2006年12月09日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 目次

 2010年1月現在、進行中の連載です。

 東京青松の植林三本目『あなたへ』について、星屋心一が解説します(また、記事ごとの日付は便宜上のものであり、実際に書かれた日時とは異なります)。

序 「『あなたへ』の作品論を書くにあたって」
一章「あなた」とは誰か? (1)田中博司とは誰か・1
一章「あなた」とは誰か? (1)田中博司とは誰か・2
一章「あなた」とは誰か? (2)真山清美とは誰か・1
一章「あなた」とは誰か? (2)真山清美とは誰か・2
一章「あなた」とは誰か? (3)木下優二とは誰か・1
一章「あなた」とは誰か? (3)木下優二とは誰か・2
一章「あなた」とは誰か? 章末「私たち」とは誰か
二章 第一部 強固な信頼とは何か(1)象られた力
二章 第一部 強固な信頼とは何か(2)無力の壁
二章 第一部 強固な信頼とは何か(3)同期する心について・1
二章 第一部 強固な信頼とは何か(3)同期する心について・2
二章 第一部 強固な信頼とは何か(4)信頼によって生まれるもの
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(1)非現実さの中のリアル
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(2)死というリアル
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(3)生の実感の中のリアル
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(4)演劇というリアル
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・1
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・2
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・3
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・4
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・5
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・6
二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・7
二章 章末 信頼の中の強固さとは
跋 「『あなたへ』の作品論を書き終えるに際して」NEW
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年12月08日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 跋 「『あなたへ』の作品論を書き終えるに際して」

 いま私が感じるのは安堵である。やっと文章を書き終えられる。私は「序」で「作品の大きさや捉え難さ」を書くと宣言した。そこから逃げることなく文章を書き進めることができ、心の底から安堵を覚えている。

 拙文を読み返して確認したことが一つある。ここには冴えた文言や独創的な見解はない。この文章の中に読むに値する部分があれば、それは『あなたへ』という作品に固有のものである。そのことは保障できると思う。

 しかしながら、拙文が作品の再現たりえたかには全く自信がない。例えば、本作の時間の進行の仕方について私は触れることができなかった。およそ一週間足らずの作品内の時間が、たんたんと進んでいく。次々と進んでいく出来事に対して、人間のできる一つ一つの行動はささやかなものである。この人間の実質が、時間の進行の仕方の中に含まれていたことを、私は全く触れることができなかった。

 このように、意識しながら触れられなかった事象はいくつかある。一方で、意図しなかったが触れられた事象もある。私がそう思うのは、東京青松の演劇以外のビジネスについてである。私たちの生の定義に対して、別の現実を提示すること。レクチャーやレッスンと様々なビジネスを開拓しようとする背景には、この芯への確信があるのだろう。企業秘密を覗いたような悪戯心をもって、そのことも書き留めておきたい。

「追求したのは芸術でも興業でもなく、ひたすら『人』」と篠田青は書く(ブログ『とうきょうあおまつぶ』「東京青松とは」より。2010年3月26日現在確認できる記事である。文章は2009年8月12日に起案されている)。そのことは、『あなたへ』という作品の時点で明確に示されている。そして、『あなたへ』の発表と前後して、「芸術」や「興業」を離れたビジネスの展開が開始されていたことを記しておく。『あなたへ』を東京青松のターニング・ポイントと呼ぶことはできると思う。

 しかし、いま私がこよないものに感じるのは、その追求の中から、新たな「芸術」や「興業」が生まれたことである。植林四本目『べつの桃』がそれだ。この作品は現時点での東京青松の最高作と評することができると思う。「植林」という語は文化的営為を意味する。「ひたすら人」でありながら、同時に「芸術」や「興業」ともなる営みの広がりようについて、私は論じることはなかった。

 論じることはなかったが、私はそれに励まされて拙文を書いたという実感がある。そして、その実感から東京青松の演劇活動を強く期待する。私の文章を書く最も大きなモチベーションは次なる演劇活動への期待であった。そのことを跋文に記して文章を終えさせていただきたい。【目次へ】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年12月07日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 章末 信頼の中の強固さとは

 私たちが不確かだと感じるものが、強固なものである。『あなたへ』という作品は、このような認識の切り換えを求めているように思う。

 この章の一部で私は『あなたへ』の作品の中に含まれる強固な信頼について述べた。強固な信頼とは、他人の心のリアルを生きるという「心の同期」である。それによって生まれるものは、解放された心の過剰であり、日常的な幸福である。

 本作で描かれていたのはクライマックスだけではない。心の同期を準備する具体的な方法が本作では示されていた。それが「心の承諾」である。聞き入れられ、引き受けられる中で、心は自身に可能な奇跡を生み出していく。二部で寺崎守の仕事に触れることによって、私はそのことをどうにか示すことができた。

 この心の承諾は、日常生活を変える提案となる。寺崎守が行った心の承諾は、極言すれば一切のスキルを必要としない。心の承諾を行うだけで、人や世界の姿が変じていくだろう。本作の特筆すべき点は、それが職業や生活の場面で行うことが可能とした具体性にある。

 この提案を本作は、生活を営む私たち全てに対して行っていたように思う。私たち全てが心の同期や承諾を生きることができれば、世界は変わる。具体的提案の中に、世界のあるべき姿を示そうとしているのである。この理想の世界観の表明である本作は、全てのフィクションのジャンルの中でも希少なものと評することもできる。

 しかし、この文章の主題はそれらのことではない。心の同期と承諾がリアルであることを証明したいま、論じなければならないのは別のことだ。では何故、私たちの生と『あなたへ』のリアルとの間に、依然として距離があるのか。その最大の理由は、私たちの生の定義が、本作の描いた現実と異なるからだと思う。

 私たちの生の定義とは、「私」が一つの心をもって生きている、というものだ。この生の定義は極めて強固なものである。しかし、それは他者を信頼する強固さとならない。一つの心の外側にある他者は、いつも異質な存在である。もしその他者を信じようとすれば、それは現実から浮遊したイメージを信じることであり、それに殉じることになる。

 本作で描かれた現実はそれとは異なる。他人の心を自分の心の事実として生きることがその現実となる。ここでは、他者への信頼が、そのまま心を感じる自分自身への信頼となるのだ。この信頼は強固なものとなる。このように、一つの心の定義から開始される生と、心に住まう心から開始される生は、全く違うのである。

 この違いに対して、私が書きたいのはただ一つのことだ。私たちは他人の心を、弱く伝わる、あやふやで、不確かなものだと感じる。しかし、その感じ方は、他人の心のリアルの後に現われたのではないか。それが私たちの最も欲するものだからこそ、それを失うことに怯えて打ち消しているに過ぎないのではないか。

 最初からないことにすれば、そこに喪失の悲しみはない。しかし、喪失の悲しみや、怯えや、否認や、全ての負の感情に先立って、他人の心を強固に感じた現実があると思う。自分の心に強く、はっきりと、ゆるがないものとして他者の心が意識される現実があること。『あなたへ』という作品は、その意識の現実に就いて生きることを促す。定義よりもその現実を生きようとするとき、私たちの生は、きっと『あなたへ』と近づいていくだろう。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年12月06日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・7

 他人が関わらない「職業」は存在しない。つまり、どんな「職業」にも他人の心が前提として存在する。それならばこうも言える。私たちの「職業」は本作の「国家公務員」とほとんど変わらない。幽霊=心のために存在する「国家公務員」と、私たちの仕事とはほとんど変わらないのである。

 この認識に立つとき、本作は私たちの仕事に示唆を与えているように思える。「国家公務員」寺崎守は、他人の心を承諾することでその職務を果たしていた。それでは、全ての「職業」も心を承諾することで、それぞれの職を充実させうるのではないか。

 心の承諾は、他人の心の事実に触れてタスクを生み出すことである。この行為によって得られるのは、「よく気がつく」臨機応変さだけではない。「自分と他人との確かなつながり」というものが、労働の過程の中ではっきりと現われているのである。

 私たちは「職業」の中に「自分と他人との確かなつながり」を求める。そのようにして、社会の中で生きる自分を肯定しようとする。これが私たちの職業観である。心の承諾は、この職業観が求めた目的を、結果ではなく過程の中に生み出す。これは現実的な幸福である。

 私たちが金によって生きているのも現実である。しかし、それによって「職業」の中に金以外の目的を求める現実を見過ごすべきではない。『あなたへ』という作品は、軽視しがちな職業観の中の幸福を示すことで、収入差によらない全ての「職業」とそれに就く私たちを肯定しているように思う。

 本作の「国家公務員」の「非現実さ」は心の承諾を職務として描いていることによる。つまり、「非現実さ」はそのまま私たちの職業の理想となる。その理想は私たちの職業上の幸福だけを約束するだけでない。そもそも、私たちが幸福なのは、他人の心に対して無意味でないと実感できるからである。

「国家公務員」という表象は、私たちと社会が、一人一人の心に対して意味があるという理想に基づく。つまり、理想の世界観というリアルがここにある。これを「非現実」と拒絶すべきではない。この拒絶の中で世界はくすんでしまう。この意味で、『あなたへ』という作品には、世界のために必須のリアリティが込められているということになるだろう。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年12月05日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・6

「そうですか」と「うん」。前回の引用の場面で、寺崎は単にあいづちを打っているように見える。真山清美が田中博司の存在を感じる場面でも、その出来事から田中博司が昇天する場面でも、寺崎は精妙な心の現象の全貌を理解しているようには見えない。だから寺崎の仕事の本領は、本質の理解ではない。

 また、寺崎守がなした行為の印象も、このあいづちとそれほど異ならない。彼は田中博司の要望を単に聞き入れてきただけのように見える。寺崎の仕事が「うまく報告」される必要はここにある。つまり、彼の仕事の本領は、「国家公務員」のマニュアルに書き込まれるような性質のものでもない。

 本質の理解とマニュアルの実行。仕事に求められるものの両方を寺崎は持たない。では、寺崎の仕事の本領とは何か。それは乱暴に言えば、本質の理解を仕事に活かさず、マニュアルも実行しない点に求められる。

 最初の引用を見よう。霊能のない人間が、手紙を読む経験によって霊の存在を感じること。この出来事に対して、寺崎は「そうですか」と返答する。奇跡に等しい出来事を単なるあいづちを打つ軽さで応じている。しかし、この「そうですか」という返答から、相手の心がそのまま残る余地が生まれている。

 それは「そうかもしれません」などの別の応答を思い浮かべれば分かる。それらは「田中博司がここにいる」という本質の理解の表現となる。その表現によって寺崎は状況に関与することとなる。つまり、真山清美の心は寺崎の評価を受け取ってしまう。他人の評価を意識した心は、かつてとは異なるのである。

 次の引用を見よう。田中博司の昇天の場面である。寺崎守は「うん」というあいづちに続いて、「やっぱりこれで良かったみたいだな」と言う。「みたい」という曖昧さを残して仕事を進めている。ここにマニュアル意識は希薄である。ベテランであるはずの寺崎は、経験則というマニュアルさえもそこに当てはめようとしない。

 本質の理解でもマニュアルでもない寺崎の仕事の本領。それは自分の理解よりも他人の心を生かす配慮にある。さらに、生きた心が伝える要望を引き受けるために、マニュアルと異なるプロセスをたどる実務にある。この配慮や実務を一口にまとめよう。寺崎の仕事の本領は、心の承諾である。

 寺崎によって承諾された心たちが、彼らなりの力で最善の解決を引き出している。「国家公務員」のマニュアルを知る水元翼の眼には、田中博司の一件はそのように映ったはずだ。他のやり方では不可能だった。寺崎の仕事だけが、他人の心を励まし、それが生きる世界さえも励ましていた。このとき、他人の心も世界も、水元の理解を超えた別の顔を見せていたのである。

 こう書きたどっていくことで、非現実的な「国家公務員」という職業の意味をはじめてつかむことができる。この「国家公務員」は、心の承諾をなすべき全ての「職業」の理想となる。世界観と職業観がリンクするリアルについて、私は次回にまとめてみたい。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年12月04日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・5

――水元:寺崎さん、僕、才能あります?
  寺崎:なんだよそれ。
  水元:いや、どうなのかなと思って。
  寺崎:ふっ。あるよ。お前なりにさ。
  水元:ええ? それじゃ意味ないじゃないですか。
  寺崎:バカ、あるよ。でなきゃ、俺が二人いりゃいいってことになるじゃねえか。(十五場)


 この会話の中に一つの前提がある。それは寺崎守の「才能」である。水元翼が「才能」の判定を請うとき、寺崎がそれに答えるとき、二人が前提としているのは、寺崎が「国家公務」という職業に就いている確かな意味である。

 ここに第三者が居合わせたならば、寺崎の「俺が二人いりゃいい」という部分は、自信過剰な響きを生むだろう。しかし、二人だけの会話の中にその響きはない。水元が言葉の中に込めた畏敬を、寺崎がくだけた返答の中で受け取るという言外の共有がある。

 水元は寺崎の「助手」である。しかし、「助手」という立場は寺崎への尊敬にはつながらない。「僕がうまく報告してるから、寺崎さんやってけてるんじゃないですか」(二場)と寺崎をあてこする水元にその意識は薄い。だからそれはまた、立場の違いの一要因となるだろう寺崎と水元の「能力差」でもない。

 つまり水元の畏敬は、田中博司の一件によって生じている。水元は「うまく報告」する必要があるような寺崎の仕事によってこそ、田中博司の件が解決に導かれたのだと感じている。この水元の印象を元にして、寺崎の仕事を捉えてみよう。逆に言えば、その印象を元にしない限り、寺崎の仕事の本領は私たちの眼には見えてこないだろう。

 その論は次回に譲り、以下に寺崎の本領が現れていると思う箇所を引用する。


――清美:……あの、これを書いてくれた方、近くにいらっしゃいますか?
  水元:えっ?
  清美:今、この近くに?
  水元:ああ、いえ。
  清美:そう。
  寺崎:あの、なぜです?
  清美:いえ、そんな気がしただけで。
  寺崎:そうですか。(十三場)


――寺崎:どうだい、すっきりしたかい?
  田中:ええ、気持ちが軽くなりました。
  寺崎:……そうみたいだね。
  水元:あっ。
  田中:え? あっ!

        田中の魂が地上から解き放たれるようだ。

  田中:寺崎さん、水元さん、私……。
  寺崎:うん、やっぱりこれで良かったみたいだな。(十三場)【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年12月03日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・4

――水元:寺崎さん、僕、才能あります?
  寺崎:なんだよそれ。
  水元:いや、どうなのかなと思って。
  寺崎:ふっ。あるよ。お前なりにさ。
  水元:ええ? それじゃ意味ないじゃないですか。(十五場)


 水元翼の言葉は、「職業」に対する誠実な、そして、極めて平凡な問いかけと思える。才能があれば、努力を投じる意味がある。才能があれば、社会や組織に認められる。才能があれば、誰かのために力が発揮できる。「才能」という言葉で求められているのは、自分が他者と関わる確かな意味である。

 他者と関わる意味は、自己完結できない。だから、水元が「お前なり」では「意味ない」と感じることは至極当然である。しかし、他者と関わることの意味は、結局「才能」でも完結させることはできないだろう。おそらく、この言葉はマジック・ワードなのだ。自意識の中でかりそめの完結をもたらすために、私たちは日々自分の「才能」を信じようとする。

 水元翼の発言は、「才能」をこのように求めている点で、平凡かつ日常的な発想であると言える。あちこちの職場で行われるものと何ら変わりはない。そして、この日常的な発想と、「国家公務員」という表象とを重ねたとき、私たちは一つの解釈を得る。それは「国家公務員の仕事は私たちの仕事と何も変わりはないのだ」という解釈である。

「国家公務員」には、このような日常的なリアルが与えられている。しかし、このリアルはまだ不十分だ。水元と寺崎のなした行為の成立条件となる「国家公務」のユニークさは、それを日常的なものと解釈することでは消化できない。

 だから、具体的な他者を想起すればよい。私はここまで他者を一般論として論じてきた。そのやり方だけでは駄目なのだ。田中博司と真山清美を思い出そう。彼らがなした心の同期を思い出そう。水元翼の発言は、そこから明確な影響を受けているものと捉えられる。

 水元翼の言葉ではなく、彼の心を辿ってみよう。そこから自然に浮かび上がるのは、水元翼が寺崎守の「才能」に畏敬している事実である。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年12月02日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・3

『あなたへ』という作品の主題の一つを「職業」だと言うことができる。その傍証として、本作では登場人物全て「職業」が明示されていることが挙げられる。

「見りゃ分かるよ。ある意味、サラリーマンの鑑だ」という田中博司(一場)。「僕たち、こう見えても国家公務員なんですよ」という寺崎守と水元翼(二場)。「いわゆるOL」という真山清美と、「定職につかない」という木下優二(七場)。全ての登場人物が、どのような職業に従事しているかが語られている。これは東京青松の作品として異色である。

『あなたへ』という作品は、仕事や所属を持つ(あるいは持たない)私たちのリアルを描こうとしている。私たちにとって仕事や所属とは何だろうか。それは、自分の活動時間や労力を投入しているものである。つまり、仕事や所属を持つことは、そこに自己を投入していることなのである。

 それは自分の仕事や所属の中での労働にやりがいを持つことと関わらない。きわめつけの閑職に従事しているとしても、それを閑職と感じる自分を労働の中で生きさせているのである。このとき「職業」の中で、自己のありようを表現しているのだ。意志的な労働はなおさらだろう。

 仕事や所属に自己を投入すること。それは自分に見あう成果をそこから得ているかどうかが試されることである。仕事や所属の中で成果が問われるばかりでない。余暇を含めた自分のあり方を問われている。

 つまり、「職業」において人は、社会関係の中の自分の位置づけについて取り組むことになる。「職業」が世界観となるのはこの時にほかならない。「職業」が世界観を生むこと。このことは、仕事や所属を持たない時間にこそもっとも具体的に信じられるはずだ。

『あなたへ』という作品は、登場人物全員の仕事や所属が生む世界観を描いているわけでない。しかし、それを持つことを物語は拒否しない。このことの価値は、もっと強調されてよいと思う。

 その理由を断定的に書く。仕事や所属を主題にした多くの物語は、「選ばれた幸運」に支えられてしまう。また、それらを主題にしない多くの物語は、「職業」への自己の投入が不必要であるかに扱ってしまうのである。

 それらの物語は、自己を奮起させたりヒーリングを与えるが、世界観というリアルには至らない。つまり現在において、「職業」が世界観となる物語のリアルは不足しているのである。

 だからこそ『あなたへ』は、「職業」を世界観の環の広がりの中に含むことを使命とするようだ。本作は、寺崎守と水元翼の対話によって閉じられている。二人の対話の中に、彼らの「職業」のリアルがある。そのことを私は次回に論じよう。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年12月01日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・2

――水元:あ、すみません。僕たち、こう見えても国家公務員なんですよ。
  田中:えっ! す、凄いですねえ。
  水元:いやいや、全然。国家公務員といっても、一般じゃあ通らない肩書きなんで。(二場)


 幽霊を成仏させる「国家公務員」という仕事。この仕事に現実的なリアルがないことは断言できる。計上された国家予算の中から組織機構が編成され、幽霊のために秘密裏に活動が行われるということはありえない。

 さらに、『あなたへ』という作品は、この「国家公務員」という仕事のリアルさを細部の設定によって補強しようとしない。「幽霊」には詳細な設定が語られており、それが「幽霊」の存在にリアリティを補強している。しかし、「国家公務員」は、彼らの所属する組織機構についての情報を不足させている。

 このような「国家公務」を実感する心を、私たちは普通持たない。このとき、「国家公務員」のリアリティは、その成員と名乗る寺崎守と水元翼の自己申告に危うく支えられることになる。彼らが互いに対する態度の「同僚らしさ」によって、彼らの意識や意図のリアルは保障されるだろう。しかしそれらは、ついに組織機構の成立条件とならない。

 この解釈の中で、「国家公務員」は作品の弱点のように映る。成立条件を持たないものが成立し、作品に組み込まれているということ。この非現実さは幽霊の物語に必要な「作品の都合」であると見える。物語を円滑に進めるための装置が露呈し、それにかりそめの設定が与えられているかのようだ。

「作品の都合」をただ受け入れる寛容さの中で、物語の豊かさを感受するやり方もある。しかし、そのように作品を捉えることは、日常のリアルを描いた『あなたへ』の可能性を殺ぐことになるだろう。「国家公務員」である寺崎守、水元翼や彼らの「国家公務」というものを感じ取ってみよう。その中で現れるのは、職業観というリアルである。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月30日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・1

 ここまで、幽霊をめぐっていくつかのリアルを取りあげた。一口に言って、それらは異質なレベルのリアルである。しかし、同時に一つでもある。個人にとって、特にフィクションに触れる個人にとって、リアルは一つの世界観としてまとめられるからである。局所から世界へと、リアルは拡張され世界をかたどる。

『あなたへ』の幽霊をめぐるリアルがどのような世界観を形づくるのか。それは見過ごされがちな人間の心を主題としたものとなる。これを想像するとき、非現実なはずの幽霊は世界を構成する必要なピースになるだろう。その傍証をここでは略す。いま私が強調したいのは、『あなたへ』という物語の世界観の中に含まれる特徴的なかたちである。

 例えば「二章 第一部 強固な信頼とは何か(4)信頼によって生まれるもの」「二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(4)演劇というリアル」を参照してほしい。両者にあるのは、心の同期=他人の心を事実として捉えるリアルであるとまとめられる。

『あなたへ』の観客は、この両者のリアルに順に触れていくことになる。まず演劇行為の中にある「他人の心を事実と捉えること」を体感する。次に同じ現象を登場人物がリアルとして生きる場面を目撃する。さらに物語が日常生活を描くため、そのリアルが観客の現実に起き得ることを喚起させられる。

 つまり、『あなたへ』の世界観の中には、「演劇形式」「物語内容」「現実世界」三者に同形のリアルが描かれている。この相似形は暗号ではなく必然である。『あなたへ』は、「他人の心を事実として捉える」という一事を、「いまここ」と世界に通底する中心として扱っているのである。

『あなたへ』の世界観は、波紋のように広がる同心円のリアルによって構成されている。「他人の心を事実と捉える」という中心を共有するやり方で、外へ外へと向かう実感の広がりによって世界観が構成されているのである。中心から濃やかに広がる世界観を持つことは幸福である。自分と世界との緊密なつながりを強く実感できるからである。

 そして、「国家公務員」という「非現実さ」も確かにこの中心を共有している。しかしそれを「幽霊」と同じ円に含めるべきでない。本作で物語られたどんな事象よりも外側に位置づけるべきである。そのように「国家公務員」を世界観としてのリアルと捉えるとき、『あなたへ』のほとんどの観客にとって意外なメッセージを抽き出すことができるだろう。私は次回から、この最も外側の円について語ることにしよう。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月29日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(4)演劇というリアル

――寺崎:ズバッといこうか。
  田中:?
  寺崎:あんた、死んだんだよ。
  田中:えっ?(一場)

『あなたへ』の物語は、公園で所在なく佇む田中博司に寺崎守が話しかけたことで開始される。寺崎は「家を出てから誰かと喋ったか」「携帯も、つながらない」と次々に田中博司の状況を言い当てていく。寺崎にとって田中博司は幽霊以外の何ものでもない。上の引用は、そうした寺崎の把握をストレートに当人に告げる場面である。

 この場面の前後には幽霊のリアリティを支える詳細な設定がある。しかし、私はそれらを略して別の事柄を扱いたい。引用の場面は、演劇のリアルの核心を示しているように思えるのだ。

 演劇は生身の俳優が演じる物語である。演劇を見る観客は、目の前にいる彼らが俳優であることを知っている。物語の開始点でそのことは明確に意識されている。しかし、それはいつしか意識の後景に退いていく。俳優を登場人物として見るからである。

 登場人物に共感することでそのリアルは生まれていく。しかし、それは単純なプロセスではない。登場人物に共感するということは、その俳優が発するメッセージを鵜呑みにすることではないのだ。ここには、登場人物の捉え方を他の登場人物によって学ぶという精妙なプロセスがある。

 引用に戻ろう。ここで寺崎守は田中博司を幽霊として捉えている。それが表現された瞬間に、観客は単なる生身の俳優が、別の視線によって見られていることを意識する。この寺崎の視線に対して観客は理解しようとし共感を与える。このとき、生身の俳優が登場人物に変化していくのである。

 リアリティを支える詳細な設定は、このリアルの核心を補強するディテールに過ぎない。演劇のリアルの核心には、他人の視線のリアルがある。田中博司が幽霊であるのは、寺崎が彼をそのように見ているからである。つまり演劇のリアルの中では、(自分の)見えないものを見ることができるのだ。この精妙なプロセスは、幽霊というものの存在のありようと驚くほど近いのである。

(注釈として。東京青松では演劇を「心劇」、俳優を「演者」と呼んでいる。ここには、演劇や俳優が観客に直接表現を行う「物語を殺すストレートさ」というニュアンスをその語から除きたいという意図があるように思う。しかし私は一般論として演劇のリアルを扱おうとするために「演劇」「俳優」という語を用いた。)【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月28日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(3)生の実感の中のリアル

――田中:その人がね、いつもと違ったんです。下を向いて、そんな様子を見たのは初めてだったもので、それが凄く気になって、なんていうか、声をかけたいような、そんな気持ちになってしまって。
  寺崎:どう?
  水元:ええ、たぶん。
  田中:えっ?
  寺崎:それだよ、田中さん。
  水元:そのとき、あなたは事故に遭ったんです。
  田中:事故?
  寺崎:田中さんにとっては、事故の衝撃よりも、その人のことが重要だったんだ。(四場)


「車道をはさんで、向こう側を歩いている」他人の「いつもと違った」という出来事が、田中博司の最後の心象となる。それだけでない。田中博司が「事故の衝撃」を忘れているのは、「凄く気になって、声をかけたいような、そんな気持ち」になった瞬間である。

 私たちは、この時点をつかまなければならない。田中博司の心を占めるのは、現実世界に自己の思いを届かせたいという意思である。

 心象と意思。どちらも人間が世界を捉えつながりを持とうとするとき生まれるものだ。人間の生は心象と意思によって占められていると言えるだろう。田中博司はその最後の瞬間に、生のあるべき形に自らを開いていたのである。

 この姿が死という軽さによってかき消される。心象や意思など目に見えないものは現実世界にその痕跡を留めるべくもない。そして、このことを「意外」と感じることも、人間の実感であると思う。

 幽霊はこの実感の中のリアルである。生のあるべき形がただ意味もなくかき消されることが信じられない。幽霊とは信仰や願望であるよりも、第一にこの実感の中にある存在である。

 この実感の中では、目に見えない心というものが極めて鮮明に捉えられている。それもまた上の引用で確認できる。田中博司にとって「事故の衝撃」より、他人の心の変化が「衝撃」を与えるほど鮮明なのだ。この田中博司は生の実感を純粋に生きていた。

 私たちがこのように感じる瞬間に、幽霊である田中博司は、私たちの実感とつながる存在となる。それが信仰や願望であるよりも、あるいは物語の設定としてよりも、田中博司が生けるリアルとして実感されるのである。そのような作劇が『あなたへ』には存在している。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月27日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(2)死というリアル

 幽霊である田中博司が私たちと同じリアルな存在であることを私は「一章「あなた」とは誰か?(1)・1」「一章「あなた」とは誰か(1)・2」で詳述した。田中博司と私たちとの差異は、彼が死んでおり、私たちがそうでないということに尽きるだろう。


――清美:〈略〉すぐ横で事故が起きたんだよ。
  優二:で?
  清美:え?
  優二:死んだの?(三場)


 田中博司の交通事故の原因を、真山清美と木下優二は知らない。だから、このような事故が「すぐ横」ではなく清美と優二、私たちを襲う可能性はあったとも思える。いま私は、「先のことは分からない」というようなごく平凡な真理について語っている。しかしこの平凡さの中に、息苦しいリアルがある。

 清美と優二の会話に戻ろう。分からないのは「先のこと」ばかりでない。彼らにとって、他人が経験した過去は分からない。引用の優二の問いに、清美は「分かんないよ、そんなの」と答えている。他人が経験した過去は、その死であったとしても、「そんなの」という軽さを持つかのように無責任であるほかない。

『あなたへ』という作品には、事故の状況を伝える情報は上の引用箇所にしかない。ということは、田中博司自身にもその死は不明であるようだ。「先のことは分からない」というどころではない。死というものは、過去・現在・未来の全てを「?」にしてしまう。

 死は私たちに、「?」という疑問符で宙づりするような、息苦しい軽さを与える。断定しよう。死というものは軽い。生の重さに比してあまりに軽いのだ。その軽さが私たちの生を傷つける。死をめぐる重さは、その軽さに反する結びつきを死者と私たちの間に信じる、あるいは信じたいと思うことで生じるものだろう。

『あなたへ』は、こうした死の本質的な軽さというものを捉えているという意味で、リアルな作品である。幽霊が登場するという意味でファンタジーであり、この作品から死の深刻さを感じたものはあるいは少ないかもしれない。しかし、引用箇所で語られる死の軽さは、胸を締めつける息苦しさをもって物語られていたのである。幽霊が生まれる直前に、本作は現実的なリアルをそこに置いた。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月26日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(1)非現実さの中のリアル

 心の同期によって日常の幸福を生み出すこと。その実現を真摯に求めているのが『あなたへ』だとすれば、この物語の設定にある「非現実さ」をどう捉えるべきか。ここで言う「非現実さ」とは、田中博司が幽霊であること。そして寺崎守、水元翼が幽霊を成仏させる「国家公務員」という職に就いていることを指している。


――田中:ありがとうございました。変な話ですけど、死んでから最高の友達ができた気分です。(十三場)


「最高の友達」とは、寺崎と水守を指す。田中博司は幽霊にならなければ、彼らと出会うことはなかった。そして田中博司は彼らとの交流の中に力を得て、心の同期を開始している。つまり、心の同期の中核には、幽霊にまつわる「変な話」=「非現実さ」があると言っていい。このとき、一つの問いが問われなければならない。それは「心の同期を生み出す条件が真に日常の中にあるのか、それとも非現実というフィクションの中にしかないのか」である。

 結論を先取りしよう。心の同期は日常の中にこそある。そう信じる私は、この物語の「非現実さ」について考えなければならない。そうして、物語という「非現実さ」の中にある心の同期を現実に還付させたい。第二章第二部は、作品が現実に生きるという証明に捧げられる。具体的には、この二つの「非現実さ」の設定に明白なリアルがあることを書く予定である。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月25日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(4)信頼によって生まれるもの

 心の同期が生みだすもの。それは一つの幸福であることは間違いない。私たちの自我のエゴイズムにとって、他人の心を生きるという感覚自体が奇跡的なのだから。ここでは、真山清美が得たものが何かを追ってみよう。


――清美:ねえ優ちゃん、私のこと好き?
  優二:え?
  清美:好き?
  優二:ん。
  清美:え? ちゃんと言って。(十四場)


 田中博司の手紙を読み終えた真山清美は恋人木下優二と幸福な時間を過ごしている。真山清美が得たものは、簡単に言えば「自信」である。優二の一言半句に過剰な配慮をしては傷ついていた真山清美が、優二に気持ちを(三度も)問うている。自分に自信をもって相手と向き合うことが、幸福な人間関係を生むという自己啓発をも感じさせる。

 真山清美はここで「私だってモテるんだよ。知ってた?」とも言っている。こう聞くと田中博司の手紙は、自分がモテるという自信を与えてくれるものでしかないように見える。しかし、それだけのことなら自信はすぐに砕けるだろう。例えば、優二が考えなしに「嫌い」という返事をするなどがそれである。その程度の自信は即座に自己不信へと転落する。

 ここで描かれている幸福な時間には、そのような転落の危険を感じない。それが「ハッピーエンドのお約束」だからではなく、ここには別様の自信があると解すべきだろう。それは引用場面にはっきりと示されている。真山清美は恋人が自分のことを「好き」だと知っている。そしてそのことを「ちゃんと言って」ほしいと思っているのだ。今までの真山清美を考えるならば、ここにこそ最も驚くべき自信がある。

 この自信は単純に木下優二の心を理解しているということから発している。言い換えれば、自分の心の中に、他人の心をも容れているということになる。つまり、自分の何かに自信を持つのでなく、相手の心のリアルな感触が、真山清美に自信を与えている。そしてこの自信が木下優二の心を打つ。自分の心のリアルを捉えた言葉が、重んじるべき他人の心として心を打つのだ。

 まとめよう。この心の同期が生みだすものは、他人と生きる現実的な幸福である。他人の心を生きるという感覚の奇跡から、他人と生きる現実の幸福が与えられている。真山清美が得たのは、心と日常の幸福である。田中博司の手紙によって他人の心を生きた真山清美は、木下優二の心を生きることを自然と開始し、木下優二と生きる日常の幸福を得ているのである。

 真山清美は心の同期に無自覚である。そのことは、この精妙な現象を自覚するという非凡さに、私たちが立つ必要のないことを語っているように思う。『あなたへ』は私たちにこのように心の同期を生きることを促している。それがもはや感覚の問題ではなく、日常の幸福となることを見逃しようのない真摯さで示しているのだ。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月24日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(3)同期する心について・2

 手紙の配達人は手紙の内容を知らない。「田中さんの手紙をさ、覗くようなまねはしないから」と言う寺崎守と、それに「もちろん僕も」と応ずる水元翼は、田中博司が何を書いたかを知らない(十一場)。にもかかわらず、彼らは田中博司の手紙が読まれるのを見届けようとする。何のために? もちろん田中博司のためにである。ここに素朴な親切というものがある。

 彼らは、田中博司の思いが真山清美に届くことを望む。しかし、この望みはいくつもの迷いを抱えている。本当に田中博司が望むように、真山清美に思いを届けることができるのか? 仮に届いたとしてもそれが田中博司の思いを遂げさせることになるのか? また、その思いが遂げたのを彼らはどのようにして知ることができるのか? これらの全ては正解が想定しきれない。未来には迷いがある、だから彼らは緊張する。

 田中博司がナレーターとして手紙を読む時間の中を、寺崎守と水元翼はこのように過ごしている。真山清美と田中博司の心の同期を、その外側から、緊張しながら見守っている。彼らは、手紙の内容を知らない。それと同じく、心の同期の運動も知らない。にもかかわらず、彼らは「この近く」に立つことになる。

 真山清美は手紙を読みおえる。田中博司の意志を信じるならば、寺崎と水元の意志も信じられる。真山清美は、彼らの振る舞いを受け入れるべきものとして映じるだろう。そのように映じた中に、感じるものがある。それは田中博司の存在である。たとえば、それはこんな近い過去に感じられるものだ。


――水元:(略)できればその、読んでいるところに立ち会わせていただきたいんですが。
  清美:……いいですよ。
  水元:本当ですか?
  清美:ええ。八つ当たりしちゃった分。
  水元:ありがとうございます!

        水元、向こう側にいる二人にガッツポーズ。(十二場)


 そしてそれは、清美が手紙を読み終えた直後にはっきりと感じられる。


――清美:読みました。
  水元・寺崎・田中:ありがとうございました。(十三場)


 そう。三人は感情を共有している。だから真山清美には、ここに二人しかいないことに違和感を持つ。寺崎と水元が心を共有している三人目が、彼女に見えないことが不思議なのだ。寺崎と水元の振る舞いの自然さが、三人目の存在を確かに示しているというのに。

 だから彼女は寺崎と水元に問う。「これを書いてくれた方、近くにいらっしゃいますか?」と。このフレーズは、二つの事実を示すだろう。一つは、清美が田中博司を直接「ここ」にいると感じていない事実。もう一つは、「近くに」いるか否かの答えを、清美は寺崎と水元が知るだろうと考えた事実である。彼女に田中博司は見えない。しかし、寺崎と水元が見る田中博司を共有しているのである。

 真山清美が幽霊である田中博司を感じること。これは『あなたへ』の作品の中で「奇跡」と感じられる。しかし、これは心の同期がもたらす副産物に過ぎない。心の事実として「近く」に感じる誰か。その誰かの「近く」にあって、感情を共有するものたちがいる。この誰か=田中博司へ寄り添う心を通して、彼らを見れば、そこに三人目がいるように振る舞う事実が見逃しようなく現われてくる。

 真山清美は、この心の事実を、自分の見える事実によって切り捨てはしない。このことが、真山清美が心の同期を生きている事実を物語る。そして、この同期もまた過剰であるのだ。一つの心の同期が、他の心との同期をも生むこと。裸の心が過剰な世界へと接続されている。これを奇跡と思うべきではない。単に奇跡を信じるのでは、同期する心のリアルが見失われてしまうのだから。この心の同期が私たちの現実の可能性であることを、寡黙に、だが雄弁に『あなたへ』は物語っている。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月23日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(3)同期する心について・1

 田中博司の手紙は「奇跡」と感じられる場面を生み出している。それは、真山清美が、幽霊である田中博司を感じることである。


――清美:……あの、これを書いてくれた方、近くにいらっしゃいますか?
  水元:え?
  清美:今、この近くに?(十三場)


 清美が口にする「今」とは既に過剰である。たとえば、田中博司が手紙を書いた過去がここに共存している。「今」という実感は自分のありかを確認させてくれるものだ。しかし、その長さも広がりもはっきりとしない。この「今」の記述を試みてみよう。

 この「今」には、田中博司の意志が息づいている。手紙を読む清美にとって、その意志は彼女につながっている。けれども思い出してほしい。田中博司の意志の源は、真山清美の存在の大きさへの誠実であるのだ。真山清美にはこの時、自分よりも大きい自分が届けられている。これは何という過剰だろうか。

 真山清美は田中博司の意志を受けとる。自分という小さなひろがりの外側から、田中博司は思いを向けてくる。その意志を信じれば、より大きな自分という存在もまた信じられる。誰かの真心に触れるということが、「今」を過剰にし、それが自分の存在をひろげていくことになる。

 これが「今」の素描である。互いの心が触れることが、相手の心のリアルを受けとるという経験を私たちに与える。この「今」の可能性は、そのまま心の可能性を物語る。少なくとも、私たちの中の一人である真山清美は、この可能性を生きている。

 真山清美は言う。「私は幸せです。でも、あなたのお陰でもっともっと幸せになれそうです」と(十三場)。これは率直なコメントである。自分の「幸せ」が、他者の心に触れることで「もっともっと」強まるという平凡な事実がここにある。しかし、この「幸せ」は、単に思われることの幸福感ではない。それだけのことならば、自意識の利に資するばかりだ。

 それは他者の心の中に自分が生きているのを知ること。そして、「他者の心がもたらす生を自分が生きる可能性」を受け入れることである。この精妙な心の運動が、強度の「幸せ」をもたらす。多くの人はこれを愛と呼ぶだろう。しかし、私はいま、愛が持つ力の一部をもっと具体的に記述したい。

 私はこれを心の同期と呼ぼう。心と心が同期するとき、互いのリアルが流れ込んでいく。「今」とはいつのことか、もう明らかだろう。それは心と心が同期する過剰な時間である。その過剰な「今」が、相手の心をも含んだ自分のありかを確認させてくれる。

 田中博司と真山清美の心は「同期」している。だから、彼らの心は極めて「近く」にある。もちろん、この心の事実と、「近くにいらっしゃいますか?」という問いを発することは明白な差異がある。真山清美が、幽霊である田中博司を感じることができたのは、心の同期の次なる運動を待たねばならない。そして、ここには、手紙の配達人である寺崎守と水元翼の存在が大きく関わっているだろう。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月22日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(2)無力の壁

 田中博司の手紙を一部引用する。


 ――私にできるのは、いや、「できる」というのはおこがましいですね。私がしたいのは、ただあなたが幸せであることを願う、そのことだけなのです。
   (十三場)


「できる」という言葉を田中博司は修正する。「できる」を「したい」に言い換えるのは、ごく自然な言い回しである。それは謙虚な意志表明となる。けれども、「願う」ことを「したい」というのはほとんど異様なフレーズである。田中博司にとっては「願う」ことさえも、分を超えた行為だと捉えているのだ。

 何故「願う」ことが分を超えているのか。その答えは、私たち自身が手紙やEメールなどで「願う」や「祈る」という言葉を書くときの心境に立てば、たやすく思い至るだろう。誰かへの言葉を書きつづる時、誰かにとっての善を望もうとするほどに、その目と手の届かない誰かに対する無力が感じられる。

 田中博司が無力にどれ程の時間立ち止まったかは不明だ。けれども彼は無力を超えて真山清美に語りかけている。「私にできる」ことよりも、「私がしたい」ことを伝えることが必要である。田中博司は、そのように自分の意志を堅持している。

 田中博司はまた、別の無力にも出会っている。通常私たちが誰かに「できる」ことよりも「したい」ことを選ぶ場合、それはいつも誰かに直接影響を与える行為が選ばれている。例えば「助けられないかもしれないが、話したい」など。このような具体的な行為の中で、より善なるものが生まれることが期待されている。

 田中博司はそうではない。彼は、目と手の届かない誰かに対して無力であるばかりか、相手の応答を得られるような具体的な行為にも無力である。田中博司は二重の無力の中にある。だからこそ田中博司は、純粋なる私たちの隣人となる。

 私たちは誰かに対して無力ではないのか。こうした問いを私たちは抱えている。それは例えば「助けられないかもしれないが、話したい」と言って知人と会った後に抱く苦さを想像してみると分かる。自分が善をなしたということが、誰かにとって善であるかは何の保障もないことを知るだろう。

 繰り返そう。田中博司がこれらの無力にどれ程の時間立ち止まったかは不明である。それでも、彼は伝えることを選んだ。つまり、彼は無力の壁を超えたのだ。単に何かをしてみせる以上に、無力を超えることに自分の意志を堅持している。

 だから、この手紙の意志は過剰である。つまり、手紙の書かれた過去の時空から既に過剰であったのだ。手紙の書かれた時空が読まれる時空と共存することで生みだされる物語を私はまだ語り出せないでいる。それは次回に譲ろう。この文章で最後に強調しなければならないのは、過剰な田中博司の姿の平凡さである。

 過去から現在にかけて一つの意志を堅持する田中博司。彼が手紙を読む姿は、誤解を恐れず言えば、全く格好良くなかった。平凡な人間がいまここにいるのだという感じだった。田中博司は、誰かを思う心などを表現していない。ただ真山清美を思う、その一事によって立っていた。その無防備さ、その裸さが、私たちに静かな感動を与える。この田中博司の姿は、平凡にして大きいのだ。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月21日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第一部 強固な信頼とは何か(1)象られた力

 真山清美に送った手紙が読まれる場面で、田中博司はナレーターとなる。脚本では、以下の指示が読める。

    ――清美が封を開けるとともに、照明も変化。
      田中が手紙を音読する。(十三場)

 この劇構成には、はっと胸をつかれる。使い古された劇的手法でありながら、それが真正の感動として私たちに感受されるからである。何故そのようなことが起きるのか。まず、手法と物語の強固なつながりとしてそれを論じてみよう。

 一般論として、映画や演劇で、手紙を「上演」することにノイズを伴う。演劇では文字が小さすぎて観客が読めない。映画では観客が読むためのショットが冗長となる。そこで音読という手法がある。そして送り手が手紙を音読する場合、それは物語上の時空とは別の時空を挿入することになる。手紙の書かれた時空が、手紙の読まれた時空へと招かれる。

『あなたへ』は、手紙の音読によって生じる時空に対して、明確な目的を与えている。私は「時空を挿入する」という言いまわしを用いた。他の多くの物語には当てはまるが、『あなたへ』という作品には、不適当な言い回しであったと思う。それは「共存」というべきであろう。

 田中博司によって手紙が書かれた時空も、真山清美がその手紙を読む時空も、ひとしなみに貴重である。どちらの時空にも、一つの心が揺れている。その心の時空を等価値として共存させること。それがこの場面に託された意味だと私は思う。『あなたへ』は、この場面で、時間の進行の中でかき消えてしまう心と時空のつながりが余さずに捉えられているのである。そもそも文字とは、そのように伝達されるものなのだ。

 手紙の音読は、このとき使い古された劇的手法であることをもうやめている。人間のなす事実として、文字の力を正確にトレースしている。手法と物語が表現するものが、ここでは充実した一致を迎えているのである。そしてこの物語の破格さは、その次に用意されている。書かれた時空と、読む時空が共存するいまとは既に過剰である。この現実の過剰さが、次なる物語を生みだすことになる。【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇

2006年11月20日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? 章末「私たち」とは誰か

『あなたへ』という作品タイトルに込められた意味は、以下の引用の箇所で観客に明らかにされていたと思う。

――あなたへ。
  私はあなたの素敵なお名前を知っているのですが、事情があって、あなたの前に現れて、名乗ることができません。とにかく、私だけが一方的にあなたのお名前を呼ぶということを誠実と思えないので「あなた」と呼ばせてください。(十三場)

 これは田中博司が真山清美に宛てた手紙の冒頭である。だから「あなた」は真山清美を指す。そして、作品タイトルは「誠実」をもって呼びかけられるべき私たち全てを指す意味のふくらみを持っている。

 では、「誠実」をもって呼びかけられるべき私たちとは誰なのか。この問いに答えることは難しい。他の誰かにとって、私たちがどのような存在かを私たちが答えるのはいつも難しい。このことを『あなたへ』という作品が、考えるヒントを与えている。

 この文章で書いてきた人物像をトレースする形で「私たち」とは誰かを見ていこう。私たちは田中博司のように日常に侵食されることもある。真山清美のように、平凡さに苦しみ、わずかな暴力によって傷つくこともある。逆に、木下優二のように、わずかな暴力によって他者を傷つけてしまうこともある。

 こうした弱さばかりではない。真山清美の非凡さもこの文章では触れている。田中博司の気弱さは、他者に配慮する優しさから生まれているとも考えることはできる。しかし、このように「でもある」というような考え方を進めることは、「私たち」の一部を捉えてはいても、ついに「私たち」自身を表しはしない。

 では、「誠実」をもって呼びかけられるべき私たちとはついに不明なのか。そうではない。そのことを『あなたへ』は確信をもって伝えている。木下優二を心劇によって捉えるということをこの作品は求めていた。心によって、他者の一部ではなく全てと出会う可能性を語っているのだ。

 私たちとは誰なのか。それは心を向けるときに明らかにされるなにものかである。田中博司を、真山清美を、木下優二を、他のたくさんの人々を私たちは心によって捉えてきた。その自身の心に問うてみれば、私たちの姿を感じ取ることはできるだろう。

 その姿が「誠実」に値することを『あなたへ』は注釈する。「誠実」とは持つものでも求めるものでもない。他者と心で向きあうときに自然と抱く感情である。個性と弱さを併せ持つ存在に対する慈しみは「誠実」に遠く及ばない。私たちの姿は、もっと大きい。

 田中博司は、真山清美をそのように捉えている。相手の存在の大きさに向けて、慎重に言葉を紡いでいる。この「誠実」が起こした出来事について、私は章を変えて書きたいと思う。奇跡に等しいが、絵空事でも理想でもない。人間のなしうる当然の出来事として語られていることを、見誤ってはならない。

(この文章の連載を、星屋の個人的な事情によって中断させていた。この文章の読者と、東京青松のメンバーにお詫びする。時間的な断絶を含んだ文章だが、私の意図は何も変わらない。引き続き、この作品にある「強固な信頼」とは何かを明らかにしていきたいと思う。)【次を読む】
posted by 東京青松 at 00:00| 作品解説・植林三本目篇