2006年03月24日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その26 「世界へ」

  ――王子、石を載せた方の姫の手を優しく握る。
    歩いていく二人。
    誰もいない舞台に、虫の音が聞こえてくる。
    いっぱいの虫の音の中に、忍び入るように音楽。(二十二場)


 このとき、彼らはこの虫の音をどう聞いたのだろうか。姫と王子は自分たちを生かしめる世界への信仰を持っている。虫の音は、そうした世界の一つの出来事として響きわたる。この虫の音は彼らの心にどう響いたのだろうか。

 地を這う虫たちの姿は見えない。だが、彼らの奏でる音楽は彼らが世界に生きていることをはっきりと証している。既に世界の中に「見えない何か」を感受している彼らは、生命力を感じさせる虫の音に、世界の在りようを感受しただろう。

 おそらくそれは、「見えない意志」が横溢している世界のイメージである。自分たちを生かしめた「見えない何か」、虫たち、夜の風。彼らが生きる世界に無数の意志があること。そして、世界がそれらの意志を通わせて存在していること。姫と王子は世界にこのような充満したエネルギーを捉えたに違いない。

 虫の音を耳にすること。この日常的な行為によって、彼らはエネルギーの充実に触れることができる。私たちはどうだろうか。私たちは『たからもの』の虫の音をどのように聞いたか。そして、私たちは世界に何を聞くことができるだろうか。

『たからもの』で鳴り響いた虫の音を想像しよう。姫と王子が何を聴いたかに思いをこらそう。彼らの生をリアルに捉えることが、その想像を確かに生きたものとするだろう。そうして、私たちは『たからもの』の世界を耳にする。登場人物と私たちの共鳴が、世界に音を増やしていくのだ。そして、ひとたびこの耳を日常世界へ差し向けたとき、私たちは世界に見えない意志を感受することが可能となる。私たちに与えられたこの可能性こそ、この作品が与えた「たからもの」となるだろう。【次を読む】
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2006年03月23日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その25 「引き寄せられた世界」

――王子:「ん? どうしたの?」
  姫:「石。」
  王子:「うん。」
  姫:「これ、宝物にする。」(二十二場)


 姫は「石」を拾い上げた。それは「なんの変哲もない、どこにでもあるような、地味な小石」(二十場)だが、隊長がこの世界に生きた唯一の名残りでもある。姫はこの石に目を留めただけでなく、拾い上げ、それを「宝物」と呼んだ。姫は隊長が「石」になったことも知る由はない。また、隊長の記憶さえも一切とどめていないだろう。しかしそれでも、姫はかつて隊長であった石に目を留め、それを宝物にした。

 この事実は、心の自由が一つの世界を引き寄せることができる奇跡を物語る。だが姫は、引き寄せられた世界の全てに気づく訳ではない。隊長が生きていた日々やそのディテールが記憶にないからだ。「何か」大切なものが、かつての、そして現在の自分を生きさせたという心の感触のみをとどめているにすぎない。それが姫にとっての「見えない世界」の感覚である。

 似たことが王子にも言える。王子は毒を飲んで蘇生している。目覚めてみれば、そこには愛する姫がいる。このとき王子は自分の幸運を感じるだろう。もちろん、『たからもの』を観る私たちには、それが隊長の犠牲であることを知っている。しかし、王子にとってその幸運は、世界が自分に与えてくれた意味のある「何か」として感じられるはずだ。これが王子にとっての「見えない世界」の感覚である。

 つまり隊長は世界となった。隊長は、姫と王子にとって自分の貴重な生を支えてくれる「何か」となる。隊長は「見えない世界」として彼らに感受されている。このとき幸福な二人は、世界に対してともに一つの「信仰」を持つだろう。知覚を超えた現実が自分たちを祝福していると感じているはずだ。彼らはこのように、「見えない世界」を畏敬する。その感覚を終生忘れないように、姫は石を手に取る。

 石とは世界のかけらである。石は人間が手に取るほどに小さく、いつまでも所持できるほどに固い。似た石は無数にあったかもしれないが、人のいたような場所に、ぽつんと取り残された石に姫は目を留める。姫はそうすることで、いま世界に対する感覚が真実であることを確かめつづける。

 この行為に対して王子は、石を載せた姫の手を優しく握る。彼は姫の行為になんの疑問も感じていない。なぜなら、王子も世界のかけらをその内にとどめようとする気持ちは同じなのである。このとき「見えない世界」と現実世界との壁はない。彼らは、その両方が自分を生きさせることを知っている。この瞬間、彼らの心が、隊長という失われた世界を現在に引き寄せている。【次を読む】
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2006年03月22日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その24 「引き寄せられる世界」

――「ねえ、たいちょう」
  「何ですか、姫」
  「ひめねえ、おおきくなったらたいちょうとけっこんする」(序)


『たからもの』の二十二場、最後の場面で、姫は王子と歩いている。愛する者と幸福に生きる未来が姫の心を占めているだろう。しかし、満ち足りた姫の心の中に一つの空白がある。それは隊長の記憶である。例えば、スクリーンに投射された序の物語がそれである。隊長の記憶は「空白」となっている。引用にある通り、序の姫の言葉は、ひらがなで表されている。子どもの拙い言葉づかいを再現したものとも取れるが、この言葉を発する者の心や存在を不明とする効果がある。今や、姫の心は他ならぬ姫自身にとって不明である。

 この空白の不明さに思いをこらすこと。姫がそれを(たとえ無意識にせよ)行ったことは間違いないだろう。隊長が「姫が一番望んでいるのは、俺とのことじゃないんだ」(十場)と言うように、自身の幸福よりも「国」や他者の幸福を願う人間である。そのことは、結婚をめぐる騒動のさ中に、彼女が「みんなが、もっとうまくやれたらいいのに」(十三場)と呟く件でも明らかだろう。彼女は常に自分や自分が取り巻く状況が「うまくいく」ことよりも、「みんな」がうまくいくことを望んでいるのだ。「みんな」を意識した時、姫はそこに含まれてしかるべき隊長という空白を意識することになる。

 もちろん、空白に関する記憶は全て失われている。ただ、隊長に差し向けた心のあり方だけは残るはずだ。姫が心を探ったとしても、確かな意味はどこにもつかめない。しかし、「誰か」に思いを抱いたこと、それを伝えようとしたこと。そうした心のあり方だけは姫の心に刻み込まれている。姫は思いをこらすことで、この心のあり方を生き直すことになる。だから、序のひらがなは、確かな意味の全てを失いながらも、心に刻み込まれた姫の心の表現として私たちに映るのである。

 生き直された心の物語は、純粋に相手を思う心で満ちている。幸福のさ中に、別の純粋な心がふつふつと自分の中に存在していることを姫はどう捉えただろう? その詳細を私は明らかにしない。いずれにしても、姫にとってもはや世界は目に見えるものだけではなくなっている。「ふと、姫が立ち止まる」(二十二場)。この時、自分が生きる現実が知覚を超えた何ものかであることを、彼女は既に知っている。心の自由が、いま一つの世界を引き寄せている。【次を読む】
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2006年03月21日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その23 「現実という世界」

――小鬼:「そう言うなって。あんたも独り言言わずに済むだろ? けっけっけ。」
  隊長:「独り言ではない。」
  小鬼:「そりゃまあ、どう呼ぶかはあんたの自由だ。……なあ、それ何だ?」
  隊長:「ん?」
  小鬼:「話し相手だよ。」
  隊長:「ああ。宝物だ。」(五場)


 見えない世界に対して、私たちは真実何ができるのか? その答えを私は、空白に思いをこらすことだと考えている。そのことが、「見えないもの」を確かに存在せしめ、無数の世界を「いま」「ここ」に招きよせることができるのだ。考えてみれば、私たちの身の回りには「空白」が多く存在している。すぐ隣りの人物の心や、世界のどこかで起こる出来事、もはや手の届かぬ過去、そして人間の智恵の届かぬ存在など、「見えない世界」は無数にある。これらを心の中に「空白」として住まわせること。そして、その「見えない」空白に対して思いをこらすこと。

「見えない世界」の全てを把握することなど誰もできない。しかし、「見えない世界」のわずかな実在に触れることはできるだろう。その実在のかけらをこの作品は「宝物」と呼んでいる。

 引用の「宝物」とは、死んだ婚約者の写真である。隊長にとって、この婚約者の不在こそが心の空白であることは間違いないだろう。だがそれは空虚ではない。隊長は心の空白を「話し相手」として「いま」「ここ」に招きよせている。それは小鬼にとって「独り言」に見えてしまう。だが、隊長は彼女が生きた過去、彼女を愛した過去という空白に思いをこらすことで、過去という「見えない世界」を現在に引き寄せている。「いま」「ここ」に招きよせられた世界はもはや過去ではない。それは紛れもない現実として、隊長の心の中に住まうことになる。だから婚約者の写真は過去を映したものではない。それは「いま」「ここ」に婚約者が実在することを示す大切な「宝物」であるのだ。

 これを感傷に過ぎないと考えることもできる。確かにそれを「どう呼ぶか」は私たちの「自由」ではある。だが、不自由な「いま」「ここ」という現実に対して、心がどれだけ「自由」であるのかという冒険を私たちは諦めてはならない。心の自由へ向けた冒険に踏み出すこと。それをどう呼ぶか、どう捉えるかは私たちの自由であるのだ。この心の自由が、『たからもの』の奇跡を生み出すことになる。【次を読む】
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2006年03月20日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その22 「見えない世界」

  ――照明。先ほど隊長がいた辺り。
    姫と王子が歩いてくる。
    ふと、姫が立ち止まる。

  王子:「ん? どうしたの?」
  姫:「石。」
  王子:「うん。」
  姫:「これ、宝物にする。」(二十二場)


『たからもの』の最終場面には、多数の世界の存在を感じ取ることができる。

 第一の世界は、いま私たちの眼前にある「姫と王子が歩いて」いる世界である。ここでは、恋する二人に幸福な生活が約束されているように見える。第二の世界は「隊長がいた」世界である。第一の世界からはもう、隊長の記憶が消えている。王子の命と世界の交換として、隊長の全ては失われている。第三の世界は、「小鬼」が存在する世界である。「先ほど隊長がいた辺り」には、もちろん小鬼もいた。この小鬼は既に私たちには見えない。いまこの世界は、人智を超えた世界の存在がそうであるように「見えざるもの」となっている。きっとその場所から、小鬼は「宝物」の奇跡を見ているだろう。第四の世界は、姫の心の世界である。「石」を拾い上げる姫の心が何を感じたか、私たちには謎である。第一の世界からは「隊長」の記憶が消えているはずなのに、姫はかつて隊長であった「石」を見止め、それを「宝物」と呼ぶことができる。

 いま世界は、一つではない。多くの見えない世界がこの場面に召喚されている。私たちはこの場面から、見えない世界にも無数の種類が存在することを学ぶだろう。かつて生きた人の持つ世界。小鬼が表象する、人智を超えた世界。そして、目の前の人の心が抱く世界。それらの世界を感じ取ろう。そして、心に一つの問いかけをしてみよう。その答えによって、引用の場面がもたらす「宝物」の謎は消えるだろう。それは以下のようなものである。

 見えない世界に対して、私たちは真実何ができるのか?【次を読む】
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2006年03月19日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その21 「『いま』『ここ』にある世界」

――むかしむかし、どこか遠く。
  地球によく似た星の、小さな国でもお話。
  小さな国のお姫様が、お供の隊長に言いました。
  「ねえ、たいちょう」
  「何ですか、姫」
  「ひめねえ、おおきくなったらたいちょうとけっこんする」(序)


 引用の世界はどこにあるのか? これは真剣に問うべき課題である。隊長の命と記憶は既に失われている。この隊長と姫の過去の会話も同様に失われている。つまり、この世界は「もはやどこにもない」と考えることができる。だからこそ『たからもの』を観る者は、この「序」のスクリーンに投射された言葉たちに対して、既に失われた世界として、哀惜を感じるだろう。

 言葉の物語は、常に「いつか」「どこか」で起きたこととして語られる。しかし、この「むかしむかし」「どこか遠く」で起きたストーリーは、物語の中の誰の記憶からも忘れられている。だからこの言葉たちは、現実の基盤を持たずに宙に浮きあがる。それは現実から遊離する物語の定めのように浮き上がっている。「地球によく似た星」とは「物語」の別名を指すだろうか。

 しかし、この物語と私たちは出会っている。出会うどころか、私たちは隊長と姫とともに生き、同じ現実に立っていたとさえ言えるのである。隊長が生きた現実と、その隊長に対して姫が心を寄せた現実。それは私たちの記憶と心に刻み込まれている。それが失われた時に受けた哀惜という心の傷を確かめよう。その傷が過去や失われた世界のよすがであることに気づくだろう。

 だから引用の世界は「いま」「ここ」にある。心がその世界のよすがとなる。命の一つ一つが世界を持ち、そして一つ一つの心がその世界とつながることができる。心が持つ世界は、そして物語も、けっして孤独に存在するのではない。それらは心をよすがとして私たちの前にある。そうして、「どこか遠く」にある世界を「いま」「ここ」へと引き寄せることができるのだ。遠い世界を「いま」「ここ」に感じること。それが姫の起こす奇跡に確かな実質を与えるだろう。【次を読む】
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2006年03月18日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その20 「失われた世界」

――小鬼:「忘れねえよ、あんたのことは。忘れねえ。」
  隊長:「俺もだ。」
  小鬼:「あばよ。」
  隊長:「ああ。元気でな。」

    暗転。
    暗い中、小鬼の泣き声、かすかに。(二十場)


    照明。魔女の家。
    姫、王子を抱いている。

  王子:「どうして泣いてるんです?」
  姫:「!」
  王子:「へへへへへ。」
  姫:「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」
  王子:「痛い、痛いよ。」(二十一場)


 暗転を挟んだこれらの引用の間に、隊長の命は失われている。隊長の願いの通りに王子が生き返ったことが何よりの証だ。隊長は「なんの変哲もない、石ころ」になっているだろう。そして隊長に関する記憶は(小鬼を除いて)誰からも忘れられているだろう。だから王子と姫は屈託なく笑うことができる。その生の喜びを与えた犠牲を、彼らは知ることがない。

 この時、世界は二つに分岐している。もちろんそれは隊長の存在した世界と、存在しない世界である。一方の世界では小鬼が泣いている。もう一方では王子が笑う。それは対照的な世界である。隊長の意志と、小鬼の能力によって、一方の世界には不幸の影は消えてしまったかのようである。命を賭けた冒険が、一つの幸福なエンディングを生み出したのである。

 一つの命が一つの世界を持つこと。この事実を『たからもの』の「魔法」は表現している。命を移動すれば誰からも記憶が失われるというルールは、命が一つの世界を持つと考えれば分かり易い。それは単に命の交換ではなく、命が持つ世界の交換なのである。つまり一度失われた命を蘇らせるためには、そこで失われた世界さえも復元しなければならない。このとき、願う者が持つ世界さえも、交換の犠牲に捧げられなければならないのだ。

 世界は分岐する。それは失われた命が持つ世界と、今ここにある世界である。たった今一つの世界が失われてしまった。だが、失われた世界は想像できる。このとき、もはや『たからもの』の世界は過剰である。一つ一つの命が世界を持つということ。その過剰な世界たちが一つのファンタジーを生み出す。真新しい世界の到来が起こす事件を私たちは奇跡と呼ぶ。その奇跡が、犠牲の上からなるエンディングの後に、真新しいエンディングを生み出すのである。【次を読む】
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2006年03月17日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その19 「誰がための世界」

――隊長:「そうだ。お前はどうなる?」
  小鬼:「何だよ。」
  隊長:「お前も俺のことを忘れるのか?」
  小鬼:「……ああ。」
  隊長:「そうか。寂しくさせるな。」
  小鬼:「忘れちまうんだ。寂しいもへったくれもあるかよ。だいたい、人間の世の中を笑って見るのが、俺なんだぜ。」(二十場)


 小鬼は嘘をついている。そのことは、「少し離れた場所」から彼らの心を感じている私たちには明らかであろう。小鬼が隊長のことを「忘れる」ことは決してない。そしてこの出来事を小鬼が「笑って見る」ことなどないだろう。小鬼の心は隊長が全てを失うことに対して切り裂かれている。そしてその事実を表面的には隠そうとしている。

 誰のためにその事実を隠そうとしているのだろうか。引用の後半を見れば、それは本心を見せない強がりのように見える。自分の不様さを見せたくないという意味で、それはエゴイスティックな行動だと考えることもできるだろう。そしてもう一方は、隊長への優しさである。相手に自分が苦しんでいる事実を伝えないことで、余計な心労を与えないためのわずかばかりの配慮である。

 そのどちらもが本心となるだろう。隊長が命を失うというのに、彼にはできることがない。小鬼にとって、自分の全ての行動はエゴイスティックなものにすぎないのだ。そして、そうであっても隊長の心をいたわろうとすること。つまり小鬼の心は「自分のため/隊長のため」という対極に同時に立つ。その混乱の中に、小鬼の心はある。

 小鬼の引き裂かれた心は、私たちの心と何ら変わりがないものだ。誰かの心のために全てを失うことを選んだ隊長よりも、小鬼の心は私たちの心と近い。自身がみじめなエゴイストと映じているさ中にも、それは誰かのためにある心でもある。小鬼の混乱はこのとき、私たちの心に映じる世界のあり方を雄弁に伝えている。それは、自分のためと相手のためにある世界である。世界が、私たちのためにあるということ。隊長が全てを失う間際に、その真実こそが私たちの心をも切り裂くだろう。【次を読む】
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2006年03月16日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その18 「心から世界へ」

――隊長:「ここの石になるのか?」
  小鬼:「ああ。」
  隊長:「そうか。」

    隊長、辺りを眺める。地面、木々、そして。

  隊長:「いい月だな。」
  小鬼:「……。」
  隊長:「いいところだ。虫の声も聞こえる。」
  小鬼:「……。」(二十場)


 何という穏やかさだろうか。隊長は全てを失うというのに、彼の心には後悔や恐怖の影は見当たらない。まるで旅行者のように、「辺り」の自然を愛でているのである。姫の心を救う一つの意志となった隊長にとって、自我への固執は既に捨て去られている。

 それだけではあるまい。隊長の「最期の場所」となるこの「魔女の森」には、「地面」「木々」「月」「虫の声」がある。これらが隊長の心を穏やかにさせている事実は見逃せない。ここには悲壮な覚悟はなく、その自然の中で自分の居場所を見定めているようだ。

 想像しよう。隊長の眼に映じた世界を。いま消えようとする隊長の「心」の前にはかくばかりの世界が拓けている。それは隊長の心とは無縁のようであり、それを包むようである。それは確かに私たちの目に映じる自然と同じものであるだろう。

 自身の心がたとえ消えたとしても、世界があるという事実。そこには残酷さばかりではなく、一つのやすらぎがある。たとえ「みんなから」忘れられたとしても、いま自身が生きている事実は、この世界の実在が確認させてくれるのである。

 隊長は世界からこの事実を教わっている。だからこそ「姫の泣き声がなくなれば、最高だ」という言葉さえ、その直後には呟かれる。確かな世界の中で、自身のすべきと信じるわずかな行為をなそうとする。心から世界の中にある自分自身を見出しているのだ。隊長の意志はそのような境地にたどりついている。付け加えれば、その世界の実在を信じなければ、この物語の結末を本当に信じることなどできないだろう。【次を読む】
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2006年03月15日

星屋心一の作品解説・植林二本目篇
 その17 「輝く心」

――隊長:「だったら、それでいい。姫が悲しむのは、もうたくさんだ。それがたとえ、ほんの少しでもな。」
  小鬼:「そんな……。」
  隊長:「で、俺の体はどうなる? 命が抜けた後は。」
  小鬼:「石になる。」
  隊長:「どんな?」
  小鬼:「小石だよ。なんの変哲もない、どこにでもあるような、地味な小石になっちまう。」
  隊長:「ここの石になるのか?」
  小鬼:「ああ。」
  隊長:「そうか。」(二十場)


 既に隊長は「王子を生き返らせる」という願いを叶える時、自身の「命が無くなる」ことを理解している。小鬼はさらに願いに関する残酷なルールを告げた。「命が無くなる」ばかりか、隊長は誰からも忘れられて「いなかった人」になってしまうのである。そして隊長は「それでいい」と答えた。姫の心を悲しみから救うために、彼は全てを失おうとしている。

 この引用の直前、隊長は「俺がいなくなったことを知ったら、姫は悲しむかな?」という疑問を口にする。これは愚問だろうか。誰も「いなかった人」に対して感情を持てるはずはないのだから。しかし、そのことをあえて確認した隊長の意志は純粋である。自身の全てが失われるというのに、隊長は姫の「悲しみ」が生じる可能性をまず懸念しているのだ。「姫が悲しむ」ことがなければ「それでいい」のである。

 そして、「俺の体はどうなる?」と言う隊長は、もはや「体」を持たない人間のように問い尋ねている。「体」が消えたとしても、ただの「肉塊」となり果てたとしても、隊長はそれを平らかに受け容れただろう。自身に関する執着はもうない。ここにあるのは他者へ向けての純粋な意志である。自己犠牲さえ、ここでは重大事ではない。意志が望んだ一つの願いを叶えること。そして、その他の全ては埒外に置かれている。ちっぽけな人間にできる最大の冒険を、彼は果たそうとしている。

 だがやはり、意志そのものであるかのような隊長が埒外においてしまった、他の全てはあまりにも大きい。姫の心へ向けた優しい意志が、今もう一つの心を傷つけている。それは小鬼の心である。小鬼が隊長に生きて欲しいと思っていることは明白である。にもかかわらず、自らの能力で隊長の「命が無くなる」のだ。小鬼の心は、自殺幇助を行う者のように引き裂かれていくだろう。隊長が姫を思いやるほどに、眼前にいる小鬼の心は無視されなければならないのだ。

 これが人間の行為の限界である。自身を含めた全てと引き替えに何かを願ってしまえば、彼を愛するものの心は残酷に切り捨てられてしまうのだ。その事実を隊長がどのように受け止めたかは分からない。けれども、隊長の心はそこには立ち止まらない。自身や自身を思いやる心さえ捨てて、彼は一つの意志を叶えていく。何もせずに傍観していることは「もうたくさん」なのである。

 隊長が「なんの変哲もない、どこにでもあるような、地味な小石」になることは、この意味で似つかわしい。彼はヒーローではない。誰かに優しくすることさえも、多くの犠牲と引き替えにしなければならない不完全な存在である。彼は「なんの変哲もない」人間である。その「なんの変哲もない」人間が思いを遂げようとして行為する。残酷な世界のルールに対して、相反する心たちの中で、それでも自分になすべきだと信じる行為を実現する。これが人間の冒険である。繰り返そう。彼は私たちと同じ人間である。だからこそ彼のなしうる行為が私たちの眼を開くのだ。その「地味な」輝きを見誤ってはならない。【次を読む】
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