2006年11月19日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (3)木下優二とは誰か・2

 木下優二は何に心を向けていたのか? その明確な答えを得ることは困難である。木下優二はこの作品において徹底して釈明をしない登場人物であり、彼の心理を捉えるために単純に情報が少ないのである。しかし、これだけははっきりと言える。その疑問の答えは私達の眼前に提出されている。この作品に木下優二の心は確かに存在しているだろう。

 例えば東京青松の暗転は物語を容れる独自の構造を持っている。その独自さが、暗転の中の木下優二を読むことの保障となるだろう。ちなみに、暗転について私は『東京青松の道/客席から』・植林一本目篇その2その3で詳説している。しかし、植林三本目『あなたへ』における暗転の物語は、また別の趣をもって観客に感受されるだろう。それは特に、木下優二の場合に顕著である。


  清美:ねえ優ちゃん、私のこと好き?
  優二:え?
  清美:好き?
  優二:ん。
  清美:え? ちゃんと言って。
  優二:……。


         暗転。(十四場)


 暗転で語られた物語を推測することはたやすい。引用で「ん。」とぶっきらぼうに肯定する優二の中で、清美に対する愛情と気恥ずかしさが交差している。ここには、優二の愛情が物語られるエピソードが含まれているのだ。それを推測することで物語は厚みを増す。しかし、それは推測の終着点ではない。前回触れた清美に対する彼の行動をそこに合わせてみよう。清美に愛情を持つと同時に、心を欠いてしまう人間である。

 さらに言えば、彼は清美に性交渉を求め断られた腹いせに家を飛び出すような人間である。そのとき彼が別の女性と会っていたという話もある。こうした多くの要素を推測の材料に投げ込むと、彼の心の本体を定めることは難しくなるだろう。清美への愛情に気恥ずかしさを覚えながら心を欠き、同時に他の女性とデートする男。むろんデートも誤解の余地はある。なぜならそれは暗転の中の出来事であり、はっきりと我々が目にしたわけではない。このように、事実関係さえ不明確であるのだから、彼の心はますます不定となる。

 ここが推測の限界点である。しかし、それは答えがないことを意味しない。優二を判断する一番の材料を残している。それは私たちの目の前にいる優二自身である。実際に、優二という人となりに接して、彼がどういう人物かを直観する。答えがないのではない。観客一人一人が別の解答を生み出すこととなるのだ。つまり優二という人物を知るためには、彼に接したあなたの心を問い尋ねてみなければならない。

 東京青松の「心劇」の中で、私たちは現実の人と向き合うようなやり方で優二と出会うことになる。事実や心が不定であること。それでも相手から何かを受け取り、自分の心によってその何かを定めていくこと。事実の推測の果てに、彼が何者であるかを判断することが心の試練となる。多くの人はこのことを自覚しないし、時に「誰も本当は分からない」というシニカルな認識にこもろうとするだろう。しかし、心の試練はこの現実に存在しているのだ。

 だから優二は私たちの中の一人である。取替えの利かない個性を持つために、推測やイメージを拒む存在である。推測や想像力やイメージを働かせるだけではなく、それを自分の心で受け取ることが求められている。あなたにとって優二とは、どのような人物だろうか。それがあなたの心が選んだ彼の事実であることを、確かめてみるといいだろう。相手の心を受け取ろうとし、心が動く作業。その心の試練というべきものの感触は「対話」というに近い。東京青松の「心劇」中には、このような対話があるのだ。【次を読む】
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2006年11月18日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (3)木下優二とは誰か・1

 木下優二の傍若無人さに釈明の余地はない。彼が真山清美を傷つけ、苦しめていることは明らかである。しかし一方で、彼もまた、「悪人」ではなく平凡な人間であることも間違いない。その事実と、彼の登場場面に徹底された演出によって、わずかな雑さによって傷つけられる現実の危うさが認識できるだろう。


――清美:ただいまー。
  優二:ん。
  清美:ねえ、事故見ちゃった。
  優二:ふうん。
  清美:人がはねられたみたい。
  優二:「みたい」ってなんだよ。見ちゃったって言ったじゃん。
  清美:いや、その瞬間は見てないけど。
  優二:じゃあ見てないんじゃん。(三場)


「清美と優二の部屋」での会話である。彼らの会話は、引用箇所である冒頭から既に息苦しい。その息苦しさは、清美に対する心の不足から生まれている。「ただいまー」という言葉に対して「おかえり」はない。「事故」という大事件を伝える口吻を受け取らない。恋人である清美の受けたショックを想像することもない。そうした心を受け取らないからこそ、優二は言葉尻のみを捉えることしかできない。結局、清美は「事故」を「見てない」ことにさえなってしまう。

 優二は何故ここまで恋人の清美に心を欠いていられるのか。それは、彼が単純に寛いでいるからだ。「空気を読む」などの言葉の流行が示すように、社会生活において対人関係への気配りが要求されている。恋人との密室において、彼は何かを配慮するという労苦から自身を放免しているだけなのだ。こうした事実を見れば、彼は「悪人」ではないことが確認できるだろう。最も心を許した「家族」に対して、人はこうした行動を取りやすい。

 優二は、清美に心を欠きながらも、清美にしか意識を向けていない。彼の振る舞いは、それを第三者に説明するような「演技」の形跡を一切残していない。だから観客は、自身が存在することの許されていない空間に立ち会うことになる。そうした場に居続ける緊張感を伴って、優二の行動を見つめ続けるとき、彼の心の不足は息苦しいまでに印象づけられることになる。優二にとって、それは引き続く恋人との生活の一瞬に過ぎないだろう。だが私たちは、その一瞬に心を欠くことが、どれだけ現実を台無しに傷つけていくかを目撃することになる。

 こうした一瞬は、誰にも等しく訪れるだろう。現実を台無しにするか、一瞬に心を込められるかどうかは、私たちの終わりない試練となる。篠田青の演技は、(これは実際困難な演技だが)観客に釈明せず、傍若無人に振る舞うことによって、心の不足が傷つける現実の危うさを認識させている。つまり優二とは、「悪人」ではない。ある瞬間に心を不足させてしまう私たちでもあるのだ。このように結論する瞬間に、一つの疑問が浮かぶ。清美に対して心を欠いた彼が何に心を向けていたのかという疑問だ。おそらく、その心のあり方は清美と似ている。【次を読む】
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2006年11月17日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (2)真山清美とは誰か・2

 あなたが、見知らぬ他人に話しかけられたとしよう。あなたは、黙殺するか。それとも、他人である距離をおきながら、常識的な受け答えで終始するだろうか。真山清美の場合を見てみよう。以下の引用は、彼女が見知らぬ他人に話しかけられた場面である。


――水元:こんにちは。
  清美:えっ?
  水元:デートですか。
  清美:はい?
  水元:彼氏と?
  清美:ええ。
  水元:ここ、初めてですか?
  清美:なんですか?
  水元:いや、僕ね。昨日もここへ来たんです。
  清美:はあ。
  水元:あなたの彼氏さんね、昨日、違う女の人と来てましたよ。しかも、席まで同じ。
  清美:!
  水元:かなり親しげな様子でした。すみません、突然こんなこと。あなたがその、とてもいい人そうなので。(九場)


 この場面で彼女は、恋人である優二と喫茶店にいる。優二はトイレに行くために席を外している。その瞬間彼女は見知らぬ他人に話しかけられた。彼女の反応を見てみよう。あいまいな返事をしながら、「なんですか?」と相手を誰何している。これは、私たちの反応と何ら異なるところはない。私たちのする反応の中でもむしろ親切な部類に属するだろう。彼女の「非凡」と言える反応はこの後にある。その場面を紹介する前に、清美にとって、水元という人物の目的が明らかになった事実を確認しよう。彼女にとって水元は、恋人の不実を伝える第三者となる。あなたならば、この状況にどう反応するだろうか。動揺を隠しつつ黙殺するか、それとも、「ほっといてくれ」と他人である距離を強調するだろうか。続きを見よう。


  ――清美、席を立つ。
    突然、水元をひっぱたく。

  水元:でっ。
  清美:謝って下さい。
  水元:?
  清美:私たちの時間をめちゃめちゃにする権利が、あなたにあるんですか? ないでしょ? 謝って下さい!
  水元:……。
  清美:謝って下さい。


 まず、この反応の激しさから、「幸福な日常」を乱す要素を何が何でも排除しようとする心の毒が覗く。恋人が他の女と会っていたかどうかよりも、いまこの瞬間の「幸福」を乱す存在が許せないというようにだ。しかし、それが「謝って下さい」という言葉に収斂するときに、一つの「非凡さ」が感じられる。彼女は望まぬ事実を告げる他人を、黙殺もしなければ、他人として遠ざけようともしない。自身を不快にさせた事実を相手に認めさせ、それを謝罪させようとしているのだ。

 清美の行為は常識外れだと言える。しかし、そのことは清美が日常的習慣の軽さを踏み越えていることを意味している。水元の言葉を容れ、自分の思いをストレートに告げる彼女。不幸を告げる第三者を自分と同じ人間として扱っているのである。私たちは果たして、彼女のように見知らぬ他人に対してこのような真心を持つことができるだろうか。彼女は瞬間的に、そうした得難い正しさを選び取った。この瞬発力が非凡であり美しい。

 心の毒に苦しむものが、同時に心の美しさをも併せ持つ事実。引用の場面には、その両者を一つの行為で表現することで、共感という言葉では収まらない人のあり方を教えてくれる。彼女のある面に共感し、同時に驚嘆すること。それは真山清美を自分とは異なるリアルな個人として見ることに他ならない。だから真山清美とは、一人一人が取替えの利かない個性を持つ、私たち自身となるのだ。【次を読む】
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2006年11月16日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (2)真山清美とは誰か・1

 真山清美は「二十六歳、A型。言うまでもないですけど、いわゆるOLですな。独身です。」(第七場)と言われる通り、やはり平凡な人間であると言える。ただし、彼女にとって平凡さは、自身を傷つける毒のように働いている。その毒とはどんなものか。それは例えば、次のような場面から感じ取ることができるだろう。以下は恋人である木下優二との会話である。やや長く引用するが、じっくりと清美の感情を探ってほしい。


――優二:よし、何食べたい?
  清美:なんでもいいよ。
  優二:何言ってんだよ。お前が食いたいもんにするから。
  清美:えーっ。うーん、なんだろ。
  優二:早く、早く。
  清美: んー、じゃあ、オムライスかなあ。
  優二:オムライス? オムライスかあ。
  清美:あ、やだ?
  優二:ん?
  清美:なんでもいいよ。優ちゃんは?
  優二:んー、ラーメンだな。
  清美:いいよ。ラーメンにしよ。
  優二:そう? ラーメンにする?
  清美:うん。
  優二:ラーメン食べたい?
  清美:うん、ラーメン食べたい。(六場)


 優二の身勝手な振る舞いへのコメントはここでは行わない。重要なのは、清美が優二を過剰に配慮している事実である。「オムライス」を食べたいという希望を、「オムライスかあ」「ん?」という反応で撤回する素早さは、優二の機嫌を損ねることを極度に恐れているようである。そして、優二に訊かれるままに「ラーメン食べたい」と答える時に、彼女は確実に傷つくことになるだろう。

 傷つくのは恋人の身勝手さに対してだけではない。それは彼女が求める「恋人との幸福な生活」に対して傷ついていると言える。清美が優二を許し続ける背景には、相手に優しくし、そして優しくされる平凡かつ幸福な日常を過ごしたいというささやかな希望があるはずだ。だからこそ、彼女が過ごしたい「幸福な日常」を乱す要素を敏感に察知し回避しようとしている。変わらぬ優しさによって、「恋人との幸福な生活」を維持し続けようとしているのだ(これが「幻想」だなどと、誰も呼ぶことはできないだろう)。

 だが、清美は自身と「幸福な生活」の差異を自覚せざるを得ない。その明白な差異が、優二に傷つけられた清美の心をさらに苛む。引用の場面は、求めた「平凡さ」が二重に清美を傷つけている事態が物語られている。求められた「平凡さ」が毒となる。「日常」は自身の魂を軽くし、「平凡さ」はそれと一致しない自身の心を毒として蝕む。平凡な日常を生きる人の心とはかくも複雑なものである。

 その心の複雑さを『あなたへ』という物語はトレースしていく。どこにでもある些細な会話をリアルに提示することで、こうした心の在りようをすくい上げている。そのことが既に心の救済となるかもしれない。だが、『あなたへ』を観劇するものは、そうした共感とは異なる要素に目を開くことになる。例えばそれは、「平凡さ」を求めた真山清美の振る舞いにある。次に、彼女の「非凡」と言える行動を見てみよう。それは、一口に言って美しいものだ。

(この節、続く)【次を読む】
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2006年11月15日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (1)田中博司とは誰か・2

『あなたへ』という物語が始まろうとする暗転の中、私は携帯電話をかちゃかちゃともてあそぶ音を聞いた。これは田中博司の行為である。舞台から伝わるこの音は、端的に居心地悪い響きを持っていた。新しい物語の開始が、客席と同質の日常的すぎる行為に浸されているのだから。

 日常に浸されているのは物語だけではない。田中博司の心は、日常的な行為に染められている。先に述べた通りに、彼は知人に無視されるという異常事態に直面して、なおも携帯電話をもてあそぶ行為に及んでいる。

 同様のことが、彼と寺崎守との対話の中で、滑稽な印象を伴って明らかになる。「公衆電話って、気持ち悪くありませんか?」「携帯で通話した後、画面にほら、脂がつくでしょう。」「自分のでもげっそりするのに、人のがついていると思うと……。」

 この、田中博司が語る神経質な感想は「いまだ自身の死を自覚しないもの」の場違いな発言となる。ここには同時に、平凡さをめぐるグロテスクな事態が物語られている。ここで気持ちが悪いのは、電話機に付着する「脂」ではない。人の心に頑迷に付着している日常的習慣がグロテスクなのである。

 日常的習慣に侵食された心は軽い。この冒頭では、田中博司自身の心が欲した固有の何ものかが見失われている。この田中博司とは、魂を軽さにからめとられている幽霊なのである。彼が存在を軽さにからめとられながら携帯電話をもてあそぶ時、彼の置かれた不条理な状況への困惑も、悲しさも明確には表現されない。ただ暇をもてあます人物にさえ酷似してしまうのである。

 存在の軽さというグロテスクな事実。『あなたへ』という物語の冒頭が、分かりやすい悲劇にも喜劇にも傾かないのは、この一事によるだろう。悲劇と呼ぶには物足りなく、喜劇と呼ぶには深刻すぎる。だがしかし、この軽さこそ、日常を生きる私たちの置かれている厄介な業であることも間違いない。

 だから田中博司とは、魂が軽さにからめとられた私たち自身でもあるのだ。『あなたへ』という作品は、そうした私たち自身を描くためにこそ、携帯電話をもてあそぶ音で開始されなければならなかったと私は思う。私たちという軽さへ向け、物語は紡がれようとしている。【次を読む】
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2006年11月14日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 一章「あなた」とは誰か? (1)田中博司とは誰か・1

『あなたへ』と題された作品の登場人物の全員は、私たちが強く共感を覚えるような存在である。言ってみれば、どこにでもいそうな平凡な人間なのだ。例えば田中博司がそうである。「サラリーマンの鑑」と言われるように、彼は典型的な会社員の風貌を持つ。『あなたへ』という作品は、この田中博司の登場からはじまる。物語の冒頭、彼は一人公園のベンチに座って、携帯をもてあそぶ。これはまさしく平凡な行動であり、逆に平凡でありすぎるがゆえに、その行動がいかなる意味を持つかと私たちの目を引きつけることになるだろう。

 この田中博司は自分が死んだことに気づかない幽霊である。物語を識る私たちにとって、このこともまた平凡な事態だとは言える。心霊体験を持たないにせよ、私たちは即座にそうした幽霊をいくつか挙げることができるほどに、幽霊譚には遭遇しているはずなのだから。

 しかし、そうした納得に引きこもることを許さない気配がこの作品の冒頭にある。なぜ幽霊になってまで、彼は携帯電話をもてあそぶのか? この行動は彼の幽霊だという異常事態に対しても平凡すぎるのではないのか?

 そのことを理解するために、彼の置かれた状況を整理してみよう。幽霊である田中博司は、出社しようとして「社員証が通らなく」なり、「警備員」や「同僚」にまで無視される。こうした異常事態に対して彼は「なんだか悲しくなってしまって、なんというか、休みたい気分になって」、公園のベンチに悄然として座ることになる。

 異常事態に対して、人がむしろ習慣的な行動にしがみつくということは周知のことである。田中博司もまた、そうした行動をとっていることは間違いない。また、彼には「会社には連絡しようと思った」という携帯電話を扱う正当な理由もあるのである(ちなみに田中博司には自分の携帯電話は扱えない。それは「記憶が見せている」だけで「実体がない」)。

 つまり田中博司は、習慣的な行動にしがみつく人間らしい幽霊だと言える。しかし、何より重要なことは、死にみまわれ知人に無視されている彼が、全く悲しそうに見えないという事実である。それは、携帯電話をもてあそぶという平凡すぎる行動によってそうなのである。

 ここには、平凡さというものが持つ、グロテスクな事態があるだろう。

(この節続く・上の引用は全て『あなたへ』の第一場より)【次を読む】
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2006年11月13日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 序 「『あなたへ』の作品論を書くにあたって」

 2006年12月5日、劇場「アール・コリン」と東京青松の共同企画のトークイベント「おはなしの時間」に参加した。東京青松の総合プロデューサーである篠田青と、「アール・コリン」の小屋主である土屋吾郎という、演劇の送り手の対談である。対談といっても討論というより、会場の空気に呼応するように「いろいろなこと」が話題にされていた。それらのつながりを読むことに集中した気もちいい時間を過ごすことになった。

 が、同時に、この送り手たちの話を聞くうちにもどかしい思いも感じた。彼らが演劇を送ることに託した意志の大きさと自負ははっきりと伝わっている。だが、その大きさが一作の演劇にはたして込められるものであるのか。それは具体的にどのようなものなのか。私には想像が及ばなかったのである。

 これは創作の核を即座にイメージしたいという私自身の性急さかもしれない。一方、彼らは自身が送り出す作品に対して寡黙だったとも言えるだろう。しかし、その不足を埋めるように、聴衆の誰もが感じたはずの彼らの「強固な信頼」が――送り手たちの意志の大きさや自負が――抽象的なものではないことを証しているように思われた。

 いま用いた「強固な信頼」という言葉は、「おはなしの時間」の中で語られている。篠田青は大意として「送り手と受け手の関係だけでなく、人と人とに強固な信頼を築くことが現在に必要である」と語った。ここには正論以上の含意がある。しかし、私がまたしても理解したいというもどかしさを感じるのは、『あなたへ』という作品の主題がまさにそれであると感じていたからだ。

『あなたへ』という作品には、「運命」や「家族」という絆を示す言葉はまったくあらわれない。一般的にこうした絆に頼らずに人が「強固な信頼」を築くことは端的に困難であるのにもかかわらずである。「ありふれた親切」でも「獏とした信頼」でも「社会正義」でもない。そうした物語めいた概念によらず、他人である私たちが具体的に「強固な信頼」を生み出すこと。この得がたい現実が本作で物語られていたはずだ。『あなたへ』と題された今作は、私たちの生に欠けたものを届けようとしているだろう。

 その「強固な信頼」を生み出すものが何なのか。またその「信頼」が何を生み出すのか。そのことを私は『あなたへ』から探り当てたいと思う。『あなたへ』には確かにそれが含まれていると私は直観する。直観するが、私はそれを言葉に移すことができないでいる。私が感じるもどかしさとは、結局、私の『あなたへ』という作品の大きさや捉え難さに対するとまどいであると言えるかもしれない。その捉え難い魅力を求めて、私は『あなたへ』をこれから論じていきたいと思う。【次を読む】
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