる。しかし、それは「問題をきちんと解決して、自分の選んだ人と結婚するわ」(四場)という意志の延長線上にあるものだし、実際には売り言葉に買い言葉のように「勢いで言った」言葉である。つまり姫が「わたしはそんなことは言ってない」と言うのは決して間違っていない。無理矢理結婚相手を決めるならば、隊長と結婚する、という意味なのである。だから「どうしてすぐにそうなの?」という姫の嘆きは、王の性急な思い込みによると言えるだろう。

 しかし一方で、姫も王に自分の気持ちを充分に伝えているとは言えない。四場と十一場どちらの場面でも「姫、行ってしまう」とのト書きが書き込まれている。つまり立ち去って話を打ち切ってしまうのだ。王に対して、「隊長」という名前を挙げたことの理由を伝える努力をしていれば、王の思い込みを正すこともできたかもしれない。自分の気持ちを最後まで伝えることを姫は避けてしまう。ここには、王と決定的に対立することを嫌う優しさも感じるし、自分の気持ちを自分自身に明らかにしてしまうことを恐れているような印象さえある。相手を説得することを諦めているふしもある。

 このように、引用の場面の印象を説明してみたが、一般的な親子の反目と特に異なる点は少ない。解決に向かえない対立がそこにあるという事実。この引用の場面は、家族が持つ独特の倦怠感の表現としてある。だからこの「親子喧嘩」が中心的な事件として進行する物語の中盤まで、物語は奇妙な小休止を迎えているのである。隊長・姫・王子・王・王妃・魔女・小鬼という、その名だけで数々の空想を誘う人物たちが、どんな組み合わせで物語を進行させるのか。そのことがまだ、この「親子喧嘩」の時点ではまだ不明なのだ。なすべき明確なクエストが見えずに、曖昧な対立が物語を覆っている。それを私たちは緊張して見つめざるをえない。物語が小休止を終えて、真新しさに転じる瞬間を見逃さないように。そして確かに、その物語の再開は驚くほど早かったのである。【次を読む】
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2006年03月05日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その7 「出会いという物語」

――むかしむかし、どこか遠く。
  地球によく似た星の、小さな国でのお話。
  小さな国のお姫様が、お供の隊長に言いました。
  「ねえ、たいちょう」
  「何ですか、姫」
  「ひめねえ、おおきくなったらたいちょうとけっこんする」
(「序」・序での記述はスクリーンに文字のみが投射されている)

 出会いが物語の重要な要素であることは常識である。『たからもの』の物語は一方で、この出会いのみに奉げられると言ってよい。と言っても、新たな人物との出会いばかりが頻繁に繰り返されているというのではない。相手の心が、ふいに自分の前にあらわれる、そうした出会いが前半部では繰り返されているのだ。

 引用では、隊長は「結婚」を口にする姫と出会う。子供の無邪気な恋愛ではあるが、そうした恋心を抱く姫に対して、今までの見方をわずかに変えるだろう。彼はこの引用の後に「しかし、私には婚約者がおります」と述べるように、子供を言いなだめる目的だとしても、自分の恋心を姫に明かすことになる。相手の心に触れる瞬間、人の心はやはり外にあらわれてしまうのだ。

 つまり出会いは、見知らぬものたちだけがなすものではない。真新しい出会いは、既知の誰とでも起こりうる。そのこともまた、常識に属するだろう。しかし、『たからもの』が特殊なのは、この心の出会いが相手と自分の属する世界さえ変える力を生み出すことだ。それが「地球によく似た星」の奇跡であり原理である。この記述は、いまだ謎めいた断定でしかないが、私はこの物語の世界の謎を解き明かしたいと思う。真に作品と出会うために。【次を読む】
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2006年03月04日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その6 「演技という要素」

  ――王妃:「あなたも。あなたもゆっくり。あの子には、わたしから話してみます。」
    王  :「いつ?」
    王妃:「い・ず・れ! いい? 下手に動かないのよ。」
    王  :「……。」
    王妃:「返事は?」
    王  :「……。」
    王妃:「(王の顔を両手で掴んで)ん?」
    王  :「はい。」
    王妃:「約束よ。父親らしくね。」
    王  :「ん。」
    王妃:「夫としては、そんなにひどくないんだから。」(七場より)

 人によって感じる距離感が異なることを、誰もが体験的に知るだろう。上の引用場面を見るときに、この「距離感の変化」というものがよく表れていると思う。王と王妃が娘についての相談を行っている寝室の場面で、黙ったり、そっけない返答をする王は、甘えた子どものようである。また王妃は、母親のように王をいさめている。

 ここでは、寝室という空間の中で、互いだけの親密さで会話をしている。箱椅子のみが舞台装置である『たからもの』にとって、こうした距離感の近さが空間を伝え、物語という厚みを生み出している。つまり演技が空間を生み出す力が求められている。それが本作の演技の魅力である。

 最後の台詞に注目しよう。「夫としては、そんなにひどくないんだから。」という台詞は、舞台では独り言のように聞こえた。それはこの七場で「馬鹿じゃないもん」などと口走る王がまるで馬鹿のように振る舞うことから印象づくられる。「そんなにひどくない」という台詞は、ここでは相手への親密さを伝えるものでありながら、王に完全には理解されない性質の感情が語られている。

 この台詞は、相手をいたわる愛情深さを持ちつつ――また、バカップルのようでもあるが――王には完全には届かない。「王の顔を両手で掴」む距離感の近さの中で、わずかに隔てた台詞の響きがそこにはある。人によって異なる距離感は、ある時点で抱いた感情によっても変化するのだ。王妃はここで相手を思う孤独な空間を生んでいる、と言えるだろう。

 この距離感の微細な変化の響きが青松の台詞にはある。一つ一つの台詞が、耳を傾けることで、刻々と真新しい人間関係=空間を生み出し続けていることに気づかされる。

(ちなみに、脚本の「耳」の良さがこの引用から指摘できる。「いつ」「いずれ」の頭韻は、聞いていて心地よい。そもそも台詞の韻とは、音楽がそうであるように、音の調べの良さのためにある。それを「意味」にまで喚起させない密かな頭韻こそ、そうした音の調べに観客を乗せていく。)【次を読む】
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2006年03月03日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その5 「謎という要素」

――隊長:「呪いを解いてくれって。何で思いつかなかったんだろう。」
  小鬼:「残念ですがお客様、それはお受けできません。」
  隊長:「何でだよ?」
  小鬼:「呪いを信じていないってことは、そういうものが俺のカタログに載ってないからでな。つまり、ないものは扱えないんだよ。」
  隊長:「欠陥品め。」
  小鬼:「おい!」(十場より)

 本作では、いくつかの謎が明かされないままだ。この回では、謎の解明ではなく、その効果に注目したい。上の場面の隊長と小鬼との会話は、その謎のありかを集約的に伝えてくれる。まず、物語の舞台となる国にあるという「呪い」は、「魔女」がかけたものと伝承されている。しかし、それがどのような実害をもたらすかについては、ほとんど触れられていない。それどころか、小鬼は「魔女とか呪いとか、俺は信じないけど。」(十場・引用句直前)とのたまう始末である。彼の見解では呪いや魔女さえ存在しない。

 次に小鬼の存在自体も謎である。「普通、人間には俺のことが見えない」(五場)という小鬼だが、何故か隊長には姿が見える。そして小鬼は隊長に「願いをなんでも一つだけ叶える」(五場)ことを約束している。しかし上の引用では、「ないものは扱えない」と言うことで、隊長に「欠陥品」呼ばわりされている。ここで「欠陥品」である小鬼がいかなる存在か、と疑問に感じてしまう。「願い」について明確なルールを語る小鬼が、やはりあるルールの元に生きていることを垣間見るのだから。ここでは登場していないが、「魔女」もあるルールの中で生きさせられている印象がある。

 こうして「謎」に触れていくと、この「呪い」や「小鬼」や「魔女」の存在する世界がどのようなものであるのか、そうした疑問さえ生まれる。しかし重要なことは、登場人物である彼らが(王子をのぞいて)世界の謎の解明を目指そうとはしていないということだ。彼らにとって世界はあるがままの存在であり、それをわざわざ問うような発想を持たない。つまり、彼らがそれを日常として生きているという事実が物語られている。何かを日常として受け入れるほど、手の届かぬ(届かせようと思わない)謎は生まれていく。近年の日本アニメの「謎」の提示は、登場人物の日常に描くことで、おのずと「不明」な部分が生じるという効果がある。少なくとも、『たからもの』はそれを原理として制作されている。この作品では、「謎
」の存在と世界の「日常」を物語ることは表裏一体なのだ。

 本作でいくつかの謎が明かされないこと。それは登場人物が最後まで世界を生きた証としてある。私たちにその謎の解明が伝えられないことは、本作を観たものには小事にすぎないだろう。私たちの興味は、謎をはらむ物語ではなく、いつしか謎の中で登場人物が何をなしたか、に向けられていく。それは引用の後に控える隊長と小鬼の選択で明らかである。彼らの行為が真新しい物語として私たちに届けられる。この謎めいた世界の中で「たからもの」は間違いなく存在しているのだ。【次を読む】
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2006年03月02日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その4 「パロディという要素」

  ――やがて、姫が隊長に斬りかかる。
    スローモーション。
    隊長、下から斬りかかる姫の両腕を、そのさらに下から斬り上げる。
    姫の剣は空中へ。(一場冒頭のト書きより)

『たからもの』冒頭の場面であり、いきなり問題箇所である。二人が稽古を行う「殺陣」。隊長が姫の剣を跳ね上げている。それがスローモーションで演じられている。実は舞台では、「隊長」がゆっくり動くさ中、「姫」がくるくると刀を回しながら、やはりゆっくりと後方に刀を運んでいる。つまり、剣が撥ねた瞬間、姫は空中の「剣」の動きを表現しているのだ。そして彼らの持つ「剣」はSF的な武器を彷彿とさせるものである。

 これが映画のパロディであることは見やすい(第一稿で私は『スターウォーズ』のパロディと断じたのだが、篠田青から誤りを指摘された。あるアニメがモチーフになっているそうだ。謹んで訂正する)。この場面は映画(アニメ)のアクションと映像効果を、演劇で演じ直しているのである。そのことで、小さな舞台で物が飛ぶ乱暴さを避けてもいるが、演劇・お笑いなどのギャグとしては「ベタ」として理解しうる場面である。しかし、前回の原稿にも書いたが、パロディという納得だけでは世界の必然を納得することにはならない。事実、この場面では単にギャグとは扱えない印象が作られている。

 この動作が始まる直前、エグゼクティブ・プロデューサーの篠田青による「前説(ご挨拶)」の言葉がスクリーンに投射されている。そこには、「この物語は、お客様の想像力で厚みが出るようになっております。/偶然居合わせてしまった別れ話のように、息をひそめて、耳をそばだてて、なおかつ食い入るようにご覧いただければ幸いです。」という文章がある。だから私たちは、この場面を「食い入るように」観て、想像し、「厚み」を見出すことが指定されているのだ。

 だからこの場面を見て私は動転したのである。「すわ」と心で叫んだ。文字通り、自分の想像を超えた出来事を想像することの緊張である。一見「ベタ」なギャグから、はるかに異質の「想像」を要求すること。私は姫を眺めながら「剣」が空中に浮かんで回転するさまを想像しようとした。それは私にとって、困難な作業であったことは告白しておく。しかし、前回の「衣裳」と同じく青松には既成の要素に新たな意味を吹き込む結合の意志があること。そして、植林一本目において徹底したリアリズムの演技手法を用いた青松が、リアリズムという枠に縛られない発想を持つことは確認できるだろう。【次を読む】
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2006年03月01日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その3 「衣裳という要素」

『たからもの』の登場人物の名前は、昔話やファンタジーのそれである。しかし、舞台に現れた彼らの衣裳は意外である。チグハグな印象さえ抱くかもしれない。彼らがどんな服装をしていたか。それを具体的に見てみよう。


★隊長=水色のジャージ(長袖&膝丈)と水色のスニーカー。

★姫=白Tシャツの上に蛍光レッドのジャージ(長袖&膝丈)・オレンジのスニーカー。

★王子=スーツと革靴。途中から上着とネクタイを外し、ワイシャツの襟ボタンを外し、袖もまくっている。靴もカジュアルなものに履き替えている。

★王=青いタートルネックの上に白衣、足下は霜降りの靴下に白のサンダル。

★王妃=ピンクのナース服に同色のナースサンダル。

★魔女=黒いワンピースにカーディガン。要するに魔女っぽい格好。登場人物中、唯一の素足。

★小鬼=緑のパーカーにジーンズ、茶色のスニーカー。アースカラーを意識している。

(以上★の記述は篠田青の手によるものである。執筆と、掲載の許諾を記して感謝する。)


 王妃に注目しよう。ナース服を着た王妃は、ファンタジーのパロディのように映る。だが、パロディという納得は、王妃がナース服を着る世界の必然があるのか、という問いの解答として不十分である。まず、彼ら登場人物が、その衣裳を単に受け入れている事実を確認すべきだ。「地球によく似た星」のルールは私たちの住む地球とはやはり違うのだ。つまり、衣裳は作品世界の異質さを報せる効果を持っている。

 しかしナース服は私たちの世界の「制服」である。舞台ではもっと抽象的なファッションの選択がありうるのに、何故既成の「制服」が用いられるのか。あわてて付け加えれば、本作品には「他に衣裳が作れなかったから」という表現のゆるみはない。既成の衣裳をまとう登場人物を眺める内に、もう一つの効果が現れてくる。

「制服」の使用によって、既成のイメージを喚起しやすい。ナース服を着て落ち着いた言動をする王妃には、「人を癒す」ことを常とした人格が感受される。ここにはナースへの日常的な意識が物語を観る上での導きとなることが分かるだろう。それはラフな開業医然とした王も、ジャージを着た姫・隊長、そして王子も同様だろう(特に王子の服装の変化は、スーツへの私たちの意識から、彼がくつろいでいる事実を、すんなりと伝えることに成功している)。

 異質さを印象づけながら、同時に日常的な衣服の感覚を持つこと。『たからもの』の衣裳から感受される物語世界は、このように奇妙な二面の効果を持つ。ここにはかって見たものが、別の価値をまとって私たちの前にある。王妃もナースも私たちのイメージではお馴染みの存在である。だが、ナース服を着た王妃が演じる過程で、「王妃=ナース」は真新しいイメージの結合として出現する。

 ここには、既成の要素に新たな意味を吹き込む結合の意志がある。少なくとも演劇においては、その結合の意志を持つ者だけが新しい表現を生み出すことは間違いない。王や王妃が、私たちの知るイメージ通りの衣裳を着ていたとしたら、と考えてみよう。そのとき、彼らが現代語を話すことが違和感となるだろう。異世界を表現するに際して、それは表現のゆるみとして存在してしまう。

 既成の要素の混入は、生身の人間が演じる演劇には避けられない。だから既成の要素の結合に明確な意志を持つことだけが、確固たる物語世界を生むのである。その明確な意志について、私は衣裳に関してさえ、全てを解明してはいない。だが、『たからもの』には真新しさを志向する明確な意志が存在する。衣裳という要素から、その一端を垣間見ることができるだろう。【次を読む】
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2006年02月28日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その2 「暗転という要素」

    照明。夜。
    城のテラス。姫。
    王がやってくる。(十一場冒頭のト書き)

『たからもの』は全二十二場(シーン)の物語である。つまり、かなり多くの暗転を含んでいるということになる。以前私は、青松が暗転の中に「物語を容れている」構成を持つことを指摘した。本作には、また違った「物語」が暗転から生まれていると感じる。それは私にとって「神話」である。

 照明が当たる瞬間が演劇で最も好きだ。そこに異世界との出会いがあり、物語の始まりがある。「城のテラス」であることを示す説明的な台詞は『たからもの』にはない。だから「姫」も「王」も、ひとまず客席とは違う「ここではないどこか」に立つのだ。

 想像に思いをはせる前の、「ここではないどこか」という感触。観客はその始まりの物語と出会う。異世界を設定とし、スモークのけぶる裸の舞台に人物が浮き上がる瞬間の得難さ(そこには照明のタイミングも重要である)。「ここではないどこか」に立つ人物が目の前にいるという強さに、「神話」と呼ぶべき崇高さを感じる。

『たからもの』の全ての暗転(から照明の変化)には、この「神話」がある。その感触は、全ての演劇が本来持っているものだ。しかし演劇の進行に合わせ、「設定」に対する理解が深まるにつれて、それは減少していく。『たからもの』は「地球によく似た星」の世界設定に説明を略したことで、暗転の中にいつまでも異世界に触れる瑞々しさを保持している。常に「どこか」という真新しさを持つ物語。それが今作である。【次を読む】
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2006年02月27日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その1 「『たからもの』の文章を書くにあたって」

 植林二本目『たからもの』の文章を書くいま、はっきりと悩んでいる。この演劇をどう論じればいいのか分からない。作品が混乱しているのではない。私が面白いと感じる要素が多過ぎるのである。

 試みに、その要素を箇条書きにしてみよう。

1.感涙必至の名作と呼べる事実。(『たからもの』を観たものは「小鬼」と「隊長」の対話などを想起して欲しい。ここには物語構成の稀有なアイディアがあると思う。)

2.日常とファンタジーの融合という点。(私見によれば、この作品は現在の日本のアニメーションのトレンドと重なる部分がある。『今日からマ王!』『ノエイン』などのアニメが完結を迎える現在、日常とファンタジーの関係に新たな視点が提示されている。しかし『たからもの』こそこの問題に対して解決を与えているように見える。)

3.演技・演出の特異さ。(暗転や役者の問題を私は「植林一本目篇」でも論じた。しかし、ファンタジーというジャンルを得て、その効果は自在となった印象がある。)

4.この物語が人間の勇気と奇跡を題材としている事実。(この組み合わせはファンタジーの王道である。しかし『たからもの』の「勇気」と「奇跡」にはそうした物語の型とは異質な印象がある。これは作品の「人間」観の違いにあるだろう。この「人間」を探っていくと、物語のシンプルな外観からは想像がつかない絶望さえ見つけそうである。だが、奇跡はそこに存在する。)

 これらの難題を思考することにも困難を感じる。しかし、本当の悩みはそこではない。

5.『たからもの』の完成度が要素の分割を拒むように感じさせる点。(つまり、以上の異なる要素をまとめて論じる必要を感じる。そうした作品が優れていると思うが、ここまで異質な要素に分割点が見出だせないのは本当に困る。)

 さらに、以下の事実が『たからもの』を語る者の明白な困難となる。

6.作品世界に関わる謎が明かされていない。(作中で語られる「呪い」とは何か。「魔女」「小鬼」とは誰か。この謎の感触は象徴では片付かない精密さを感じる。この解明を避けて論じようにも、5.の完成度がそれを許さない印象がある。)

 このように、悩む理由を列挙したことで、私は文章を書く重圧を高めた気がする。どう解決するか、の目論見は皆無である。ただ私には『たからもの』を「真新しいファンタジー」として論じたい意欲があるだけだ。ここには確かに新しい価値の創造があると確信する。それに触れた返礼として、これを論じる困難はいくらでも引き受けたいと思う。そして、私の論の成功や失敗を、あなたが厳しく見届けてくれることを希望している。【次を読む】
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