2006年12月08日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 跋 「『あなたへ』の作品論を書き終えるに際して」

 いま私が感じるのは安堵である。やっと文章を書き終えられる。私は「序」で「作品の大きさや捉え難さ」を書くと宣言した。そこから逃げることなく文章を書き進めることができ、心の底から安堵を覚えている。

 拙文を読み返して確認したことが一つある。ここには冴えた文言や独創的な見解はない。この文章の中に読むに値する部分があれば、それは『あなたへ』という作品に固有のものである。そのことは保障できると思う。

 しかしながら、拙文が作品の再現たりえたかには全く自信がない。例えば、本作の時間の進行の仕方について私は触れることができなかった。およそ一週間足らずの作品内の時間が、たんたんと進んでいく。次々と進んでいく出来事に対して、人間のできる一つ一つの行動はささやかなものである。この人間の実質が、時間の進行の仕方の中に含まれていたことを、私は全く触れることができなかった。

 このように、意識しながら触れられなかった事象はいくつかある。一方で、意図しなかったが触れられた事象もある。私がそう思うのは、東京青松の演劇以外のビジネスについてである。私たちの生の定義に対して、別の現実を提示すること。レクチャーやレッスンと様々なビジネスを開拓しようとする背景には、この芯への確信があるのだろう。企業秘密を覗いたような悪戯心をもって、そのことも書き留めておきたい。

「追求したのは芸術でも興業でもなく、ひたすら『人』」と篠田青は書く(ブログ『とうきょうあおまつぶ』「東京青松とは」より。2010年3月26日現在確認できる記事である。文章は2009年8月12日に起案されている)。そのことは、『あなたへ』という作品の時点で明確に示されている。そして、『あなたへ』の発表と前後して、「芸術」や「興業」を離れたビジネスの展開が開始されていたことを記しておく。『あなたへ』を東京青松のターニング・ポイントと呼ぶことはできると思う。

 しかし、いま私がこよないものに感じるのは、その追求の中から、新たな「芸術」や「興業」が生まれたことである。植林四本目『べつの桃』がそれだ。この作品は現時点での東京青松の最高作と評することができると思う。「植林」という語は文化的営為を意味する。「ひたすら人」でありながら、同時に「芸術」や「興業」ともなる営みの広がりようについて、私は論じることはなかった。

 論じることはなかったが、私はそれに励まされて拙文を書いたという実感がある。そして、その実感から東京青松の演劇活動を強く期待する。私の文章を書く最も大きなモチベーションは次なる演劇活動への期待であった。そのことを跋文に記して文章を終えさせていただきたい。【目次へ】
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2006年12月07日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 章末 信頼の中の強固さとは

 私たちが不確かだと感じるものが、強固なものである。『あなたへ』という作品は、このような認識の切り換えを求めているように思う。

 この章の一部で私は『あなたへ』の作品の中に含まれる強固な信頼について述べた。強固な信頼とは、他人の心のリアルを生きるという「心の同期」である。それによって生まれるものは、解放された心の過剰であり、日常的な幸福である。

 本作で描かれていたのはクライマックスだけではない。心の同期を準備する具体的な方法が本作では示されていた。それが「心の承諾」である。聞き入れられ、引き受けられる中で、心は自身に可能な奇跡を生み出していく。二部で寺崎守の仕事に触れることによって、私はそのことをどうにか示すことができた。

 この心の承諾は、日常生活を変える提案となる。寺崎守が行った心の承諾は、極言すれば一切のスキルを必要としない。心の承諾を行うだけで、人や世界の姿が変じていくだろう。本作の特筆すべき点は、それが職業や生活の場面で行うことが可能とした具体性にある。

 この提案を本作は、生活を営む私たち全てに対して行っていたように思う。私たち全てが心の同期や承諾を生きることができれば、世界は変わる。具体的提案の中に、世界のあるべき姿を示そうとしているのである。この理想の世界観の表明である本作は、全てのフィクションのジャンルの中でも希少なものと評することもできる。

 しかし、この文章の主題はそれらのことではない。心の同期と承諾がリアルであることを証明したいま、論じなければならないのは別のことだ。では何故、私たちの生と『あなたへ』のリアルとの間に、依然として距離があるのか。その最大の理由は、私たちの生の定義が、本作の描いた現実と異なるからだと思う。

 私たちの生の定義とは、「私」が一つの心をもって生きている、というものだ。この生の定義は極めて強固なものである。しかし、それは他者を信頼する強固さとならない。一つの心の外側にある他者は、いつも異質な存在である。もしその他者を信じようとすれば、それは現実から浮遊したイメージを信じることであり、それに殉じることになる。

 本作で描かれた現実はそれとは異なる。他人の心を自分の心の事実として生きることがその現実となる。ここでは、他者への信頼が、そのまま心を感じる自分自身への信頼となるのだ。この信頼は強固なものとなる。このように、一つの心の定義から開始される生と、心に住まう心から開始される生は、全く違うのである。

 この違いに対して、私が書きたいのはただ一つのことだ。私たちは他人の心を、弱く伝わる、あやふやで、不確かなものだと感じる。しかし、その感じ方は、他人の心のリアルの後に現われたのではないか。それが私たちの最も欲するものだからこそ、それを失うことに怯えて打ち消しているに過ぎないのではないか。

 最初からないことにすれば、そこに喪失の悲しみはない。しかし、喪失の悲しみや、怯えや、否認や、全ての負の感情に先立って、他人の心を強固に感じた現実があると思う。自分の心に強く、はっきりと、ゆるがないものとして他者の心が意識される現実があること。『あなたへ』という作品は、その意識の現実に就いて生きることを促す。定義よりもその現実を生きようとするとき、私たちの生は、きっと『あなたへ』と近づいていくだろう。【次を読む】
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2006年12月06日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・7

 他人が関わらない「職業」は存在しない。つまり、どんな「職業」にも他人の心が前提として存在する。それならばこうも言える。私たちの「職業」は本作の「国家公務員」とほとんど変わらない。幽霊=心のために存在する「国家公務員」と、私たちの仕事とはほとんど変わらないのである。

 この認識に立つとき、本作は私たちの仕事に示唆を与えているように思える。「国家公務員」寺崎守は、他人の心を承諾することでその職務を果たしていた。それでは、全ての「職業」も心を承諾することで、それぞれの職を充実させうるのではないか。

 心の承諾は、他人の心の事実に触れてタスクを生み出すことである。この行為によって得られるのは、「よく気がつく」臨機応変さだけではない。「自分と他人との確かなつながり」というものが、労働の過程の中ではっきりと現われているのである。

 私たちは「職業」の中に「自分と他人との確かなつながり」を求める。そのようにして、社会の中で生きる自分を肯定しようとする。これが私たちの職業観である。心の承諾は、この職業観が求めた目的を、結果ではなく過程の中に生み出す。これは現実的な幸福である。

 私たちが金によって生きているのも現実である。しかし、それによって「職業」の中に金以外の目的を求める現実を見過ごすべきではない。『あなたへ』という作品は、軽視しがちな職業観の中の幸福を示すことで、収入差によらない全ての「職業」とそれに就く私たちを肯定しているように思う。

 本作の「国家公務員」の「非現実さ」は心の承諾を職務として描いていることによる。つまり、「非現実さ」はそのまま私たちの職業の理想となる。その理想は私たちの職業上の幸福だけを約束するだけでない。そもそも、私たちが幸福なのは、他人の心に対して無意味でないと実感できるからである。

「国家公務員」という表象は、私たちと社会が、一人一人の心に対して意味があるという理想に基づく。つまり、理想の世界観というリアルがここにある。これを「非現実」と拒絶すべきではない。この拒絶の中で世界はくすんでしまう。この意味で、『あなたへ』という作品には、世界のために必須のリアリティが込められているということになるだろう。【次を読む】
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2006年12月05日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・6

「そうですか」と「うん」。前回の引用の場面で、寺崎は単にあいづちを打っているように見える。真山清美が田中博司の存在を感じる場面でも、その出来事から田中博司が昇天する場面でも、寺崎は精妙な心の現象の全貌を理解しているようには見えない。だから寺崎の仕事の本領は、本質の理解ではない。

 また、寺崎守がなした行為の印象も、このあいづちとそれほど異ならない。彼は田中博司の要望を単に聞き入れてきただけのように見える。寺崎の仕事が「うまく報告」される必要はここにある。つまり、彼の仕事の本領は、「国家公務員」のマニュアルに書き込まれるような性質のものでもない。

 本質の理解とマニュアルの実行。仕事に求められるものの両方を寺崎は持たない。では、寺崎の仕事の本領とは何か。それは乱暴に言えば、本質の理解を仕事に活かさず、マニュアルも実行しない点に求められる。

 最初の引用を見よう。霊能のない人間が、手紙を読む経験によって霊の存在を感じること。この出来事に対して、寺崎は「そうですか」と返答する。奇跡に等しい出来事を単なるあいづちを打つ軽さで応じている。しかし、この「そうですか」という返答から、相手の心がそのまま残る余地が生まれている。

 それは「そうかもしれません」などの別の応答を思い浮かべれば分かる。それらは「田中博司がここにいる」という本質の理解の表現となる。その表現によって寺崎は状況に関与することとなる。つまり、真山清美の心は寺崎の評価を受け取ってしまう。他人の評価を意識した心は、かつてとは異なるのである。

 次の引用を見よう。田中博司の昇天の場面である。寺崎守は「うん」というあいづちに続いて、「やっぱりこれで良かったみたいだな」と言う。「みたい」という曖昧さを残して仕事を進めている。ここにマニュアル意識は希薄である。ベテランであるはずの寺崎は、経験則というマニュアルさえもそこに当てはめようとしない。

 本質の理解でもマニュアルでもない寺崎の仕事の本領。それは自分の理解よりも他人の心を生かす配慮にある。さらに、生きた心が伝える要望を引き受けるために、マニュアルと異なるプロセスをたどる実務にある。この配慮や実務を一口にまとめよう。寺崎の仕事の本領は、心の承諾である。

 寺崎によって承諾された心たちが、彼らなりの力で最善の解決を引き出している。「国家公務員」のマニュアルを知る水元翼の眼には、田中博司の一件はそのように映ったはずだ。他のやり方では不可能だった。寺崎の仕事だけが、他人の心を励まし、それが生きる世界さえも励ましていた。このとき、他人の心も世界も、水元の理解を超えた別の顔を見せていたのである。

 こう書きたどっていくことで、非現実的な「国家公務員」という職業の意味をはじめてつかむことができる。この「国家公務員」は、心の承諾をなすべき全ての「職業」の理想となる。世界観と職業観がリンクするリアルについて、私は次回にまとめてみたい。【次を読む】
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2006年12月04日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・5

――水元:寺崎さん、僕、才能あります?
  寺崎:なんだよそれ。
  水元:いや、どうなのかなと思って。
  寺崎:ふっ。あるよ。お前なりにさ。
  水元:ええ? それじゃ意味ないじゃないですか。
  寺崎:バカ、あるよ。でなきゃ、俺が二人いりゃいいってことになるじゃねえか。(十五場)


 この会話の中に一つの前提がある。それは寺崎守の「才能」である。水元翼が「才能」の判定を請うとき、寺崎がそれに答えるとき、二人が前提としているのは、寺崎が「国家公務」という職業に就いている確かな意味である。

 ここに第三者が居合わせたならば、寺崎の「俺が二人いりゃいい」という部分は、自信過剰な響きを生むだろう。しかし、二人だけの会話の中にその響きはない。水元が言葉の中に込めた畏敬を、寺崎がくだけた返答の中で受け取るという言外の共有がある。

 水元は寺崎の「助手」である。しかし、「助手」という立場は寺崎への尊敬にはつながらない。「僕がうまく報告してるから、寺崎さんやってけてるんじゃないですか」(二場)と寺崎をあてこする水元にその意識は薄い。だからそれはまた、立場の違いの一要因となるだろう寺崎と水元の「能力差」でもない。

 つまり水元の畏敬は、田中博司の一件によって生じている。水元は「うまく報告」する必要があるような寺崎の仕事によってこそ、田中博司の件が解決に導かれたのだと感じている。この水元の印象を元にして、寺崎の仕事を捉えてみよう。逆に言えば、その印象を元にしない限り、寺崎の仕事の本領は私たちの眼には見えてこないだろう。

 その論は次回に譲り、以下に寺崎の本領が現れていると思う箇所を引用する。


――清美:……あの、これを書いてくれた方、近くにいらっしゃいますか?
  水元:えっ?
  清美:今、この近くに?
  水元:ああ、いえ。
  清美:そう。
  寺崎:あの、なぜです?
  清美:いえ、そんな気がしただけで。
  寺崎:そうですか。(十三場)


――寺崎:どうだい、すっきりしたかい?
  田中:ええ、気持ちが軽くなりました。
  寺崎:……そうみたいだね。
  水元:あっ。
  田中:え? あっ!

        田中の魂が地上から解き放たれるようだ。

  田中:寺崎さん、水元さん、私……。
  寺崎:うん、やっぱりこれで良かったみたいだな。(十三場)【次を読む】
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2006年12月03日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・4

――水元:寺崎さん、僕、才能あります?
  寺崎:なんだよそれ。
  水元:いや、どうなのかなと思って。
  寺崎:ふっ。あるよ。お前なりにさ。
  水元:ええ? それじゃ意味ないじゃないですか。(十五場)


 水元翼の言葉は、「職業」に対する誠実な、そして、極めて平凡な問いかけと思える。才能があれば、努力を投じる意味がある。才能があれば、社会や組織に認められる。才能があれば、誰かのために力が発揮できる。「才能」という言葉で求められているのは、自分が他者と関わる確かな意味である。

 他者と関わる意味は、自己完結できない。だから、水元が「お前なり」では「意味ない」と感じることは至極当然である。しかし、他者と関わることの意味は、結局「才能」でも完結させることはできないだろう。おそらく、この言葉はマジック・ワードなのだ。自意識の中でかりそめの完結をもたらすために、私たちは日々自分の「才能」を信じようとする。

 水元翼の発言は、「才能」をこのように求めている点で、平凡かつ日常的な発想であると言える。あちこちの職場で行われるものと何ら変わりはない。そして、この日常的な発想と、「国家公務員」という表象とを重ねたとき、私たちは一つの解釈を得る。それは「国家公務員の仕事は私たちの仕事と何も変わりはないのだ」という解釈である。

「国家公務員」には、このような日常的なリアルが与えられている。しかし、このリアルはまだ不十分だ。水元と寺崎のなした行為の成立条件となる「国家公務」のユニークさは、それを日常的なものと解釈することでは消化できない。

 だから、具体的な他者を想起すればよい。私はここまで他者を一般論として論じてきた。そのやり方だけでは駄目なのだ。田中博司と真山清美を思い出そう。彼らがなした心の同期を思い出そう。水元翼の発言は、そこから明確な影響を受けているものと捉えられる。

 水元翼の言葉ではなく、彼の心を辿ってみよう。そこから自然に浮かび上がるのは、水元翼が寺崎守の「才能」に畏敬している事実である。【次を読む】
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2006年12月02日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・3

『あなたへ』という作品の主題の一つを「職業」だと言うことができる。その傍証として、本作では登場人物全て「職業」が明示されていることが挙げられる。

「見りゃ分かるよ。ある意味、サラリーマンの鑑だ」という田中博司(一場)。「僕たち、こう見えても国家公務員なんですよ」という寺崎守と水元翼(二場)。「いわゆるOL」という真山清美と、「定職につかない」という木下優二(七場)。全ての登場人物が、どのような職業に従事しているかが語られている。これは東京青松の作品として異色である。

『あなたへ』という作品は、仕事や所属を持つ(あるいは持たない)私たちのリアルを描こうとしている。私たちにとって仕事や所属とは何だろうか。それは、自分の活動時間や労力を投入しているものである。つまり、仕事や所属を持つことは、そこに自己を投入していることなのである。

 それは自分の仕事や所属の中での労働にやりがいを持つことと関わらない。きわめつけの閑職に従事しているとしても、それを閑職と感じる自分を労働の中で生きさせているのである。このとき「職業」の中で、自己のありようを表現しているのだ。意志的な労働はなおさらだろう。

 仕事や所属に自己を投入すること。それは自分に見あう成果をそこから得ているかどうかが試されることである。仕事や所属の中で成果が問われるばかりでない。余暇を含めた自分のあり方を問われている。

 つまり、「職業」において人は、社会関係の中の自分の位置づけについて取り組むことになる。「職業」が世界観となるのはこの時にほかならない。「職業」が世界観を生むこと。このことは、仕事や所属を持たない時間にこそもっとも具体的に信じられるはずだ。

『あなたへ』という作品は、登場人物全員の仕事や所属が生む世界観を描いているわけでない。しかし、それを持つことを物語は拒否しない。このことの価値は、もっと強調されてよいと思う。

 その理由を断定的に書く。仕事や所属を主題にした多くの物語は、「選ばれた幸運」に支えられてしまう。また、それらを主題にしない多くの物語は、「職業」への自己の投入が不必要であるかに扱ってしまうのである。

 それらの物語は、自己を奮起させたりヒーリングを与えるが、世界観というリアルには至らない。つまり現在において、「職業」が世界観となる物語のリアルは不足しているのである。

 だからこそ『あなたへ』は、「職業」を世界観の環の広がりの中に含むことを使命とするようだ。本作は、寺崎守と水元翼の対話によって閉じられている。二人の対話の中に、彼らの「職業」のリアルがある。そのことを私は次回に論じよう。【次を読む】
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2006年12月01日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・2

――水元:あ、すみません。僕たち、こう見えても国家公務員なんですよ。
  田中:えっ! す、凄いですねえ。
  水元:いやいや、全然。国家公務員といっても、一般じゃあ通らない肩書きなんで。(二場)


 幽霊を成仏させる「国家公務員」という仕事。この仕事に現実的なリアルがないことは断言できる。計上された国家予算の中から組織機構が編成され、幽霊のために秘密裏に活動が行われるということはありえない。

 さらに、『あなたへ』という作品は、この「国家公務員」という仕事のリアルさを細部の設定によって補強しようとしない。「幽霊」には詳細な設定が語られており、それが「幽霊」の存在にリアリティを補強している。しかし、「国家公務員」は、彼らの所属する組織機構についての情報を不足させている。

 このような「国家公務」を実感する心を、私たちは普通持たない。このとき、「国家公務員」のリアリティは、その成員と名乗る寺崎守と水元翼の自己申告に危うく支えられることになる。彼らが互いに対する態度の「同僚らしさ」によって、彼らの意識や意図のリアルは保障されるだろう。しかしそれらは、ついに組織機構の成立条件とならない。

 この解釈の中で、「国家公務員」は作品の弱点のように映る。成立条件を持たないものが成立し、作品に組み込まれているということ。この非現実さは幽霊の物語に必要な「作品の都合」であると見える。物語を円滑に進めるための装置が露呈し、それにかりそめの設定が与えられているかのようだ。

「作品の都合」をただ受け入れる寛容さの中で、物語の豊かさを感受するやり方もある。しかし、そのように作品を捉えることは、日常のリアルを描いた『あなたへ』の可能性を殺ぐことになるだろう。「国家公務員」である寺崎守、水元翼や彼らの「国家公務」というものを感じ取ってみよう。その中で現れるのは、職業観というリアルである。【次を読む】
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2006年11月30日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(5)世界観というリアル・1

 ここまで、幽霊をめぐっていくつかのリアルを取りあげた。一口に言って、それらは異質なレベルのリアルである。しかし、同時に一つでもある。個人にとって、特にフィクションに触れる個人にとって、リアルは一つの世界観としてまとめられるからである。局所から世界へと、リアルは拡張され世界をかたどる。

『あなたへ』の幽霊をめぐるリアルがどのような世界観を形づくるのか。それは見過ごされがちな人間の心を主題としたものとなる。これを想像するとき、非現実なはずの幽霊は世界を構成する必要なピースになるだろう。その傍証をここでは略す。いま私が強調したいのは、『あなたへ』という物語の世界観の中に含まれる特徴的なかたちである。

 例えば「二章 第一部 強固な信頼とは何か(4)信頼によって生まれるもの」「二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(4)演劇というリアル」を参照してほしい。両者にあるのは、心の同期=他人の心を事実として捉えるリアルであるとまとめられる。

『あなたへ』の観客は、この両者のリアルに順に触れていくことになる。まず演劇行為の中にある「他人の心を事実と捉えること」を体感する。次に同じ現象を登場人物がリアルとして生きる場面を目撃する。さらに物語が日常生活を描くため、そのリアルが観客の現実に起き得ることを喚起させられる。

 つまり、『あなたへ』の世界観の中には、「演劇形式」「物語内容」「現実世界」三者に同形のリアルが描かれている。この相似形は暗号ではなく必然である。『あなたへ』は、「他人の心を事実として捉える」という一事を、「いまここ」と世界に通底する中心として扱っているのである。

『あなたへ』の世界観は、波紋のように広がる同心円のリアルによって構成されている。「他人の心を事実と捉える」という中心を共有するやり方で、外へ外へと向かう実感の広がりによって世界観が構成されているのである。中心から濃やかに広がる世界観を持つことは幸福である。自分と世界との緊密なつながりを強く実感できるからである。

 そして、「国家公務員」という「非現実さ」も確かにこの中心を共有している。しかしそれを「幽霊」と同じ円に含めるべきでない。本作で物語られたどんな事象よりも外側に位置づけるべきである。そのように「国家公務員」を世界観としてのリアルと捉えるとき、『あなたへ』のほとんどの観客にとって意外なメッセージを抽き出すことができるだろう。私は次回から、この最も外側の円について語ることにしよう。【次を読む】
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2006年11月29日

星屋心一の作品解説・植林三本目篇
 二章 第二部 強固な信頼を生むものとは何か(4)演劇というリアル

――寺崎:ズバッといこうか。
  田中:?
  寺崎:あんた、死んだんだよ。
  田中:えっ?(一場)

『あなたへ』の物語は、公園で所在なく佇む田中博司に寺崎守が話しかけたことで開始される。寺崎は「家を出てから誰かと喋ったか」「携帯も、つながらない」と次々に田中博司の状況を言い当てていく。寺崎にとって田中博司は幽霊以外の何ものでもない。上の引用は、そうした寺崎の把握をストレートに当人に告げる場面である。

 この場面の前後には幽霊のリアリティを支える詳細な設定がある。しかし、私はそれらを略して別の事柄を扱いたい。引用の場面は、演劇のリアルの核心を示しているように思えるのだ。

 演劇は生身の俳優が演じる物語である。演劇を見る観客は、目の前にいる彼らが俳優であることを知っている。物語の開始点でそのことは明確に意識されている。しかし、それはいつしか意識の後景に退いていく。俳優を登場人物として見るからである。

 登場人物に共感することでそのリアルは生まれていく。しかし、それは単純なプロセスではない。登場人物に共感するということは、その俳優が発するメッセージを鵜呑みにすることではないのだ。ここには、登場人物の捉え方を他の登場人物によって学ぶという精妙なプロセスがある。

 引用に戻ろう。ここで寺崎守は田中博司を幽霊として捉えている。それが表現された瞬間に、観客は単なる生身の俳優が、別の視線によって見られていることを意識する。この寺崎の視線に対して観客は理解しようとし共感を与える。このとき、生身の俳優が登場人物に変化していくのである。

 リアリティを支える詳細な設定は、このリアルの核心を補強するディテールに過ぎない。演劇のリアルの核心には、他人の視線のリアルがある。田中博司が幽霊であるのは、寺崎が彼をそのように見ているからである。つまり演劇のリアルの中では、(自分の)見えないものを見ることができるのだ。この精妙なプロセスは、幽霊というものの存在のありようと驚くほど近いのである。

(注釈として。東京青松では演劇を「心劇」、俳優を「演者」と呼んでいる。ここには、演劇や俳優が観客に直接表現を行う「物語を殺すストレートさ」というニュアンスをその語から除きたいという意図があるように思う。しかし私は一般論として演劇のリアルを扱おうとするために「演劇」「俳優」という語を用いた。)【次を読む】
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