2007年07月25日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(2)名づけによって

――父:やはり、行くか。
  一光:はい。
  父:……わしは、この日を待ち焦がれていたのかもしれん。
  一光:?
  父:お前の名を付けるときな。
  一光:は。
  父:これが、大変だった。猫の子にすら名を授けたことのないわしが、やんごとなき子の名を付けなくてはならん。
  一光:そんな。
  父:まあ、聞け。最初に思いついたのは「桃太郎」だった。
  一光:桃太郎?
  父:桃のようなものから生まれたから、桃太郎。単純だろう。あまりにも単純な上に、あれは桃ではないのだから、やめた。(三場)


 父の話はこの後も続く。未整理と言えるその話の長さによって、別れを惜しみ続ける父の心の流露が感じられる。彼が語る名づけの行為には、人間にできる冒険がある。まず、父は「桃太郎」という名前を慎重に退ける。桃の中に赤子がいるという奇跡的な出来事をただ受け容れているのでなく、そこに等身大の観察や思考を通わせているのである。

 次に父は「桃」以外の赤子の起源を想像する。引用の後に、「天助」「天太郎」「月光」「星光」「照助」「輝太郎」というさまざまな名前を考えた事実が語られている。それらの名前は全て、一光が「どこからやってきたのだろう」という発想から生まれている。しかし、あるときから「どこからやってきた」という起源はもう重要でなくなるのである。

 生きている時間を想像しよう。赤子を腕に抱く独身男のいる時間である。彼は赤子に名づけようとして「天」や「星」など赤子の起源(の推定)を名に記そうとした。そのどれもうまくいかない。彼は最終的に「一光」という名を選ぶ。この命名の瞬間に彼は起源のことを忘れている。おそらく、赤子の生命を「ただ一つの光」と感じているからである。

 生命とは未知である。そして、その未知の中には何か大きな意味があるとも感じられる。特に生まれたての生命に出会うとき、私たちはそうした感覚を持つ。きっと赤子を抱く独身男もそうである。父は「光」という名を赤子に与えようとするが、それは天からの「光」ではない。地上の一つの生命の内にある輝かしさを「光」と感じたのである。

 このようにして父は「一光」と命名する。一光から最も大切な現実を受けとって名づけている。同時に、受けとった現実を一光に与えているのである。名づけによって、人はかけがえない固有の現実の交換を行う。「これが、大変だった」と振り返ることから、頭を絞り心を込める等身大の信があることも確認できるだろう。この名づけこそ父と一光が共有する「心の起点の時間」を与えることになるのである。【次を読む】
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2007年07月24日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 三章 世界を更新すること(1)等身大の信によって

――父:不思議だろう。わしの学問は、これを解明することだったのだ。
  一光:ここの涼しさは、一体……。
  父:からくりで暑さ寒さを調整している。
  一光:からくりで?
  父:この箱には、これ以外にも多くのからくりが詰まっている。いや、この箱自体がからくりなのだ。
  一光:箱?
  父:うむ。これが、赤ん坊のお前が入っていた「桃のようなもの」だ。
  一光:そんな! 父上は、これを川から運んだのでしょう?(二場)


 父と一光は「桃のようなもの」の中にいる。それは持ち運びできる大きさを持つ。しかし同時に、引用直後に父が語るように「この箱と、箱の外とは、異なる世界になっている」のである。箱の内部は「異なる世界」であり、彼らはその広い空間の中に居る。

 ところで、演技空間もまた「箱の外とは、異なる世界」である。だから「桃のようなもの」という空間が、演劇の中で物語られても驚くことはない。驚くべきは、演技空間の地が固まらないわずか二場で想像が難しい「異なる空間」を登場させていることであろう。

 ここに一つの自信がのぞく。それは「役者が信じたものならば、観客も信じることができる」(篠田青『東京青松の道/東京青松から』その8「厄介な人種」)という自信である。つまり、役者の「信」は作品空間を生み出す力を持つというのである。

 この「信」の質を物語る言葉が引用にある。それは「わしの学問は、これを解明することだったのだ」という父の台詞だ。父はただ「桃のようなもの」を拾いその中の一光を育てたわけではない。「解明」を目指すような観察や思考とともに一光を育てていたのである。

 つまり、フィクションの空間を生む力は役者や観客の盲信にはない。登場人物の等身大の観察や思考に基づく「信」にあるのだ。観客は等身大の信ゆえにそれを共有する。そうして空間の仮構が成立するのである。演劇の基盤が、現実への等身大の信に基づくこと。この健康な発想が微動する空間を顕在化させ、フィクションに独自の冒険をもたらすことになるのである。【次を読む】
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2007年07月23日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに 章末 信に立つものの冒険

「イディオット・プロット」という言葉がある。ありえない行動を選択する登場人物の振る舞いをさす。具体例を挙げる。例えば災害に遭遇して、母親が子供を置いてどこかへ出かけてしまう。こうしたありえない行動を含む物語を批評する言葉が「愚かものの筋書き」である。

 登場人物が「愚かもの」である理由がある。彼らはフィクションの都合を受け入れているのである。先の具体例で言えば、母親の行動は子供に単独行動の余地を与えている。時に作者は「イディオット・プロット」に対して周到に理由を積み上げることによって、フィクションの都合を消そうとする。

 しかし、このとき失われるものは大きい。周到に理由を積み上げるにせよ、ご都合主義によって放置するにせよ、当然の行動を不可能とした事実はフィクションの中に刻まれている。つまりそれは、フィクションの主題に人間の無力というものを刻印することになるのだ。

 もちろん、私たちは大いなる時間を前に事実微力だ。登場人物も筋書きという「大いなる時間」に対して微力なのも間違いない。しかし、私たちも登場人物も微力ではあるが、全力でできることをするだろう。だから私たちは「愚かもの」ではない。

『べつの桃』という作品は、登場人物を「イディオット・プロット」から解放している。それどころではない。「大いなる時間」の操りの向こうにある時間を実現しようとする。私はそのことをまだ論じていない。論じてきたのは、筋書きという「大いなる時間」に対するもう一つの時間の存在である。

『べつの桃』の登場人物は、誰かと過ごす時間に純粋な幸福があると知っている。そしてその思いを共有する強さも知っている。彼らはこのような時間の経験を持っており、それを「心の起点の時間」として「大いなる時間」に向きあうのである。一章で私は無辺の空間を論じたが、二章の時間はこの一つの対立によって記述できる。

「大いなる時間」の中に私たちは囚われている。しかし、「大いなる時間」のために私たちが存在するのではない。登場人物もそうである。強大な「大いなる時間」と向きあうために、「心の起点の時間」という信に立つこと。この信に立つものの冒険こそ、微力な人間にできる唯一と言っていい現実的な行為である。 次章では、その行為について論じていく。【次を読む】
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2007年07月22日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(6)パラレルの時間の一つを生きること

――キジ:噂だからね。話は続くよ。桃から生まれて、桃太郎と名付けられたその赤ん坊。今じゃすっかり大きくなって、近所でも評判の力自慢。それを生かして、人々を困らせている鬼たちを退治しに行くことにした。
  (略)
  キジ:さらに、桃太郎と犬と猿は進みます。と、今度は雉がやってきました。
  サル:雉もかよ!
  イヌ:そんな馬鹿な。(七場)


「噂」として語られた「桃太郎」の物語の意味とは何だろうか。彼らにとって、それが自尊心を傷つけるものであることは間違いない。彼らの一人は「そんな馬鹿な」とつぶやく。自分の信じたオリジナリティが傷つけられているからである。

 彼らにとって「桃太郎」の物語は残酷である。心の起点を確かめながら進んできた旅と、ほとんど同じように旅するべつの者たちの存在を伝えている。『べつの桃』のフィクションの時間が、「桃太郎」の時間とパラレルであること。そのことが、彼らが特別な存在であるという特権をきれいに剥奪していくだろう。

 特権が剥奪された時間を生きること。このとき、『べつの桃』の時間は私たちの時間と近似してくる。私たちは、自分たちが特別な存在であるという理由によって、ある時間を生きる権利が与えられているわけでない。この意味で、私たちは特権が剥奪された時間を生きているのである。

 もっとも、私たちは「そんな馬鹿な」と叫んだりはしない。というのは、私たちにとって人生がパラレルであることは自明だからだ。しかし、それを本当に受け入れているかは疑わしい。この疑いを裏づける材料として、フィクションの一つの効果を挙げることができる。

 フィクションの中の「運命の時間」は、私たちの現実を束の間忘却させる。それはどんなフィクションでもそうなのである。そこに「運命の時間」があるならば、私たちはそこに「剥奪された特権」を幻想することができる。フィクションはこうして、パラレルな時間を忘却させる効果を持つ。

 フィクションに現実の忘却を求める人間の性によって、パラレルな時間は受け入れがたいものであることが分かる。現実の時間を生きる困難を認めよう。この立場に立つとき、『べつの桃』の登場人物が固有の時間を生きようとする努力が「つくりごと」を超えた意味を帯びてくる。そう。『べつの桃』は逃避のためのフィクションでない。

『べつの桃』の登場人物たちは運命の必然を生きてはいない。フィクションの構成された時間の中で、彼らの心が求めた時間を懸命に生きているのである。そのことは、ここまでの文章によって論じてきた。そして引用の瞬間から、彼らは私たちと同じくパラレルな時間の一つを生きる困難と立ち向かう。【次を読む】
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2007年07月21日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(5)約束が共有された時間

――サル:うるせえんだよ、お前は! 畜生、俺は女は苦手だし、扱いも下手だがよ。あんたに寂しい思いはさせねえよ。
  キジ:なんだい、いい奴じゃないか。ねえ、いっちゃん。
  一光・イヌ:いっちゃん!(六場)


 ここに一つの約束がある。サルは言う。「あんたに寂しい思いはさせねえ」と。その言葉はキジの心を明るくする。さらには、場自体をハプニングのような明るさをもたらしている。このとき、集団の中に「寂しい思い」はない。つまり、一つの約束が集団のありようを変えてしまっている。

 しかし、約束はいつまで効力を持つのだろうか。サルは確かに「いつまでも」という意味を込めている。しかし、彼らは旅の途上にあるのだ。その旅の中で、彼らの運命がどのように変転していくかは不明である。だから、約束は「いつのまにか」反故にされてしまうかもしれない。

 約束は時間を支配しない。約束が示すのは、時間の運命を越えたいという希望である。だから、約束というものは時間に対する私たちの無力さを印象づける。この無力さはいじましい。だが、無力なだけではない。約束はフィクションの中に、彼らが生きるべき時間の理想を導入しているのである。

 約束は心が望んだ時間のありかたを示す。「あんたに寂しい思いはさせねえ」とサルが言うとき、心が望んだ一つの時間を明らかにしているのだ。彼らが一生ともにあること。サルの言葉は心が望んだ理想の時間を率直に告げている。

 そして、集団の中にこの約束がとけこむとき、サルの理想は全員の理想となるだろう。フィクションの一過程で、新たな理想の時間が生み出されている。その時間を彼らが生きるかは不明だ。しかし、共有された時間が彼らの心の起点となりうる。その「心の起点の時間」によって、彼らは未来と対していくことになるだろう。【次を読む】
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2007年07月20日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(4)時間たちのせめぎ合い

――一光:すみません、あまりにも唐突で……。私は今、自分が何者なのかすら、理解できずにいるのです。
  父:そうか。そうだな。すまない。

         暗転。
         (ト書略)
  父:やはり、行くか。
  一光:はい。(二場から三場)


 暗転の中で時間はどう変化するか。それがほんの一瞬か、数日であるか私たちには分からない。ただ一つ明らかなのは、これまでの時間が貫通していることである。いや、それは正確には貫通ではない。私はすでに複数の時間について論じている。暗転の中では、圧縮された複数の時間たちがせめぎ合う。この時間たちのせめぎ合いこそが、暗転と演劇形式に一つのうねりを与える。

 引用を見よう。「真実の時間」が一光を混乱の極みに陥れている。「真実の時間」が強力に存在を主張している。しかし、それだけではない。一光の「心の起点の時間」がここにはある。そして、にせものの時間を生きることを選んだ父の「孤独の時間」もある。暗転の中で複数の時間たちがせめぎ合うのである。

 時間たちのせめぎ合いは、アイデンティティの危機を生む。「真実の時間」は新しい一光の可能性を伝える。だが「心の起点の時間」も別の一光がいる事実を教えている。さらに「孤独の時間」を過ごす父が愛した一光の過去の姿も感じることもできるだろう。アイデンティティは、異質な時間の中の「自分たち」から「自分」を生みだすことによって確立されなければならない。

 一光のアイデンティティはどう確立されるのか。「やはり、行くか」と「はい」の応答の呼吸の中で、彼らが一つの解決を選んだことが分かる。一光一人がそれを確立するのではない。対話が可能な他者と生きるために確立されるのである。アイデンティティの格闘の一切を略して、得難い正しさが選びとられたことが伝えられている。

 フィクションの時間たちのせめぎ合いが、登場人物のアイデンティフィケーションのうねりを生んでいる。アイデンティティは目に見えない。だから、暗転の不可視で感知するのがふさわしい。ここに人間の営為をトレースする形式の充実があるだろう。それと同時に、時間たちのせめぎ合いがいのちに圧縮されるという、人間の驚異がここにある。【次を読む】
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2007年07月19日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(3)孤独という時間

――父:……一光。わしはお前を育てた。
  一光:ええ、もちろんです。感謝しております。
  父:育てたが、それだけだ。育てただけなのだ。
  一光:えっ?
  父:お前は、わしの妻から生まれたのではない。
  一光:!
  父:そもそもわしは、所帯をもったことがないのだ。(一場)


 引用のこのとき、過去という起源がフィクションに導入されている。過去という起源は「真実の時間」となる。その時間が二人の時間を変化に追いやるだろう。一光はひどく驚いている。その驚きが、彼を育むと同時に彼自身が育んできた「心の起点の時間」の存在を弱めているだろう。

 この場面にはもう一つの時間がある。それは「所帯をもったことがない」という父の時間である。「妻」を持つことなく一光を「育てただけ」という父が過ごした時間が、「真実の時間」や「心の起点の時間」とともに引用の場面に圧縮されている。

 ところで、父の語る言葉から、彼が二つの嘘をついていたと分かる。一光が実子であること。そして、妻がいたことである。つまり、父は「真実の時間」を告げると同時に、子も妻もない独身男に変じるのである。

 ここに父の孤独がある。独身男だからではない。子も妻も持つ人間であると偽ることでそう印象づけられるのである。独身男がいつからか妻子持である嘘を生きること。父の個である孤独が感じられる。

 この「孤独の時間」に思いをはせよう。きっと、後に一光がそうしたようにである。それは父の孤独のみを伝えるものではない。にせものの時間を選び、幼い一光に向かった決断の意味を想像させてくれる。「真実の時間」によって、全てが覆われるものでないことが了解されるだろう。【次を読む】
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2007年07月18日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(2)「真実の時間」vs「心の起点の時間」

――父:……一光。わしはお前を育てた。
  一光:ええ、もちろんです。感謝しております。(一場)


 フィクションは彼らの時間を変化させる。その変化を告げるのは「過去」である。「お前を育てた」というかつての事実が語られることで、この時フィクションに過去が導入されている。フィクションは現在と過去を構成することで、特別な意味を産出するだろう。

 過去はフィクションの中に厚みをもたらす。しかしそれはただの厚みではない。過去は登場人物たちの起源となる。いま父の口から語られるのは一光の起源であるが、その起源が語られることによって一光の時間は変化する。過去と現在のつながりが与えられ、彼は「真実の時間」を生きることになる。

 こうして、過去という起源は「真実の時間」を生み出す。だが、「真実の時間」が始まれば、今までの時間を捨ててよいわけではない。ある種のフィクションはスピーディーな展開を求めて「嘘」を次々と捨てていく。しかし『べつの桃』はべつの運動を作品にもたらしているのだ。

 一光の言葉に注目しよう。「感謝しております」。この言葉の中にあるべつの時間を感じ取ろう。

 この言葉は「育てた」という過去の時点だけを指しているわけではない。過去から現在まで存続する思いを伝えている。つまり、この言葉は過去から現在まで存続する感謝の時間から生まれている。おそらく一光にとって自分の人生を振り返るとき、最も意味を持つのは父への感謝である。だからこうも言える。それは一光の「心の起点の時間」となりうる。

「心の起点の時間」とは何か。それは自発的な思考や行動の際に心が想起する時間である。思考し行動するとき、それが受けいれられる未来を自然と期待する。このとき、未来は私たちの心の中で一つの実感を持っていると言える。この時間への実感が「心の起点の時間」である。実感の傾きによって、「心の起点の時間」は私たちのアイデンティティの原型となるだろう。

 まとめよう。「真実の時間」を語りはじめる父に対して、一光は「心の起点の時間」を無邪気に答える。そのことで、異質な時間が一つの場面に圧縮されている。良質なフィクションはこのような時間の密度を持つ。そして、それらの時間の意味を捨てずに受けとめるものである。【次を読む】
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2007年07月17日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 二章 心の起点の時間とともに(1)無防備で無傷な時間

――一光:ただ今帰りました。
  父:うん。
  一光:いかがですか、学問は。
  父:うん。まあ、ぼちぼちだ。
  一光:そうですか。良かった。
  父:うん。
  一光:具合はどうです?
  父:うん。悪くない。(一場)


『べつの桃』の冒頭である。もし、この部分がラスト・シーンだとしたらどう読めるだろうか。濃やかな愛が通うこの時間が、フィクションの最後を飾ってはいけない理由はどこにもない。これも一つの人生のゴールでさえあるだろう。これもまた「悪くない」と思う。

 しかし、引用はあくまで冒頭である。フィクションというものは、例えばゴールでありえたかもしれない一つの瞬間を構成し「冒頭」を生み出す。これが冒頭であるために、私たちは愛の時間がどう変化していくかということを意識させられることになる。

 フィクションは時間を構成する。この構成された時間の中で、物語内の時間の意味は変容させられる。その力を無化することは不可能である。そして、変容を義務づけられた時間であるという意味で、フィクションの冒頭の時間はいつも「か弱さ」をたたえている。

 冒頭にある「か弱さ」は、他のはじまりがありえたかもしれないという意識から生まれるものではない。もちろん、その意識は他の多くの作品と比較させる。しかし、私たちの意識に先立って、フィクションはそれ固有の時間をつむいでいるのである。

 そして、この「か弱さ」は作品の「弱み」ではない。創り手は時に冒頭にインパクトや謎を備えさせその「弱み」を消そうとする。しかし、どんなにインパクトや謎を備えようと、フィクションの冒頭には本質的な「か弱さ」がある。

 引用に戻ろう。一光が父に愛情を注ぎ、父が心からくつろいでそれを受け取るこの時間には、変化に対する意識はない。変化の運命というものを、彼らは全く意識しない。もし、どちらかに不幸があれば、それが致命的に互いを傷つけるような親密さで日常が送られている。

 つまり、彼らはフィクションが構成する時間の意味に対して、そして冒頭がたたえる「か弱さ」に対して無防備である。だからこそこうも言える。その無防備のために彼らは強い。すぐ訪れるだろう未知の変化に対して、いまを不足させようとはしないからである。

 互いを思ういまという時間を生きること。それがあえなく変化するとしても、彼らがいまを永続するものとして感じた事実はフィクションに残る。『べつの桃』の冒頭は、フィクションの構成に対して無防備な、だが生きるものの無傷な時間を伝えている。【次を読む】
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2007年07月16日

星屋心一の作品解説・植林四本目篇
 一章 生きている空間の中で 章末 解放された無辺の空間

 ここまで空間をキーワードにして論じてきた。しかし、「『べつの桃』の空間とは何か」や「演劇の空間とは何か」という固定的な結論を書くことはできない。

 なぜなら、私は無数の空間を論じたからだ。最初は静謐な劇場空間の緊張について。次に俳優の身体が「個」という空間として感じられる事象を。そして、その「個」と「個」がつながるいのちの空間形成について私は論じている。この時点で演劇空間はダイナミックだと言えるだろう。固定的な結論は似つかわしくない。

 その一方で、フィクションに対する演劇のコンプレックスについて一定の紙数を割いて論じた。このコンプレックスは演劇空間への不安から生まれる。劇場が劇場に過ぎず、俳優が俳優に過ぎないこと。その根底に対する不安が存在する可能性を書いた。背後の不安を抱えたものがやみくもにどこかを目指し、周囲と同調を図ること。こうした徴候を「暗転恐怖」や「ギャグ偏重」に対して私は感じる。それが偏見であれば幸いである。

『べつの桃』が演劇の不安をどう解決したか。それは『べつの桃』よりずっと以前に作られた「篠田青の『東京青松の道/東京青松から』」を読めば明らかである。「真の基礎訓練とは、日常と自分の揺れを知ることです。感情の動きなどという大雑把なものではなく、ごくごく微細な揺れ。普通であれば見逃す、あるいは忘れてしまうような小さな心の波を、しっかりと受け止める。」(「その8「厄介な人種」

 人間の心身に「微細な揺れ」という微動がある事実。その「小さな心の波」に基づいて劇場と俳優を物語空間として生かすことへの確信が語られている。演劇形式への深い信頼によって、演劇の不安は払拭されている。いや、「不安の払拭」どころでない。「解放」のイメージが「篠田青の『東京青松の道/東京青松から』」で繰り返し語られていた。「解放」という言葉は、束縛からより広い空間に向かうことを意味する。

 その空間とは何か。それは演劇的演技法から解放された微動空間である。そして、この微動空間は良質なフィクションの空間となる。さらに、フィクションは無限の仮想空間を私たちに与える。そればかりではない。フィクションは私たちに「世界」さえも与える。そう。作品が生きている空間は、解放された無辺の空間と言える。このような演技空間を『べつの桃』は生み出しているのである。

 一章で記述したのはこの無辺の空間のほんの一部だろう。空間というキーワードを用いて私が論じたかったのは、『べつの桃』が破格の演技に基づいた作品であること。さらに、その演技がフィクションとの分割を拒むものであること。その二点である。雲のようなフィクションの自然な調和を壊しながら、私はその主題を書くことを選んだ。演技についての言及を終え、次章ではフィクションについて論じていきたい。【次を読む】
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